爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(126)

2012年09月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(126)

 あまりにも自分の得た分が多いことを知った数日だった。何度も同じ本を繰り返して読むように裕紀のことも考えていた。それはぼくから奪われたものとしてずっと記憶されていたが、思い出は数限りなく、同じ本が新たな発見をもたらし新鮮さを失わないように、紙はいくらか黄ばんできたとしても、ぼくの喜びの源泉になっていた。でも、やはり新しいページを付け加えてほしいとどこかで望んでいた。

 きちんとぼくには新しいものももたらされていた。毎日、息をしているのだから。広美の孤立を心配してか上田さんが東京で気にかけている。彼の会社の後輩であった笠原さんが広美と友人のようになってくれた。彼女の子どもと遊んでいる広美の写真が送られてくる。それをアルバムに収めながら、広美が子どもと接している写真が多いことを知る。彼女に勉強を教えたまゆみという女性の子どももいた。学校の実習で行ったキャンプで多くの子どもたちと遊ぶ広美もいた。同年代との交際だけでは味わえない楽しさを彼女は身をもって感じているのだ。そして、抱っこをしたりいっしょに笑い合っている姿がとても自然であった。ひとり娘として育った人間がそのことにどう左右するのかは分からないが、彼女はうまくやっていた。

「子どもが多く写ってるんだね」ぼくは、その写真をみて気付いたことをありのままに言う。
「そう言われると、そうね。保母さんにでもなれるのかしら」雪代はいくらか、口に出したりはしないが娘の将来を案じているのだろう。「わたしもOLみたいなこと、やってみたかったな。こころのこり」
「目立つだろう、会社内にいたら」
「失敗して、みんながそれに対して陰口を言って、謝ってもらってばかりいて・・・」
「違うよ。そわそわして、仕事が手につかなくて。会社員なんてみんな地味にできてるから」
「褒めてるんだ?」
「そうだよ」彼女は照れたように笑う。

「この上田さんの会社の女性のひと、優しいお母さんのモデルのような表情をしてるね」雪代はその一枚を指差す。「ちょっと、こっち見て。わたしのお母さん時代。もっと神経質そうな顔していない?」雪代は古いアルバムを引っ張り出した。
「そうでもないよ。雪代は写真に撮られ馴れてる。それに比べると、広美は男の子かどっちか判断つかないな」
「それが仕事だったからね。いちばん好きな角度とか。これ、夏だったからかしら、ちょっと、髪短すぎるわね、広美」

 その写真を撮ったのは当然、島本さんであるのだろう。彼は存在しないが、彼の手を通した写真はここに残っている。ぼくは、いまはそれを不思議なことと感じていた。彼らがどこかの世界に移ってしまったならば、彼らの痕跡も同時に向う側に連れて行ってしまうような錯覚があった。ぼくがあまりにも裕紀の残したものに、例えば写真などにも、接してこなかったせいだろうか。彼女はぼくのこころに居場所を作りすぎていた。永久的な借地権でももっているように。

「広美のそばにいると、どの子も自然体でいるんだね。この子はちょっと、はしゃぎすぎだけど」
「同じような幼稚な部分を見抜かれるんでしょう」
「幼い部分。同じ目線になるって大事なことだよ」

 島本さんが夏のプールで浮き輪のなかに入っている広美を見つめている場面の写真があった。水の中なので身長差はなく、目の高さの位置も同じだった。それをプールサイドで雪代が撮ったのだろう。ぼくはタイムマシンでもあれば、その様子をのぞいてみたかった。だが、本当はそんなものがなくても自由に行ける気がした。ふたりのことは、いや、三人のことは既によく知っていたのだから。

 自分はいったいそのころ何をしていたのだろう。まったく同じ日に、彼らがプールで泳いでいるころ、15年ぐらい前のその日。ある場面が思い浮かぶ。デパートにぼくらは行った。裕紀は服を選んでいる。ぼくはいっしょに回るほど優しくもなく退屈して屋上に出た。冷たいビールを飲みながら、子どもたちが遊具に乗り歓声をあげているのをぼんやりと見ていた。裕紀もその方が気兼ねなく選べるといって不満そうでもなかった。だが、いまになれば数回に一度は付き合ってあげるべきだった。服をどちらにするか迷っている裕紀。結局は、大きな袋をぶら提げた裕紀が屋上にやって来る。待っているのが、短いときもあれば、長いときもあった。彼女は青い服を着ている。服を買ったときに生じる高揚した顔を彼女はしていた。ぼくはビールの残りを見る。

