27歳-40
羨望が恐かった。
ひとは自分がもっているものより、もっていないものの方の価値に重きを置いた。
ぼくは友人の家に行き、別の友人の女の子と男の子を交互に自分のひざの上に載せた。彼らの母は離れたところで世間話に興じていた。希美もいずれ母という存在になるのだろうか。そのとき、父親の役目を負うのは、このぼくなのだろうか。彼女は肥満ということではなく、生命を宿すという過程で、腹部の形状を変える。ぼくはその瞬間ごとの変化を目にする幸福にあずかる。ぼくは、目にしていない未来をぼんやりと構築する。子どもたちはテレビ画面を見て驚いたり、一喜一憂したりしている。途中、トイレに行った。ぼくはその間に手料理を頬張った。母は料理を作り、子どもを宿した。希美は外国で自分の会社のために働いている。
うらやましい、というのはこれぐらいの小さな差のことだった。いや、小さな重みのことだった。
彼らはトイレから戻り、ふたたびぼくのひざの上に載る。そこが定位置だと発見したかのように。
ひとりは居眠りをする。ぼくの役目は終わる。座布団を並べたうえに場所が変わる。ぼくは新たな酒を求めて、寝顔に変わった様子を横目で見る。泣いたり、笑ったりして忙しいのが子どもだった。その一日一日を見守るのが親だった。
友人のひとりが希美のことを訊く。ぼくのもっている、つかんでいる情報は段々と彼らのそれと差異がなくなっていく。このことは何かに似ているな、と考えているが具体的な答えは見つからなかった。恋人と知人の間のようなものに彼女はなっていく。恋人と妻との中間という存在もあり得るようだし、この場にいるひとりも妻になったり母になったりした。ただのスカートを履いた泣きべその少女のはずだったのに。
同じように先生に叱られて泣いた少年も父になっていた。その当時の男の子にさせるために稼いでご飯を食べさせた。いま、その対象は寝ている。恋もなにもなく、当然、別れも失望も知らない。ただ、ぐっすりと寝ている。酒を飲んで忘れる努力もなく、利益の追求や蹴落とすことも知らない。羨望というのは、この小さな存在にも抱けるのだ。
ぼくも寝るが、夜中にふと目を覚ませば、希美の不在のことを考えることになった。毎夜ではないが、頻度としては少なくもなかった。
ぼくは途中まで車で送られる。家の近くで下ろされ、結構、酔っていたはずなのに人恋しくなってある店に寄った。ぼくは座って熱いおしぼりで手を拭く。自分の身体が乳臭いような感じがした。それは普段とまったく違うことなので、わずかなにおいが珍しさを運び込み、大げさに思わせたのだろう。
ぼくはそのことを目の前のカウンター内の店員に訊いた。彼は否定する。仕事柄、鼻は敏感であるだろうが期待外れに終わった。その代わりに、彼も希美のことを訊いた。雨がやんだけれど傘を忘れないようにと注意するような口調で。
「知ってたら、こっちが教えてほしいぐらいだね」
「連絡しないんですか?」
「たまにはするけど、毎日ってわけにもいかないよ」
「毎日しないと、心配?」
「まさか」
「でも、きれいなひとですよね。うらやましい」
彼はぼくに羨望する。ぼくより自由も裁量もありそうなのに。女性からも人気がありそうな容貌なのに。ひとは正確に自分の等身大の姿を測ることができない。鏡も、ぴったりと一致させるには、微小な歪みがあった。根本的な問題として、そこは逆さまの世界だった。羨望をはき違えても大問題にはならないだろう。
ぼくはやっとひとりになって徒歩で帰る。子どもからうつった匂いは別の種類の酒場の匂いに変わっていた。これが、自分らしい匂いだった。深夜のコンビニで飲み物を物色する。喉の渇きが増したためスポーツ飲料を手にする。横で同じように立ち止まって飲み物を探している女性がいた。希美と同じような匂いがした。だが、外見はまったく異なっていた。けばけばしい風貌は会社という枠組みを忘れさせるには充分だった。それで、魅力が減るわけでもない。太陽の下にいない人々。
「もう、いいですか?」彼女は冷蔵庫の扉を開けようとしている。
「あ、ごめん」
ぼくは一歩ずれる。彼女はアセロラのような派手な色のボトルを手にした。色が薄いということは間違っていると信奉しているかのようだった。
商店街の時計は動いていることも気にしたことはなかったが、いまは十二時を越えていた。ひざにのぼった子どもの重みを既に忘れそうになっていた。希美はどれほどの重みをぼくに与えてくれたのだろう。いまは精神的なものの方が大きかった。買い物を終えた派手な女性も外に出てきた。ぼくは女性の体重を正確に当てることなど、いまも、今後もできそうになかった。彼女たちはグラムでもないし、数字だけでもない。もっと複雑に長所も短所も入り混じった生き物だった。涙を流しただけで体重が減るわけでもない。ぼくの思考には糖分が必要でもあった。歩きながら大口を開ける。今日、何度したであろうあくびか考えたが、日も変わってしまったので、おそらくはじめてのあくびだった。そう思うと二回目も出た。家のカギをポケットのなかで手探りする。
「手探りで、手繰り寄せる」と、ひとりごとを言う。そのことを責め立てるひともおらず、みな、それぞれの夢の主人公になっている時間帯であった。
