16歳-36
家族で海水浴に来ていた。クーラー・ボックスには冷えたジュースが入っていた。満載といってもいいぐらいに。ぼくはもっと冷やそうと一本のサイダーを取り、浅瀬の砂の中に缶を埋めた。後ろを向き、少し経ってから振り返って柔らかな水のなかの地面を掘り返すと、それはもうどこにもなかった。跡形もなく消えていた。波はやってきて、自分の家に戻るときに多くのものをついでにお土産にすることを知った。だが、ぼくはその自然の大いなる作用にただ戸惑っていたばかりだ。ふざけて失くしたことを叱られもせずに、もう一本のジュースをもらった。今度は大事にしよう、手から片時もはなさないようにしようと誓うように缶を開けて口を近付けた。あの誓いの有効期限は過ぎてしまったようだ。
一度、失いかけたものを再度、手にする喜びに焦がれているのだろう。痛烈な喪失を経なければ、大事なものが分からないという鈍感さに惑わされていた。
バイトが終わり、地元の駅に着く。古着のジーンズがそのころのぼくの制服のようなものになっていた。ある喫茶店の前でぼくに手を振る女性がいる。小柄なシルエット。ぼくは視力が悪いが、メガネを日常的にはめていなかった。下級生? 通り過ぎてしまったが名残惜しくぼくはそこまで戻った。
女性がふたりいた。なぜ、ぼくは見過ごすようなマネをしてしまったのだろう。何度も思い描いた女性なのに。目の前にいなくても執拗に思い描いた姿や場面は数え切れないぐらいあったのに。そこはふたりで一度、入った店だった。彼女は、ぼくに偶然、出会えたためなのか、うれしそうな様子をしている。彼女の横にいる友人は一歩、退いて会話に入らないという誓いを立てたようだ。
何度も思い描いたはずなのに、彼女がこれほど小柄であったことも忘れている。ぼくはそのことを告げる。忘れたことではなく、小柄なことの方を。彼女は笑った。ぼくのいちばん見たかった笑顔でもある。
彼女は誰のものでもない。ないのだろうか。
まだあの小さな身体はぼくを刺激し、揺さぶる力を存分にもっていた。ぼくの恋は終わってもいなかったし、完結とも呼べる状態にない。継続していた。本人も知らないところでまだ生きていた。
ぼくは彼女の次の交際相手をうらみかけた自分を恥じた。ぼくらの間にはどんな些細な隙間もなかったのだ。昨日、最後の電話をしたような自然さがふたりにはあった。信頼とは、はじめて手にする信頼とはこのようなものなのだろうか。
ぼくは上手くいっていた、順調にすすんでいた日ではなく、この日の、この瞬間に戻りたいと願っている。台風で落下した無傷のりんごを拾って丁寧に拭い、実ったよろこびに感謝するのだ。ぼくには言うべき言葉がたくさんある。彼女も了承する機会、うなずくことが与えられる。問題を乗り越えたよろこびこそ、ぼくらにふさわしいのではないのだろうか。ぼくは数日後にたまらず電話をする。無言の時間が神経を病ませる。結局、語るべきだったはずのセリフを口に出さないという決断をする。喉元で終わった言葉にならなかったものをぼくは感じられるが、世間は認めない。ここでいう世間とはいったい何であろうか。ぼくは形のないものに責任を押し付けようとまだ懲りずにしていた。
問いかけもなければ、当然、答えもない。ぼくが聞きたい答えは電線を通っても与えられない。
なにが、それほどに気弱にしたのだろう。一度、関係が終わっているのだから、恥もなにもなかった。終わったものが、終わっただけになるのだ。どう考えても問いにはプラスしか発生しない。減ることなど何一つなかったはずだ。
いや、ぼくの無駄なプライドが折れる。折れても、また今後、何度も折ったが、ここで経験をしても良かったのだ。
ぼくは受話器を置く。再会から訪れた微妙な変化とチャンスをぼくは無惨に放り投げる。
持ち主のいないビーチ・サンダルが海岸に落ちている。
今年は終わるのだ。
ぼくがこの瞬間に戻りたいといったのは、この決断を覆すことを可能にするためだ。頭を下げて、もう一度、交際のお願いをする。ためらう彼女。ふたりともにやり直すチャンスが与えられる。ぼくの望んだ物語となる。希美もいない世界。絵美のいない世界。ぼくは引き換えにそれらを提供しなければならない。する覚悟もあるが、もうどうにもならない。
冗舌さもいらなかったのだ。ただのほんの数語だけで運命が変わったかもしれない。その選択の結果がいまの自分であり、わずかながらも愛着がある。その意気地のない自分を好きになってくれた未来の女性がふたりいる。誰しもが過去を塗り替えてしまったら、支流が多過ぎてしまう。人間など芯が一本、本流が、太い本流があればいいのだ。
あの日のぼく。小柄な彼女。ふたりは会う。別のプログラム。五つの横線がつらなる紙はまっ白なままで、記されることのなかった九作目のシンフォニー。ふたりの再会からの歩みのひとつひとつが、小さな音符なのだ。休符という記号が延々とひたすらつづく不格好な傑作をぼくは生む。
落とされた爆弾。壊滅状態の都市。またひとが住むようになる。緑がところどころに生える。成長する。過去の記憶など覆い尽くして美となる。ふたりのベンチ。ふたりの最初のキスの場ともなる公園。
ぼくは過去に大切なものを置き忘れたが、停まった時計もまたぼくの大事な財産でもあった。