 それは同じ日なのだろうか? ぼくらはプールで子どもを遊ばせる役目などなかった。ただ屋上の素朴な乗り物で楽しむ子どもたちを眺めることぐらいができる範囲だった。それでも、幸せだった。あの機会が奪われていいはずもなかった。

「これだけ、夏の炎天下で遊べばぐっすり眠れるんだろうな、子どもって」
「島本君が、そういうのを抱っこするのが得意だったから。わたしは、直ぐに彼に任せた。引越しのときも重い荷物を軽々と運んでいたし」

 それが雪代の思い出だった。それぞれが別の人間の愛情ある情報をたくわえていた。写真にものこっていないが、それゆえに鮮明でもあり色が褪せることもなかった。
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壊れゆくブレイン(125)

2012年09月14日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(125)

 ぼくは飛行機に乗っている。出張が目的であった。だが、その土地には大学時代の友人が設計したビルがあった。それも見たいと思っている。

 ぼくらの可能性はスタートの時点では同じようなものだった。彼女は自分の能力を発揮する機会を与えられ、自分は会社員として日常の業務に追われた。それは望んだことでもあり、それを続けてきたことによって、自分は自分になった。仕事が影響していまの自分になり、それらしい容貌も手にした。ときには愛想良く、ときには信頼される人間。ぼくと対面して接したひとはそう評した。

 空港に到着し、見知らぬ町の匂いや雰囲気を肌で感じる。ぼくはさらに電車に乗り、約束の相手がいる場所に向かった。会うのは午後からだったので、その前に昼飯の場所を探した。ぼくはいくつかのメモをもっていた。会社の仲間がそこらの美味しい店をピックアップしてくれていた。そのメモのなかの情報と、いまの空腹感と、望んでいるものを混ぜ合わせ、選別してひとつの店に入った。店には数名の列ができていた。ぼくは数分並び椅子にすわった。

 鮮度が命という食材がすこし手を加えられ、より美味しいものに化けた。ぼくと大学時代の友人は当時、互いのことを気兼ねなく評価し合った。評価というよりもそれは手厳しい批判に変わることも度々だった。だが、ぼくらは憎み合ったりすることもなかった。友人というものは概してそういうものかもしれない。そして、彼女の意見を取り入れ、ぼくは勉強の成果を一ランクアップさせる。自分自身で見えないことが彼女の指摘を通して、より具体化させられた。

 ぼくは満足して外にでた。地元とも違う空気の質や空の色や雲の形状をぼんやりと眺める。まだまだぼくは新鮮さをもっているのだと裁定し、外部からの力によって内面をも変革させたいという魔法のようなことを願った。

 その後の仕事は段取りよく進み、予定通りに終わった。そもそも顔を会わせる必要もなかったのかもしれないが、実際の表情を見た方が、信頼感は違ってくる。そのスパイスをぼくの顔と長年の経験はもっているようだった。

 ぼくはホテルに荷物を置き、印刷された地図だけをもって町を歩いた。革靴の固い音の響きがする。ぼくはきょろきょろと辺りを見回す。そして、角を曲がると目的のビルがあった。ぼくはポケットからカメラを取り出し、その外観を写真に残す。25年も前になるある女性との会話。自分の設計した建物を日本のあらゆる場所に残したいと言った。そのことが実現されている。ぼくはその流れた月日の長さを感じ取っていた。

 ぼくはその間に何をしてきたのだろう。何を成し遂げたのだろうか。成果として目に見える何が残っているのだろう。悲観していたわけではない。ぼくは蜘蛛の糸のように張り巡らされた関係性を持っていた。雪代がいて、義理の娘が東京にいた。姪や甥は成長し、それぞれの能力を開花させるのだろう。裕紀はいないが、彼女によく似た姪がぼくの前にあらわれた。そのどちらが、建物と、ぼくとの関連があるひとびとと、どちらが重いのかをぼくは写真を撮りながらも考えていた。答えはでないが、ぼくに似つかわしいのは人間を通した間柄であり、簡単にいえば人脈だった。それはビルの内部の配管や電気の線のように生きる力をつなげ、喜びやさまざまな感情を呼び起こす源流のような働きを帯びている。そのどれもがどこかにつながり中断させることはない。ぼくは、内部のために見えないひとつひとつのそれらの機能を見つけ出し入念に誉めたかった。そして、ぼくの人生はそれだけでも成功だったのだと自分に合格点を与えたかった。

