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物語の連鎖
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11年目の縦軸 16歳-34

2014年07月03日 | 11年目の縦軸
16歳-34

 ぼくは画家になるべきだったのだ。彼女の追憶のためだけにでも。

 もう四月になっている。季節は、どれほど女々しく悲しもうが、目一杯、存分に楽しもうが容赦なく動いていくものである。楽しい方がいくらか早く感じる。体感的に。ぼくはスーパーと文房具屋の間の道路で、スクーターに乗る彼女を見かける。ぼくらは同じ町に住んでいるのだ。邂逅があっても不思議でも奇跡でもない。まだ、頭を覆うヘルメットは常用しなくても良い時期だった。短い髪の彼女の髪は風になびくこともすくないが、それでも、その程度で魅力が簡単に軽減するわけでもなかった。ぼくらは挨拶をする。少しだけ言葉を交わす。バイクの免許、取ったんだ? とかぐらいの。

 ぼくは愛情をもっている素振りも見せない。彼女の表情からも本心は分からない。ただ、憎まれていないことには、いくら鈍感だろうと勘付く。彼女は去る。自分もバイクの免許(50CC)ぐらい取っとこうか、と考える。そのことを頭に浮かべれば自然と鮫洲という地名が脈絡もなくでてきた。いや、明確な理由はある。みな、そこに行くしかなかった。東京の西の方を別とすれば。

 東京に住むひとの免許の交付場所なのに、東京のまた別の反対側のはじにいる自分にとっては、ずっと神奈川県だと勘違いさせるほど、そこは、はるか彼方の遠い場所だった。

 彼女は高校二年生になったばかりなのだろう。ぼくにその名称は相応しくもなく、妥当でもなく、明らかにするならただの十七才間近、1986年という数字で表すしか方法がない。学年という名札はとうにない。阪神タイガースの夢の一年はもう完全に終わってしまった翌年の四月なのだ。

 ぼくは絵筆を取り、この短い再会時の彼女の印象を描き写すべきだったのだろう。才能の有無を鑑みもせずにトライだけでもしてみることは間違いではなかったはずなのだ。高校生がスクーターに乗って、ぼくの前を通り過ぎる。彼女のスピードは手首の回転だけで速まり、ぼくはあの地点でまだ停滞していた。あの寒い月日のことだ。渋谷と原宿の間の明治通りの歩道橋あたりで。

 あのスクーターが別世界へと飛翔する彼女の馬車でもあった。象徴的に。絵の題材としても悪くない。星空につながる背景のなかで空中に浮かぶスクーター。多分、色は黄色で国産だ。

 ベスパという美しいバイクがあった。ぼくは映画をひとりで見る。横に彼女はいない。ビギナーズ。ある時代のイギリスの若者がグループになって、ベスパを乗り回す映画もむかしにあった。

 ぼくはビギナーズという映画を新宿で見て、バスで明治通りを渋谷に向かう。途中の表参道で古着屋に寄る。店員とその映画の話をした。ファッションというものが個性と流行の狭間で揺れる。

 映画は映画館で観るものであり、若者はあの辺に出向く時期だった。学校で教えてくれないもの、という陳腐な表現を借りる。教えてくれたかもしれない可能性のものを入手する機会がぼくにはなかったためどう評価することもできない。だが、漠然としたあの時代と空気感を喪失が伴うとはいえなつかしんでいる自分もいる。

 ぼくは一時間ほど時間をかけ家に戻る。おそらく次のバイトをしていた頃だ。時給も高くはないが平日のほとんどの時間を費やしているぐらいだから、そこそこにはなった。それが古着に化け、映画館の暗闇に沈む時間を与えてくれた。デートの相手はまだいなかった。おみくじの大吉の到来を待ち望んで、ただひたすら中味をゆすっていた。逆さにすることは絶対にないのに。そこに彼女はもう入っていないのだから当然だった。すべてが凶に近いものか、スカとでも呼びたかった。

 ぼくは絵筆を握ることも、パレットに色を用意することもなく、自室で本を開く。電話をする相手もいなくなった。異性の同級生も進行形ではもういなかった。その圧迫的な夜に本を読もうとしている。開かれた本こそが正しい状態なのだ。閉じたままでは未完成であり、不完全なままのものだった。活字を追っている最中にあらゆる思考が往き来する。

「どんな書籍も公の記念碑なのである」

 ぼくは自分の部屋で本を読み、その言葉を発見する。どんなに目立たないものでも人類の記念碑になり得る。全体的にひとりよがりの内容だったが、その一行があるだけで読んだ甲斐があった。無駄な299ページ分を開かざるを得なかったとしても。すると、どんな絵画も彫刻も作者の手から離れれば公の記念碑になり得るのだ。ぼくは彼女をもう一度、自分のものにしたいと思いながらも、公の記念碑になることをより望んでいる。どちらかといえばそちらに傾いている。年月というのは不思議なものだ。

 スクーターで飛翔する少女の絵画が世界の裏側のどこかで飾られているかもしれない。作者の名は不明である。夢見ることは勝手で、無料だ。それもぼくの脳裡から生み出された記念碑だ。手を動かさなかっただけで、本来はどこかにあったのだ。もしくは作られて飾られる必然性があったのだ。あのスーパーの前の雑踏のような場所ではなく。きちんと整備された場所に、凛然と。見守るひとが稀であったとしても。
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