爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-40

2014年07月21日 | 11年目の縦軸
16歳-40

 希望の存在が鼻についた。いつまでも、どこまでも半永久的に絶望の毛布で覆われていたかった。希望を高らかに歌い上げる夢見るミュージカル・スターの卵が憎らしかった。そうする根拠も恨みもないのに。ぼくの夢は過去のあの日、棺桶のなかに無雑作に放り投げられ、四隅を釘で頑丈に打ちつけられていた。さらに漆喰が何重にも塗られ、開けることも取り出すことも不可能だった。

 だが、若者にとって、希望は常に善なのだ。春は新しく、その勢いに負けないエネルギーを自分自身が発していることに気付きもしないのだ。

 すると夢は他人に依存しているのか? 責任と加担をどこで区分けするのだろう。厳密には分からない。ぼくは分からないものを自分のこころに問いかけている。

 ぼくと彼女は他人になっている。いま、自分自身で言ってしまった。口にしたことには責任が生じる。つい、という軽薄さをともなっていたとしても。

 反対にまったくの絶望もなかった。死のために、あの時代のあの場所で隔離されたユダヤ人のひとりも希望についての書をのこしているのだ。ぼくはそれに感銘を受ける。同じ境遇に置かれることなど絶対に否定したい気持ちをもちながら。

 ぼくの絶望も、ぼくの隔離も、囚人服の着用がないために周りには理解されないでいる。数字のタトゥーも腕やその他の場所に存在しない。自由に近い感覚がある。拘束はひとりの女性が作った。ずっとその拘束内にいることもまた望んでいた。

 だが、Tシャツの襟周りは伸び、ベルトもひび割れたり、穴もダメになったりする。永久というのもどこにもない。天国や地獄という観念は永久なのだろうか。ぼくはこの場をどうにかしなければいけないくせに、どうでもよいことを考えていた。

 挫折、失敗、絶望、焦り。月夜。マイナスに導く言葉を並べ上げる。

 成功、希望、承認、未来、明滅。太陽。普段の若者はこれらの具体的な現象を信じているのではないのだろうか。希望は常に正しい側にいる。失恋というのは、では正しくないのか。不当なことなのか。深い穴に放り込めば済む話なのか。ぼくは、やはり、これも正しい状態だと思っている。そう思わなければ、このぼくの存在は無になった。無でもかまわないが、ぼくには、もう少しやることがありそうだった。

 やること? やるべきこと? 真っ先に浮かぶのは、彼女を取り戻すこと。でも、ぼくはそれに通じる道を知らない。いや、やろうとしていない。急にホームランが打てるわけではない。地道な素振りが必須なのだ。それを怠っている。結果、空振りする。さらに分析してこころの奥をたどれば、空振りする機会さえ与えようともしていないのが事実だった。立ち止まることも不可能で、不得手な若者たち。

 絶望は鼻につかないのか? そんなこともないだろう。否定的な言葉ばかりを口に出せば疎んじられる。どんな行為も報酬を、プラスともマイナスとも変更させる融通性のあるものを報いとして得る必要がある。ぼくはそれを事前に、自身に害が及ばないように防御する。ぼくは滑稽さの鎧と仮面を手にしているのだ。誰をもこころの奥に入らせないため、冗談をカーテンの役目にする。ある種の皮肉屋になり、何事も真正面から受け止めなくなった。斜めや裏側から世界を見れば、ぼくを傷つけるほど力が有りそうなものは何一つなかったのだ。めでたし。

 こういう状態でぼくは友人たちと遊んでいる。新しい恋人をすすめるような類いは皆無だった。みな、どれほどの真剣さで相手を求めているのかがぼくにはもう分からなかった。周囲は欲求だけで、成り立っているようだったし、若者には、欲求もある程度は善の側にいた。修道院にいる女性を愛そうとしている訳でもなかった。

 ぼくは隔離されている。不本意ながら、見えない修道院のようなものに住まいを変えている。出入りを許されたのはある種の本や映画だった。ぼくはページを開く。自分がどれほどの紙をめくり、どれだけの数の印刷された文字を読んだかを夢想する。そして、ぼくはいまこうして加害者の側に立つことになった。欲求の亜流を希求したわけでもなかったのに。

 本は善だった。失敗も失恋もその世界では充分に存在意義があり、許されていた。成功体験と努力(自慢に陥る傾向が常にある)の有意義性はあるときまでビジネス書だけに留まっていたが、そのうちに、本屋の陳列台の中心にまで居場所を広げることになった。物語は、もっとやぶれかぶれでいいのだ。血と汗と涙がまぎれても、滲んでもいいのだ。

 絶望を肯定する。失敗に衣装を着せる。耐えられる程度の失敗のストックは、ぼくのこの日には財産に化けてしまっている。やはり、損害ばかりではないのだ。失敗の土壌ですら高貴な希望の芽が含まれているのだ。

 そう思っても物事を斜にとらえることは完全にぼくの一部になってしまった。賢さを皮肉のフィルターを通さないことにはレンズも有効にならなかった。そこにも希望がある。絶望はとなりの畑の養分にでもなるため流れ出てしまった。絶望からも唄がうまれる。ブルースもいつか、希望の歌に聞こえ出す。泣いたカラスも笑う。壁のなかに閉じ込めた抑圧者の権力も崩れる。だが、傷も傷でそれなりに機能する。