 見知らぬ町の見知らぬ店に入る。瓶のビールが運ばれる。その店員がどういう人生を送ってきたのかはまったく分からない。ぼくが理解しているのは、彼もあのビルを眺めたであろうという事実であった。しかし、そのビルに注意を払うこともないのかもしれない。あまりにも身近にありすぎて、それは風景の一部として埋没しているのだろう。それでも良いのだ。存在していること自体が否定されるわけでもないのだから。ぼくの身体のなかを流れている血液と同じだ。血管もあらゆる臓器も外部からは見えない。しかし、そのひとつひとつがぼくの思い出を運んでいるような錯覚をもった。それは本当のことを言えば脳が記憶し管理し、留めておいてくれるのだろう。裕紀の死も覚え、同時に笑顔も覚えている。彼女が触れたぼくの腕は微細な感覚を有し、その一本一本の毛にまで彼女のぬくもりを感じている。その腕は裕紀の死を自覚する必要もない。触れられた記憶だけ認識つづければ満足なのだ。

 ぼくはビールが喉を通るときの冷たい刺激を感じていた。ぼくはビールを飲むというたくさんの機会を数えることはない。しかし、そこには雪代がいて、目の前でグラスに付着した口紅を取る仕種も覚えているし、裕紀の繊細な指が箸を器用に扱った様も覚えている。娘の広美は大口を開けて笑っていた。ビルがその町のモニュメントのようになり皆の記憶にとどまることが美しければ、ぼくの無尽蔵に与えられていない命の一部をつかって記憶させることも同様に美しいものだった。それは負け惜しみでもない。見知らぬ町でひとり過ごしているときの実感だった。

「お客さん、お仕事で?」
「ここのひとじゃないって分かる?」
「もちろんですよ。客商売ですから。きれいな奥さんがいて、子どもがひとり。多分、女の子ですね」カウンターの向こうで包丁をもつ手を休めながら彼はそう言った。
「あたっているよ」
「そうですか、良かった」

 だが、それはどこまで当たっているのだろう。二人目の妻。義理の娘。ぼくの人生はもっと複雑であり、また別の視点から見ればもっとシンプルでもあった。納得できる幸福につつまれ、多少の喪失感も抱えていた。でも、実力以上に応援されるひとのようにぼくは大切なひとびとに好かれた。それにきちんとお返しをしてきたかといえば、実際はそうでもなかった。だが、店の主にそこまで言う必要はない。ぼくは彼の前にあらわれたただのストレンジャーであり、ぼくの内部に記憶しつづけるほど深い喜びも悲哀もまだ与えてくれそうにない。
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壊れゆくブレイン(124)

2012年09月13日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(124)

 物事にひとりだけで対処しなければならないとしたらどうなるのだろう。ぼくは会社で責任を負っているとはいえ、その前提に会議もあり、会社の方針もあり、計画もあった。その隙間に問題が挟まってもそれは比較的に微小なものだった。ひとりでクリアできるものもあれば、仲間の知恵も借りた。会社員というのは結局はそういうものだろう。

 ラグビーのキャプテンをしていた過去のある日、監督から指示を受けてもそこに到達しないもどかしさがあった。自分はチーム・メイトの疲労の影を見て、その思いを押し殺した。彼らにも限界があれば、ぼくにも成長の余地がなかったように思う。部屋でひとり思い悩み、誰にも相談できずにいた。もちろん、交際相手だった裕紀にも。しかし、彼女のもつ優しさはぼくの辛さを軽減させてくれた。完全にはなくならないが、少しは減ってくれるのだ。

 広美は東京でひとりで暮らしていた。誰かといっしょに喜ぶ機会はあるのだろうか。悲しみを打ち明けられる人間はいるのであろうか。さまざまなことに挑戦し、挫折し、乗り越えた場面が与えられる。それを共有できたときの感激を知ってほしいようにも思う。

