16歳-39
継続して何かを身につければならない年齢なのに、既に十五、六にして半年間の短い間ですら保たせているものがひとつもなかった。しかし、この苦しみだけが永続性を与えられるようだ。負の勲章。人間という矛盾した生き物。
それだけ本気だったのだ。失わないと大事なことすら分からなかった愚かな生き物でもあった。
この引き摺り、かつ晴々れとしない鬱々とした感情はいったいどこから来たのだろう? ぼくと同じであろう血液が流れている兄弟には、薄められて投入されているのだろうか? 開けた自室の横の廊下を通る兄の何番目かの彼女を眺めながら、ぼくはそう思う。レンガで家を作ったりする側もいれば、もっと燃えやすい素材で目論見もなく、堅牢ではないことに甘んじる兄弟もいるのだ。それも含めての受取りを拒否できない個性だ。
はっきりと終わっているという事実は認めている。認めないほど自分は意固地でもなければ、賢くないわけでもなかった。だが、もし賢いならば、やり直すなり、立ち直る方法をたくさん見つけられるはずだった。その点ではずっと愚かでありつづけようと思っていた。
ぼくは自分自身の記憶を厄介払いする、という変な表現を頭に浮かべる。放すということは、簡単なはずだった。つかまえていないから、もう放しているとも説明できた。手放したものを、放せない。するとぼくの苦しんでいることの対象はどこにあるのだろう。実体は、どういうものなのだろう。
ぼくは本を読んでいる。自分に起こった悲恋と同じようなものを探して。生きるというのは、どれほどの不幸の分量が混ざっているのが妥当なのかと、サンプルを探して。しかし、表向きの理由とは別に、その行為自体に永続性が生じる。
ぼくはスポーツに興じ、衝突や諍いごとを腕力で片付けている頃より、当然、思案深くなった。生意気な気持ちは影をひそめ(程度の問題)、簡単に解決しないことが世の中にあることを知る。これが本来の自分だと思い込もうとすれば、そうも言えた。生き別れの双子の兄弟の異なった成長した姿のように。
自分はどういう人間になるべきなのだろうかと空想した。空想の範囲を超えることはないが、それでも、考えない訳にはいかなかった。見返すという発想などぼくにはなかった。ぼくは捨てられた立場にもいない。なんだか、終わらせてしまったという中途半端な立地点から離れられなかった。靴のひもがいつの間にか緩んでほどけてしまったみたいなあっけなさで。
既に学問を習得するレールにはいなかった。女たらしになるには生真面目過ぎた。そして、行動的ではなくなり、思索のほうに向きはじめてしまっていた。
不運は賢くなるきっかけとしては構造としても、動機としてもよくできていた。すべて台無しにする可能性も充分に内包しているが、ぼくは悲観的になりながらも肯定する術を知っていた。身体は元気で、苦しみは内部にだけとどまっていた。
ぼくの十六才を知っている女性は、これからも話すことはないが確かにいた。ぼくの十七才を知る女性はいまのところはいない。ぼくの思案も、どこにも書き留めなければ、きっとないも同然だった。ギターを弾けるわけでもない。音程のない鳥は鳴けない。自分の痕跡をのこすにはどういう媒体が似合っているのだろう。なぜ、ぼくはそもそも自分の生きた証をのこす必要性を感じているのだろう。運命の岐路に立つカエサルでもなく、歴史の危うさを熟知したチャーチルでもないのに。
ぼくは模範を探そうとする。若者は兄貴分のような存在から吸収するのだ。だが、ぼくが向かいたい場所には前例となってくれるひとが近場にいなかった。模索する日々。ぼくは段々と芸術という分野に惹かれていく自分を感じる。
遅いということはない。反対にすれば、早いということもなかった。タイミングというのはすべて丁度なのだ。ぼくを思案深くするための段差や石は、その役目をきちんと果たしてぼくをつまずかせた。もっとひどかったかもしれない。転んで、すり傷をいたるところに作った。ぼくはこうして進路を阻まれて立ち止まらなければならず、うめきながらも賢さへとつながる道の切符をつかみながら、手当も受けずに立ち上がろうとしていた。これは誰のためでもなかった。彼女にまた会った時に立派な男性になっていようという思いもなく、先ほども言ったが、見返すというあわれな気持ちにも該当せず、ただ自分のこころに灯った炎のふさわしい帰結点と予兆だった。ぼくはこれをきちんと管理し、制御し、消えないようにしようと願った。大人というのはただでは起き上がらないのだ。ぼくも大人への第一歩をやっと踏み出すのだ。
ぼくは未練というものを抹消し、根絶できないであろうが、もう彼女に電話することはないであろうと考える。ぼくの青い日々を知る異性も見つけられなさそうだが、低空飛行の時代だと自分の焦りをむりやりに納得させる。ぼくはその埋められた土管のなかのような場所で何かを習得しなければならない。ぼくの身の回りでは、この価値の正当な地位を判断できるひとは皆無かもしれない。だが、味方など、もうおそらく必要ではなかった。ぼくの味方はひとりだけだったのだし、そのひとりもぼくとは縁が切れてしまった。いつか、ふさわしいひとと出会えるかもしれないが、この時以前のぼくとは別人であり、こころだけでも整形(美へなのか醜へなのか)されてしまったぼくのアンドロイドのようなものかもしれない。不満足でも、その未来の恋人には我慢してもらうしかない。
