27歳-38
忘れるという自意識で解決すべき問題ではなく、簡単に会えないが彼女は別の国にいた。離れていても考えることが多くあれば、頭のなかには絶えずいた。きらいなひとのことさえたくさん目に付く部分をあげつらえば、もうそれは好意と同等になった。ぼくはそれ以上に好きなのだ。身悶えという言葉をあてはめてもいい。思考の巡りのなかにこそ、強力な対象への興味が生じた。
いったん別れるということもできたのにな、と相変わらず身勝手な考えを押し込めないでいる。好きということは連絡を取り合い、会うことなのだ。深夜になっても別れを先延ばしにする方法を探すことなのだ。もう門限をせまる両親のもとにもいない。自由というのは勝手に決められる権利をたくさん有しながらも、決めるということはぼくだけが持っている裁量でもない。数限りない決定を、不本意な決定を含めて周りの人間や相手がする。それを受け入れるのが大人であった。おもちゃを買ってくれない決定にダダをこねる子どもではない。その決定がもし間違っていても、その間違いの報いは彼女に帰ってくるのだ。ぼくは、どうすればいい?
ぼくは矛盾している。海外に働きの場を変えたスポーツ選手を応援している。一喜一憂している。その勇気を賞賛している。希美の選んだことも同じではないのか?
ぼくは仕事をしている。相変わらず、希美の会社に用事で出向いた。その場所は希美とある意味で同義語だった。その景色のひとつひとつに希美が溶け込んでいた。柱に刻んだ我が子の身長の伸びの痕跡のように。
そこで仕事が終われば待ち合わせて彼女に会った。ぼくはその楽しい作業を省かなければならない。ひとは話し相手を必要としているのだと痛切に感じる。誤解やすれ違いがあっても、そうすることは喜びなのだ。口は作られ、言語も発明されている。希美はいま違う言語を話しているのだろう。ぼくはそれをうまく操ることができただろうか。現場では通訳など介在させる余裕はないのかもしれない。より誤解や、小さな摩擦が生まれるかもしれない。それを潰さないと利益が発生しない。
ぼくはひとりでビールをゆっくりとすすり、美人と自由との兼ね合いを考えていた。ぼくは希美に監視されることはないが、そばにいる美人と会話をすることを後ろめたく感じている。いったん別れていればぼくの選択は無制限になった。別れで自分のこころが傷つくことは無視したことにするが。
だが、二十代も後半になれば、自由など狭い通路しか与えられていない。本道は、日々の雑務が占めることになる。給与と約束とノルマと月々の支払。ロック・スターが歌う内容などもうどこにもなかったし、彼らも契約という拘束のなかにいるのだろう。多少の幻覚的な薬が入手しやすい立場にいこそすれ。
ぼくはビールの軽い酔いで自由になっていた。すると、いままでの経緯が頭のなかを縦横に駆け巡った。彼女は本気になった二番目だった。だからといって新鮮さが完全に奪われることなどなかった。そして、重要なこととして自分は次を探すことも、新たな恋を見つけることからも解放された。ぼくの体内の深くに埋もれていたその種は、ようやく芽を出した。まだ何個のこっているのか知らない。これが最後でも良いのだ。間違いではないのだ。その確信に似たものがぼくにはあった。正直にいえば成田空港で見送る前日まではあった。読みおわった本を時間が経った後にふたたび開くと内容がまったく思い出せないことがある。そこまで非道くはないが、大まかにはあれだった。出来事や質感はおぼえているが、あの小さな確信は、小さすぎて探すのも困難になってしまった。
思いの外、自分の歩行はまっすぐにならなかった。いくぶん揺れていた。地球は丸いからだ、という意味のない論理をもちだしていた。駅に行くには希美がいた会社の前をまた通らなければならない。まだ窓ガラスには明りが灯っている部屋もあった。ぼくの肩書もぼくを証明するにはいたらず、ぼくの両親もぼくの最近のことを知らない。友人は入れ替わるようにできていた。十代の地元のファミリーレストランで管をまいていた日々が懐かしかった。野望も大それた考えも、同時に責任もなかった自分も恋しかった。あのボートは転覆したのだ。ぼくはいま、別の少し大きくなったボートに乗っている。希美を乗せるぐらいの余裕もあった。彼女は勝手に湖に飛び込み、ぼくはその余韻としての波紋を見ている。
警備のひとが不可解な視線を送る。ぼくはここでも部外者だ。昼間に受付の女性はにこやかに通してくれたのに。腕時計を見る。希美がいる時間は針の場所が違う。今度の休みには帰ってくると言った。ぼくは鵜呑みにする。先ず、ぼくに会いに来ると思っている。希美はいくつもの決定をする。大人は、決定の重なる部分を探す。重ならない部分が繁殖する。
ぼくは駅に着いた。電車を待つ。生涯、どれだけの時間がこのホームで待つという行為に費やされるのだろう。行為といったが、ほぼ何もしていない。待つというのは何もしないことなのか? ぼくは希美を待っている。彼女の承諾を待っている。明日というのは幸せだけを運んでくるのだ、というおとぎ話のようなことを考えていた。電車は遅れている。もう一度、ホームにアナウンスがあった。途中の経過を伝えるということも愛情と仕事の一環なのだ。ぼくは状況を知る。その状況を変化させることも、覆らすこともできない。混雑のなか、多くのひとも同様にできなかった。
忘れるという自意識で解決すべき問題ではなく、簡単に会えないが彼女は別の国にいた。離れていても考えることが多くあれば、頭のなかには絶えずいた。きらいなひとのことさえたくさん目に付く部分をあげつらえば、もうそれは好意と同等になった。ぼくはそれ以上に好きなのだ。身悶えという言葉をあてはめてもいい。思考の巡りのなかにこそ、強力な対象への興味が生じた。
いったん別れるということもできたのにな、と相変わらず身勝手な考えを押し込めないでいる。好きということは連絡を取り合い、会うことなのだ。深夜になっても別れを先延ばしにする方法を探すことなのだ。もう門限をせまる両親のもとにもいない。自由というのは勝手に決められる権利をたくさん有しながらも、決めるということはぼくだけが持っている裁量でもない。数限りない決定を、不本意な決定を含めて周りの人間や相手がする。それを受け入れるのが大人であった。おもちゃを買ってくれない決定にダダをこねる子どもではない。その決定がもし間違っていても、その間違いの報いは彼女に帰ってくるのだ。ぼくは、どうすればいい?