 ぼくは大人になってからひとりきりになった時期はそれほどなかった。同棲をして、東京に行き、結婚をして、再婚をした。東京に出たときと、最初の妻と死別したときがそのひとりの時期だった。東京に行った当時はその環境になれるため懸命だったから、それほど時間を持て余したという印象はなかった。ぼくが悲しみに感じ、ひとりでいることを耐え難いと思ったのは、裕紀が死んだときだ。ぼくは悲しみを抱え、客観的に振り返れば誰もがぼくの悲しみを認識していたが、ぼくはうまく隠し通せていると思っていた。実際はまったくの逆で、誰しもがぼくの悲嘆に呉れている状態を知っていた。相談できるものもいなく、ぼくは酒に溺れた。適量が悲しさを打ち消してくれるならば、大量のそれはぼくを波打ち際に打ち上げられた巨大魚のようにした。もう海には自力で戻ることもできず、またその陸地は自分の住むべき場所ではなかった。だが、ぼくの命は生存をつづけ、翌朝は普通に職場に向かった。

 ぼくは地元に戻り、久し振りに会った雪代に絡んだ。いま考え直してもとてもみっともない自分だった。それをいちばん誰に見られたくなかったかと言えば、それは雪代当人であり、また見せてしまったことで、ぼくの最終的な見栄の限界の網が破られる結果となった。ぼくはそこの場面で必死に耐えなければならなかったのだ。だが、無理にその悲しみを押さえ込めば、また、打ち上げられた魚のように絶命だけが待っていたのだろう。ぼくは悲しみの開けっ広げな披露により逆に救われる。それ以降、孤立ということはもうなくなってしまった。ぼくと雪代と娘はスクラムを組むように地道にすすんだ。ぼくは健全さも同時に取り戻す。

 ひとりで東京で暮らしている娘がいた。誰かの優しさを求め、甘い言葉を必要とする。人生は、その華やかな時期に入りかかったころであり、その時期に受けた印象が後半生を左右してしまうのだろう。ぼくは、自分のことを考えてみれば、素晴らしいひととたくさん出合った。その関係の多くはいまでも持続し、掛け替えのないものにもなった。

 広美はそれである男性と出逢う。自分をいちばん大事にしてくれていると思ったひとは、そうでもなかったのだと理解し、感情を調節する作業をせまられる。頭がそう指令をしても、こころの問題はそう直ぐにハンドルを切ることはできない。最後には失恋するのだが、その痛みは分かっても、その深さを他人はきちんと計測できない。また、計測するような問題でもない。痛みは痛みなのだ。突き指も捻挫も骨折も痛みに違いはない。ただ、立ち直るのに必要な日数が異なる。彼女はそれほどの痛みを感じていないように振舞っていた。

 ぼくは自分のしたことを思い出さない訳にはいかなかった。

 ぼくは雪代を求めたばかりに裕紀をふった。それは、するべきではなかった事柄という通帳でもあれば先頭に書かれるべきことであった。だが、それは起こってしまった。いまの広美を若いと思っているが、彼女も似たような年頃であった。ひとから拒否されることなど多分、彼女は経験してこなかったのだろう。海外の一都市に彼女は留学する。ぼくは自分のしでかしたことに打ちひしがれ、仲間からも疎んじられる。いつか、ずっと謝りたいと思いつづけていた。その機会は来ないのかもしれない。そのことがぼくの喉に刺さった小骨のように常に念頭から離れない。再会した彼女は意外にもぼくを恨んでいなかった。それを喜んだが、ぼくはなじられたりした方が自分の懸念だった小骨を取り去る行為に直接つながったと思う。ふたたび交際をはじめても、ぼくには引け目があった。それは不当なことだったのだろうか。結局は、意図して捨てた女性は、意図せずにぼくの前から消えた。この濁った世界の住人としての生きる権利を有していないかのように。その資格をもっている自分はまだまだ生き延びそうだった。

「広美の良さを分からない人間なんているのかね?」
 ぼくは年の離れた兄のように気軽に彼女に言う。東京に出張に来ていた。むかし別れた女性の素晴らしさを分からなかったのもそう発言した自分であり、心底からの許しを懇願する機会も自分に与えなかったずるい自分でもあったのだが。
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壊れゆくブレイン(123)

2012年09月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(123)