家族で海水浴に来ていた。クーラー・ボックスには冷えたジュースが入っていた。満載といってもいいぐらいに。ぼくはもっと冷やそうと一本のサイダーを取り、浅瀬の砂の中に缶を埋めた。後ろを向き、少し経ってから振り返って柔らかな水のなかの地面を掘り返すと、それはもうどこにもなかった。跡形もなく消えていた。波はやってきて、自分の家に戻るときに多くのものをついでにお土産にすることを知った。だが、ぼくはその自然の大いなる作用にただ戸惑っていたばかりだ。ふざけて失くしたことを叱られもせずに、もう一本のジュースをもらった。今度は大事にしよう、手から片時もはなさないようにしようと誓うように缶を開けて口を近付けた。あの誓いの有効期限は過ぎてしまったようだ。
一度、失いかけたものを再度、手にする喜びに焦がれているのだろう。痛烈な喪失を経なければ、大事なものが分からないという鈍感さに惑わされていた。
バイトが終わり、地元の駅に着く。古着のジーンズがそのころのぼくの制服のようなものになっていた。ある喫茶店の前でぼくに手を振る女性がいる。小柄なシルエット。ぼくは視力が悪いが、メガネを日常的にはめていなかった。下級生? 通り過ぎてしまったが名残惜しくぼくはそこまで戻った。
女性がふたりいた。なぜ、ぼくは見過ごすようなマネをしてしまったのだろう。何度も思い描いた女性なのに。目の前にいなくても執拗に思い描いた姿や場面は数え切れないぐらいあったのに。そこはふたりで一度、入った店だった。彼女は、ぼくに偶然、出会えたためなのか、うれしそうな様子をしている。彼女の横にいる友人は一歩、退いて会話に入らないという誓いを立てたようだ。
何度も思い描いたはずなのに、彼女がこれほど小柄であったことも忘れている。ぼくはそのことを告げる。忘れたことではなく、小柄なことの方を。彼女は笑った。ぼくのいちばん見たかった笑顔でもある。
彼女は誰のものでもない。ないのだろうか。
まだあの小さな身体はぼくを刺激し、揺さぶる力を存分にもっていた。ぼくの恋は終わってもいなかったし、完結とも呼べる状態にない。継続していた。本人も知らないところでまだ生きていた。
ぼくは彼女の次の交際相手をうらみかけた自分を恥じた。ぼくらの間にはどんな些細な隙間もなかったのだ。昨日、最後の電話をしたような自然さがふたりにはあった。信頼とは、はじめて手にする信頼とはこのようなものなのだろうか。
ぼくは上手くいっていた、順調にすすんでいた日ではなく、この日の、この瞬間に戻りたいと願っている。台風で落下した無傷のりんごを拾って丁寧に拭い、実ったよろこびに感謝するのだ。ぼくには言うべき言葉がたくさんある。彼女も了承する機会、うなずくことが与えられる。問題を乗り越えたよろこびこそ、ぼくらにふさわしいのではないのだろうか。ぼくは数日後にたまらず電話をする。無言の時間が神経を病ませる。結局、語るべきだったはずのセリフを口に出さないという決断をする。喉元で終わった言葉にならなかったものをぼくは感じられるが、世間は認めない。ここでいう世間とはいったい何であろうか。ぼくは形のないものに責任を押し付けようとまだ懲りずにしていた。
問いかけもなければ、当然、答えもない。ぼくが聞きたい答えは電線を通っても与えられない。
なにが、それほどに気弱にしたのだろう。一度、関係が終わっているのだから、恥もなにもなかった。終わったものが、終わっただけになるのだ。どう考えても問いにはプラスしか発生しない。減ることなど何一つなかったはずだ。
いや、ぼくの無駄なプライドが折れる。折れても、また今後、何度も折ったが、ここで経験をしても良かったのだ。
ぼくは受話器を置く。再会から訪れた微妙な変化とチャンスをぼくは無惨に放り投げる。
持ち主のいないビーチ・サンダルが海岸に落ちている。
今年は終わるのだ。
ぼくがこの瞬間に戻りたいといったのは、この決断を覆すことを可能にするためだ。頭を下げて、もう一度、交際のお願いをする。ためらう彼女。ふたりともにやり直すチャンスが与えられる。ぼくの望んだ物語となる。希美もいない世界。絵美のいない世界。ぼくは引き換えにそれらを提供しなければならない。する覚悟もあるが、もうどうにもならない。
冗舌さもいらなかったのだ。ただのほんの数語だけで運命が変わったかもしれない。その選択の結果がいまの自分であり、わずかながらも愛着がある。その意気地のない自分を好きになってくれた未来の女性がふたりいる。誰しもが過去を塗り替えてしまったら、支流が多過ぎてしまう。人間など芯が一本、本流が、太い本流があればいいのだ。
あの日のぼく。小柄な彼女。ふたりは会う。別のプログラム。五つの横線がつらなる紙はまっ白なままで、記されることのなかった九作目のシンフォニー。ふたりの再会からの歩みのひとつひとつが、小さな音符なのだ。休符という記号が延々とひたすらつづく不格好な傑作をぼくは生む。
落とされた爆弾。壊滅状態の都市。またひとが住むようになる。緑がところどころに生える。成長する。過去の記憶など覆い尽くして美となる。ふたりのベンチ。ふたりの最初のキスの場ともなる公園。
ぼくは過去に大切なものを置き忘れたが、停まった時計もまたぼくの大事な財産でもあった。