ぼくは矛盾している。海外に働きの場を変えたスポーツ選手を応援している。一喜一憂している。その勇気を賞賛している。希美の選んだことも同じではないのか?
ぼくは仕事をしている。相変わらず、希美の会社に用事で出向いた。その場所は希美とある意味で同義語だった。その景色のひとつひとつに希美が溶け込んでいた。柱に刻んだ我が子の身長の伸びの痕跡のように。
そこで仕事が終われば待ち合わせて彼女に会った。ぼくはその楽しい作業を省かなければならない。ひとは話し相手を必要としているのだと痛切に感じる。誤解やすれ違いがあっても、そうすることは喜びなのだ。口は作られ、言語も発明されている。希美はいま違う言語を話しているのだろう。ぼくはそれをうまく操ることができただろうか。現場では通訳など介在させる余裕はないのかもしれない。より誤解や、小さな摩擦が生まれるかもしれない。それを潰さないと利益が発生しない。
ぼくはひとりでビールをゆっくりとすすり、美人と自由との兼ね合いを考えていた。ぼくは希美に監視されることはないが、そばにいる美人と会話をすることを後ろめたく感じている。いったん別れていればぼくの選択は無制限になった。別れで自分のこころが傷つくことは無視したことにするが。
だが、二十代も後半になれば、自由など狭い通路しか与えられていない。本道は、日々の雑務が占めることになる。給与と約束とノルマと月々の支払。ロック・スターが歌う内容などもうどこにもなかったし、彼らも契約という拘束のなかにいるのだろう。多少の幻覚的な薬が入手しやすい立場にいこそすれ。
ぼくはビールの軽い酔いで自由になっていた。すると、いままでの経緯が頭のなかを縦横に駆け巡った。彼女は本気になった二番目だった。だからといって新鮮さが完全に奪われることなどなかった。そして、重要なこととして自分は次を探すことも、新たな恋を見つけることからも解放された。ぼくの体内の深くに埋もれていたその種は、ようやく芽を出した。まだ何個のこっているのか知らない。これが最後でも良いのだ。間違いではないのだ。その確信に似たものがぼくにはあった。正直にいえば成田空港で見送る前日まではあった。読みおわった本を時間が経った後にふたたび開くと内容がまったく思い出せないことがある。そこまで非道くはないが、大まかにはあれだった。出来事や質感はおぼえているが、あの小さな確信は、小さすぎて探すのも困難になってしまった。
思いの外、自分の歩行はまっすぐにならなかった。いくぶん揺れていた。地球は丸いからだ、という意味のない論理をもちだしていた。駅に行くには希美がいた会社の前をまた通らなければならない。まだ窓ガラスには明りが灯っている部屋もあった。ぼくの肩書もぼくを証明するにはいたらず、ぼくの両親もぼくの最近のことを知らない。友人は入れ替わるようにできていた。十代の地元のファミリーレストランで管をまいていた日々が懐かしかった。野望も大それた考えも、同時に責任もなかった自分も恋しかった。あのボートは転覆したのだ。ぼくはいま、別の少し大きくなったボートに乗っている。希美を乗せるぐらいの余裕もあった。彼女は勝手に湖に飛び込み、ぼくはその余韻としての波紋を見ている。
警備のひとが不可解な視線を送る。ぼくはここでも部外者だ。昼間に受付の女性はにこやかに通してくれたのに。腕時計を見る。希美がいる時間は針の場所が違う。今度の休みには帰ってくると言った。ぼくは鵜呑みにする。先ず、ぼくに会いに来ると思っている。希美はいくつもの決定をする。大人は、決定の重なる部分を探す。重ならない部分が繁殖する。
ぼくは駅に着いた。電車を待つ。生涯、どれだけの時間がこのホームで待つという行為に費やされるのだろう。行為といったが、ほぼ何もしていない。待つというのは何もしないことなのか? ぼくは希美を待っている。彼女の承諾を待っている。明日というのは幸せだけを運んでくるのだ、というおとぎ話のようなことを考えていた。電車は遅れている。もう一度、ホームにアナウンスがあった。途中の経過を伝えるということも愛情と仕事の一環なのだ。ぼくは状況を知る。その状況を変化させることも、覆らすこともできない。混雑のなか、多くのひとも同様にできなかった。