 マンションにしばらく住んでいると、住人が少しずつ変わっていった。引っ越してくるひともいれば、いつの間にか見かけなくなったひともいた。家族構成も少し入れ替わる。ぼくらの家もそれに該当し、広美が東京に出たためひとり減った。新婚さんが一組入居したと思ったら、時折り赤ちゃんの泣き声がきこえるようになる。夫婦で生活していたひとが、ひとりで買い物をする姿しか見せなくなることもあった。干渉しているわけでもないが仕事柄ぼくはそのことに興味があった。実際はそれがなくても関心があるのだろう、根本的には。

「あの赤ちゃん見た? しっかりした顔してるよね」雪代が驚きに近い表情をしてそう言った。
「うん。子どもなのに、造りがはっきりしている」ぼくはベビーカーを押す奥さんに挨拶され、その瞬間に下で大人しく座っている子どもの顔を見ていた。泣いて自己主張をするより、理路整然と自分の問題点を伝えてくれるような意思の力が顔にあった。もちろん、そのようなことは起こり得ないのだが。
「ああいう姿を見ていると、広美のことを思い出すよ」
「島本さんは子育てを手伝ってくれた?」

「気が向いた時にはね。あのひとらしいけど」だが、ぼくはその姿を容易に想像できた。肩車をする彼。島本さんの肩のうえで歓喜する広美。彼のたくましく隆起した肩のまわりの筋肉。ぼくはその人間から何度もタックルをくらった。その同じ肩が、ぼくの義理の娘になった小さな少女を担ぎ上げる。そこに歴史の一幕があった。

 ぼくはなぜだか彼のことを永遠に忘れないようにと願っていた。ぼくはずっと彼の対戦相手だった。他校のラグビー部の先輩。その持って生まれたスポーツの能力。外見的な華やかさ。そして、雪代と交際していたひととして。合わせ鏡のように彼のことが、ぼく自身を知るうえでの手助けになった。ぼくはひとりで存在していた訳ではなく、ラグビーをするだけでもチーム・メイトが必要だった。またそれに付随してどこかのチームと試合をしなければならない。なるべくなら倒すに足る強いチームを望んでいた。勝ちが決まっている試合など、何の目的にも動機にもなってくれない。ぼくは、その相手に倒され、這い上がるイメージを失いたくなかった。また、もうどうやっても失くすことのできない映像として頭のなかにインプットされていた。暗い衝撃をともなうレントゲン写真のように。

 ぼくが高校に入ってからの最初の夏休み、彼と雪代のふたりが並んでいる姿をぼくは認めた。美しい女性と、誰もが知っているスポーツ選手。ぼくは幼馴染みと歩いている。まだ、自分のこころが誰かに奪われるという秘密を知らなかった。自分の感情は誰かの手に委ねられることなく、自分で完全に管理し掌握できると思っていた。そして、あれから何十年も経ったが、それを奪ってみせてくれたのはほんの数人だけだった。ぼくは冴えないTシャツを着ている。お祭りの夜、横で幼馴染みの智美は何かを食べていた。水飴か綿菓子でも。でも、そんなことはもうどちらでも良かった。ぼくは、指から離れ飛び去った風船を惜しむかのように、雪代の存在を探した。憧れは要求になり、ぼくの生きるうえでの執拗な拘りになった。だが、ぼくの前には智美が紹介してくれた素直な裕紀が表れた。ぼくはその地に足が着いた関係も探し、欲していた。ぼくの前に雪代も島本さんも居なければ、ぼくらは起伏のない関係を続行していたのだろう。しかし、それが途切れた責任を負うのは、島本さんでもなければ雪代でもない。ただ、自分の意思をシーソーのように揺らしつづけた自分に非があった。

 島本さんと雪代は別れ、ぼくは裕紀を捨てた。隅に、いや、ぼくの居ない世界に押しやった。ぼくは雪代を選び大学のときは彼女と同棲して暮らした。東京への転勤を機にぼくらは別れた。島本さんと雪代はまた会いはじめ、いつか広美が産まれている。これだけでも、島本さんをぼくという不確かな人間がつくりだしたストーリーのなかで排除することは不可能だ。もちろん、主役でもないが、気になる脇役でもある。早目に退場してしまったが、その印象は誰もが後々まで抱えた。