継続して何かを身につければならない年齢なのに、既に十五、六にして半年間の短い間ですら保たせているものがひとつもなかった。しかし、この苦しみだけが永続性を与えられるようだ。負の勲章。人間という矛盾した生き物。
それだけ本気だったのだ。失わないと大事なことすら分からなかった愚かな生き物でもあった。
この引き摺り、かつ晴々れとしない鬱々とした感情はいったいどこから来たのだろう? ぼくと同じであろう血液が流れている兄弟には、薄められて投入されているのだろうか? 開けた自室の横の廊下を通る兄の何番目かの彼女を眺めながら、ぼくはそう思う。レンガで家を作ったりする側もいれば、もっと燃えやすい素材で目論見もなく、堅牢ではないことに甘んじる兄弟もいるのだ。それも含めての受取りを拒否できない個性だ。
はっきりと終わっているという事実は認めている。認めないほど自分は意固地でもなければ、賢くないわけでもなかった。だが、もし賢いならば、やり直すなり、立ち直る方法をたくさん見つけられるはずだった。その点ではずっと愚かでありつづけようと思っていた。
ぼくは自分自身の記憶を厄介払いする、という変な表現を頭に浮かべる。放すということは、簡単なはずだった。つかまえていないから、もう放しているとも説明できた。手放したものを、放せない。するとぼくの苦しんでいることの対象はどこにあるのだろう。実体は、どういうものなのだろう。
ぼくは本を読んでいる。自分に起こった悲恋と同じようなものを探して。生きるというのは、どれほどの不幸の分量が混ざっているのが妥当なのかと、サンプルを探して。しかし、表向きの理由とは別に、その行為自体に永続性が生じる。
ぼくはスポーツに興じ、衝突や諍いごとを腕力で片付けている頃より、当然、思案深くなった。生意気な気持ちは影をひそめ(程度の問題)、簡単に解決しないことが世の中にあることを知る。これが本来の自分だと思い込もうとすれば、そうも言えた。生き別れの双子の兄弟の異なった成長した姿のように。
自分はどういう人間になるべきなのだろうかと空想した。空想の範囲を超えることはないが、それでも、考えない訳にはいかなかった。見返すという発想などぼくにはなかった。ぼくは捨てられた立場にもいない。なんだか、終わらせてしまったという中途半端な立地点から離れられなかった。靴のひもがいつの間にか緩んでほどけてしまったみたいなあっけなさで。
既に学問を習得するレールにはいなかった。女たらしになるには生真面目過ぎた。そして、行動的ではなくなり、思索のほうに向きはじめてしまっていた。
不運は賢くなるきっかけとしては構造としても、動機としてもよくできていた。すべて台無しにする可能性も充分に内包しているが、ぼくは悲観的になりながらも肯定する術を知っていた。身体は元気で、苦しみは内部にだけとどまっていた。
ぼくの十六才を知っている女性は、これからも話すことはないが確かにいた。ぼくの十七才を知る女性はいまのところはいない。ぼくの思案も、どこにも書き留めなければ、きっとないも同然だった。ギターを弾けるわけでもない。音程のない鳥は鳴けない。自分の痕跡をのこすにはどういう媒体が似合っているのだろう。なぜ、ぼくはそもそも自分の生きた証をのこす必要性を感じているのだろう。運命の岐路に立つカエサルでもなく、歴史の危うさを熟知したチャーチルでもないのに。
ぼくは模範を探そうとする。若者は兄貴分のような存在から吸収するのだ。だが、ぼくが向かいたい場所には前例となってくれるひとが近場にいなかった。模索する日々。ぼくは段々と芸術という分野に惹かれていく自分を感じる。
遅いということはない。反対にすれば、早いということもなかった。タイミングというのはすべて丁度なのだ。ぼくを思案深くするための段差や石は、その役目をきちんと果たしてぼくをつまずかせた。もっとひどかったかもしれない。転んで、すり傷をいたるところに作った。ぼくはこうして進路を阻まれて立ち止まらなければならず、うめきながらも賢さへとつながる道の切符をつかみながら、手当も受けずに立ち上がろうとしていた。これは誰のためでもなかった。彼女にまた会った時に立派な男性になっていようという思いもなく、先ほども言ったが、見返すというあわれな気持ちにも該当せず、ただ自分のこころに灯った炎のふさわしい帰結点と予兆だった。ぼくはこれをきちんと管理し、制御し、消えないようにしようと願った。大人というのはただでは起き上がらないのだ。ぼくも大人への第一歩をやっと踏み出すのだ。
ぼくは未練というものを抹消し、根絶できないであろうが、もう彼女に電話することはないであろうと考える。ぼくの青い日々を知る異性も見つけられなさそうだが、低空飛行の時代だと自分の焦りをむりやりに納得させる。ぼくはその埋められた土管のなかのような場所で何かを習得しなければならない。ぼくの身の回りでは、この価値の正当な地位を判断できるひとは皆無かもしれない。だが、味方など、もうおそらく必要ではなかった。ぼくの味方はひとりだけだったのだし、そのひとりもぼくとは縁が切れてしまった。いつか、ふさわしいひとと出会えるかもしれないが、この時以前のぼくとは別人であり、こころだけでも整形(美へなのか醜へなのか)されてしまったぼくのアンドロイドのようなものかもしれない。不満足でも、その未来の恋人には我慢してもらうしかない。