羨望が恐かった。
ひとは自分がもっているものより、もっていないものの方の価値に重きを置いた。
ぼくは友人の家に行き、別の友人の女の子と男の子を交互に自分のひざの上に載せた。彼らの母は離れたところで世間話に興じていた。希美もいずれ母という存在になるのだろうか。そのとき、父親の役目を負うのは、このぼくなのだろうか。彼女は肥満ということではなく、生命を宿すという過程で、腹部の形状を変える。ぼくはその瞬間ごとの変化を目にする幸福にあずかる。ぼくは、目にしていない未来をぼんやりと構築する。子どもたちはテレビ画面を見て驚いたり、一喜一憂したりしている。途中、トイレに行った。ぼくはその間に手料理を頬張った。母は料理を作り、子どもを宿した。希美は外国で自分の会社のために働いている。
うらやましい、というのはこれぐらいの小さな差のことだった。いや、小さな重みのことだった。
彼らはトイレから戻り、ふたたびぼくのひざの上に載る。そこが定位置だと発見したかのように。
ひとりは居眠りをする。ぼくの役目は終わる。座布団を並べたうえに場所が変わる。ぼくは新たな酒を求めて、寝顔に変わった様子を横目で見る。泣いたり、笑ったりして忙しいのが子どもだった。その一日一日を見守るのが親だった。
友人のひとりが希美のことを訊く。ぼくのもっている、つかんでいる情報は段々と彼らのそれと差異がなくなっていく。このことは何かに似ているな、と考えているが具体的な答えは見つからなかった。恋人と知人の間のようなものに彼女はなっていく。恋人と妻との中間という存在もあり得るようだし、この場にいるひとりも妻になったり母になったりした。ただのスカートを履いた泣きべその少女のはずだったのに。
同じように先生に叱られて泣いた少年も父になっていた。その当時の男の子にさせるために稼いでご飯を食べさせた。いま、その対象は寝ている。恋もなにもなく、当然、別れも失望も知らない。ただ、ぐっすりと寝ている。酒を飲んで忘れる努力もなく、利益の追求や蹴落とすことも知らない。羨望というのは、この小さな存在にも抱けるのだ。
ぼくも寝るが、夜中にふと目を覚ませば、希美の不在のことを考えることになった。毎夜ではないが、頻度としては少なくもなかった。
ぼくは途中まで車で送られる。家の近くで下ろされ、結構、酔っていたはずなのに人恋しくなってある店に寄った。ぼくは座って熱いおしぼりで手を拭く。自分の身体が乳臭いような感じがした。それは普段とまったく違うことなので、わずかなにおいが珍しさを運び込み、大げさに思わせたのだろう。
ぼくはそのことを目の前のカウンター内の店員に訊いた。彼は否定する。仕事柄、鼻は敏感であるだろうが期待外れに終わった。その代わりに、彼も希美のことを訊いた。雨がやんだけれど傘を忘れないようにと注意するような口調で。
「知ってたら、こっちが教えてほしいぐらいだね」
「連絡しないんですか?」
「たまにはするけど、毎日ってわけにもいかないよ」
「毎日しないと、心配?」
「まさか」
「でも、きれいなひとですよね。うらやましい」
彼はぼくに羨望する。ぼくより自由も裁量もありそうなのに。女性からも人気がありそうな容貌なのに。ひとは正確に自分の等身大の姿を測ることができない。鏡も、ぴったりと一致させるには、微小な歪みがあった。根本的な問題として、そこは逆さまの世界だった。羨望をはき違えても大問題にはならないだろう。
ぼくはやっとひとりになって徒歩で帰る。子どもからうつった匂いは別の種類の酒場の匂いに変わっていた。これが、自分らしい匂いだった。深夜のコンビニで飲み物を物色する。喉の渇きが増したためスポーツ飲料を手にする。横で同じように立ち止まって飲み物を探している女性がいた。希美と同じような匂いがした。だが、外見はまったく異なっていた。けばけばしい風貌は会社という枠組みを忘れさせるには充分だった。それで、魅力が減るわけでもない。太陽の下にいない人々。
「もう、いいですか?」彼女は冷蔵庫の扉を開けようとしている。
「あ、ごめん」
ぼくは一歩ずれる。彼女はアセロラのような派手な色のボトルを手にした。色が薄いということは間違っていると信奉しているかのようだった。
商店街の時計は動いていることも気にしたことはなかったが、いまは十二時を越えていた。ひざにのぼった子どもの重みを既に忘れそうになっていた。希美はどれほどの重みをぼくに与えてくれたのだろう。いまは精神的なものの方が大きかった。買い物を終えた派手な女性も外に出てきた。ぼくは女性の体重を正確に当てることなど、いまも、今後もできそうになかった。彼女たちはグラムでもないし、数字だけでもない。もっと複雑に長所も短所も入り混じった生き物だった。涙を流しただけで体重が減るわけでもない。ぼくの思考には糖分が必要でもあった。歩きながら大口を開ける。今日、何度したであろうあくびか考えたが、日も変わってしまったので、おそらくはじめてのあくびだった。そう思うと二回目も出た。家のカギをポケットのなかで手探りする。
「手探りで、手繰り寄せる」と、ひとりごとを言う。そのことを責め立てるひともおらず、みな、それぞれの夢の主人公になっている時間帯であった。