 ぼくの簡単に口にしたひとことである「彼は子育てを手伝ってくれた?」という質問も裏を返せば、これだけの情報がいった。「気が向いたとき」という雪代の返事もそこには多くの愛ある会話が覗かれるようだった。ぼくはそこに参加していない。ぼくが広美を肩車したわけでもなく、離乳食を授けたわけでもない。ただ、幼少期を過ぎたころから関わっただけだった。ぼくは誰かの一生に完全な意味では関われないのだ、という不安も同時に感じた。結婚した裕紀は途中でいなくなった。雪代のことも、こうして誰かのものであり、自分がすべてを見守ったわけでもない。子どもも義理の娘しかいなかった。この欠陥のある自分の人生をながめ、まるでマンションの別の一室に住んでいるひとたちのように、それぞれの過去の知り合いと対面しようとした。

 あの部屋にはまだあいつがいて、ぼくは優しい言葉を鉢植えの花に水を与えるように注ぐのだ。ならば、島本さんにはどのような言葉が必要なのだ? ぼくの追いかけるべき目標になってくれてありがとう。雪代の数年を美しいものにしてくれたことにも感謝する。広美という真っ直ぐな女性の親になってくれてありがとう。まだまだ、ぼくは彼の新しい一面を今後も発見するかもしれない。でも、これだけでも充分、ぼくに恩恵を与えてくれた。それゆえに、憎もうと思いつづけながらも、それに比肩するぐらい惜しむべき大切なひとりでもあったのだ。
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壊れゆくブレイン(122)

2012年09月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(122)

 ぼくは美緒という少女が通う塾があるビルの玄関まで送っていく。同じような年代の子たちがそれぞれの向上心を胸に秘め、ビルのなかに入る。彼らは一様に下を向いている。それで、ぼくの存在に誰も気付かないようだ。でも、なぜぼくはそのような行動を無神経にも取っているのだろうか。

 ぼくと彼女の年齢差は30年ほどあった。彼女が産まれたのはぼくが30前後のはずだった。ぼくはその当時、裕紀と結婚していた。およそ2年ぐらいの結婚生活を迎えていた時期だ。もし、そのころにぼくらの子どもがいたら、その子は美緒ぐらいの年齢になっていたはずだった。すると、ぼくはどこかの町でその架空の子どもを塾に行かせ、その送り迎えをしていたのかもしれない。

「ありがとうございます。お店の飲み物も」しかし、自分の子どもでもない彼女は別れ際に丁寧に礼を言った。ぼくは気恥ずかしさを隠し、同じように会釈した。それから、待ち合わせのひとと会うため、道をすすんだ。

 ぼくは空想をもてあそぶ。もし、裕紀が死んだときにぼくに娘がいたらどうなっていたのだろう。悲しさをひた隠しにしてその子のために懸命に生きたのだろう。自分の悲しみに溺れることはできなかったはずだ。すると、そこからの救出は必要ではなく、雪代がぼくを助けてくれたという物語も消滅する。ぼくは誰かに浮き輪を海上に投げ込んでもらうことを欲していた。波は強く、がむしゃらに首だけ水面から出し塩辛い水を飲んでいた。ぼくは遠くにあるその浮き輪を抱き囲む。

 いや、その子の未来など考えることなく、ぼくは自分の悲しみを最上級の感情として自慢し披露するのだ。誰一人としてぼくほどの悲しみを得ていないという下らない言い草を見つけ。その悲しみに敬意をはらってもらいたく、またさらに悲しむ。誰からも疎んじられ、娘もぼくを手放す。すべての責任を放棄して、ぼくはぼくだけの道を歩む。結局は最終的に雪代と会うのだ。

 ぼくは仕事相手と会ったときはさすがにこのことを忘れたが、仕事もうまくまとまり会社に戻った後、先ほどの空想を再開させるためだけにひとりで酒場に向かった。

「何か良いことありました?」ぼくはただ普通にその場所にいるだけだった。感情の揺れなど一切なく、ただここに座っているだけ。いつものように。

「別に。どうして?」ぼくは店のひとがぼくに投げかけた理由が知りたく質問する。
「別にって、何となくですよ。何となく」

 ぼくが美緒という少女を見つけたことはそもそも良いことなのだろうか。さらに裕紀を思い出すきっかけを追加することになっただけではないのだろうか。そのようなことがなくてもぼくは執拗に思い出していた。だが、もしかしたら今日は違かった。ぼくは裕紀とは別個の存在として、あの少女を見たのだ。ひとつの可能性をもった女性として。幸福になる無限の潜在力をもっている人間。しかし、外見がよく似ているため再び裕紀と結び付けてしまう。

 裕紀も塾に通っていたのだろう。その数年後にぼくと会う。ぼくらは互いを必要とした。幼いこころは同一になることを望んでいた。そして、ぼくらの身体は隙間もなく密着する。だが、雪代がいたために、また自分の不甲斐なさのためにぼくらの関係は裂かれる。その原因を作ったのは自分なので、被害者のように言うのは適当ではない。ぼくらは、そうすると会った方が良かったのだろうかという根本的な問題にぶつかる。しかし、会ってしまったのだ。帽子を拾った美緒を見つけ、避けられなかったように。
「帰るね」とひとり言のようなセリフを呟き、店をあとにする。夕飯が家で待っている。ぼくは、この半日の出来事をカバンにでもしまうように歩いている。それは忘れてしまえることでもない、あとでもう一度思い出してみるのだ。

「風、強かったね。大丈夫だった?」雪代がキッチンで振り返る。
「うん。でも、もうおさまった」
「なんか、良いことでもあった? 楽しそうだよ」
「仕事がうまくいったからだろう」
「気に入ってもらえたんだ・・・」
「やり直しは満足につながる」
「どうしたの。何かの標語?」
「違うよ。いまの気持ち。手伝おうか」

「これ、テーブルに置いて」雪代は料理されたものが盛り付けられた皿を指差す。湯気が浮かび、鼻腔を喜ばす匂いだった。ぼくはさらに顔を近づけた。
「水泳どう? なかには泳げなくて溺れそうなひともいるんだろう?」
「そんなひとはいないよ。健康のためプールのなかを歩いているひとはいるけど」
「でも、溺れそうなひとには浮き輪がある」
「インストラクターが泳いで助けに行くでしょう、緊急のときは」

「緊急だよな」ぼくも緊急に助けを必要としていた時期があった。いや、溺れている状態と知りながらそこから抜けることを心底では望んでいなかった。ぼくも自分の命を終わらせたかったのだ。彼女のいない世界なんて。だが、その女性に似た少女が今日、強風のなかでしっかりと自分で立っていた。力強さもないが、ぼくはその普通の事実に感動していた。大雨でもなく、照りつける強い日差しの下でもない。太い枝すら折ってしまうような強風のなか美緒はいた。ぼくはそのなかに裕紀の一部を認め、できれば彼女しか知らないぼくの秘密や癖を言ってほしかった。だが、それはあまりにも欲張り過ぎていた。中学生の少女はぼくの何も知らない。あそこで溺れた日々があったことも知りもしないのだろう。塾の先生も教えない。これが妻を亡くして死ぬ寸前までいった人間ですとは。
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壊れゆくブレイン(121)

2012年09月10日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(121)

 風が強い日だった。ビルの合間を通り道にして、前後の見境なく風が吹きすさんでいた。ランドセルを背負った子どもが吹き飛ばされそうになり、ガードレールにしがみついていた姿もあった。別のひとりの頭のうえに乗っていた帽子が飛ばされた。まるで風船のように軽やかに道路をコロコロと転がりつづけ、木の幹に引っ掛かった。ぼくはそれを取りに向かったが正面から来る風が思いのほか強かった。すると、風を背にしたセーラー服姿の中学生が幹の根元の帽子を取った。

「はい」それがぼくの持ち物であるかのように手渡した。
「ありがとう」ぼくは礼を言う。「なんだ、君か。優しいね」ぼくはその女性の顔を見る。それは美緒という女性だった。正直に言って、この瞬間までその少女のことを忘れていた。裕紀の兄の娘。ひとり娘。ぼくはその外見が誰から受け継いだのかを知っている。
「知り合いの男の子ですか?」
「違う。全然、知らない。仕事の途中だから、この通り」ぼくは揺れるスーツの襟を無意味に握った。彼女はそのままの姿勢でぼくの次の言葉を待っているようだ。「返してくるね」

 ぼくは風を背にしてその帽子の持ち主のところまで歩いて行った。「もう、被らないほうがいいね。ランドセルの中にいれちゃいなよ」と言ってそこに突っ込んだ。ぼくはまた先ほどの場所を振り返った。その少女は風に揺られて立っている。自然とぼくの足はそこに向かう。
「学校の帰り?」
「塾があるんです。その前にちょっと本屋に寄りたかったんですけど・・・」
「うん?」
「こんなに風が強くなるとは思ってもみなかった。あきらめてどこかで時間を潰そうと思います」

 ぼくは腕時計を見る。ぼく自身もどこかで時間を無駄に費やす必要があるようだった。でも、それを無駄という箱に押し込めることもないのかもしれない。
「何時から、塾って?」
「5時半です」
「そう、あと、4、5十分あるんだ。お茶でも飲む?」相変わらず風は強く、どこかに入りたい心理があった。「知らないおじさんという訳でもないし」

「なんですか、それ?」
「いや、知らないおじさんに付いていっちゃいけないと散々、子どものころに言われたでしょう。うちも言ってたから」彼女は微笑む。ぼくの心臓の鼓動はいくらか早くなる。ぼくは、そこにいつも裕紀の陰を思い出す。
「ここですか?」ぼくらの横には丁度、手頃な店があった。半分は喫煙スペースがあり、半分は学校帰り大学生らしきひとたちが話し込んだり、ノートに何かを書き込んだりしていた。
「いいよ、ここでも。いい?」

 ぼくらは肩を並べて入る。あのころの裕紀よりまだいくらか小柄だ。だが、総体的な身体のバランスはやはりいまごろの子どもだった。手足が長く、顔は小さく作られている。だが、眉間から目頭までの流れる感じや眉などは裕紀そのままだった。探せば、もっともっとあったが、そこまで見つめつづける勇気や度胸もない。

「あの本、読みました」
「え、あ、あれか」ぼくはすっかり忘れている。彼女に裕紀が仕事で関わった絵本をあげたのだ。「気に入った?」
「ええ」彼女は両手で紅茶のカップを包むようにして持った。爪にはなにも塗られていない。指輪もない。彼女の年代では当然のことであるのかもしれないが、ぼくはそのことを新鮮な気持ちで眺める。顔にも化粧の予感すらない。これから、塾に行くのだ。知らないことを多く学び、自分に必要なものを取得していく過程にいる。ぼくは、これはもういらないのだと自分にあきらめ、捨てることに慣れていく年代に足を踏み込んでいた。裕紀もそのような気持ちをいずれ持ったのだろうか? 彼女はやはり何事にも挑むような前向きな姿勢を失うことはなかっただろう。それは途中で奪われたのだが。

「勉強、好き?」
「好きなひとっていますか? しなきゃならないと思ってますけど」普通の子たちなら皮肉に響くであろう言葉も、彼女を通すとさっぱりとした真実というものに近かった。遠回りや虚飾はいらないという意味合いも含んでいるようだった。
「好きなひともいるでしょう。辛いけど解けると楽しいとか。じゃないと何でもつづかないよ」
「お仕事、楽しいですか?」
「まあ、楽しいね。大人だからいろいろなひとに対して良い顔を見せないといけない場合もあるけど」ぼくはそこで彼女の父の周りで起こった不祥事を思い出した。それで、突然に話の風向きを変える必要を生じた。「学校でも周りの子たちに話を合わせたりするのと同じだよ」

 彼女はきょとんとした顔をする。それがどういう意味だか分からないような表情だった。孤立というものとも違っており、一本だけ池に刺さっている杭に細い足でとまっている白鳥を思わせた。ぼくらは声の悪い群れる鵞鳥だ。仕事終わりに酒場でたむろしている姿はそれに近いのだろう。そして、彼女はまた外の様子を確認するように窓のそとを見た。風はいくらかおさまったようで街路樹の揺れ方もそれほどではないようだった。

「これからもお仕事ですか?」
「うん、約束がある。この資料を相手に見てもらって、納得してもらえるか、拒絶されるか。そうしたら、もう一回だけやり直し」
「でも、楽しい・・・」
「楽しいよ。きちんとした正解はないのかもしれないけど、気に入ったものに近づける喜びがあるからね」
「やり直しがあっても?」

「そう。やり直すたびに、相手の満足が近付いてくる」ぼくは何度もやり直すというセリフを使っていた。しかし、実際の仕事以外には何事もやり直せないことを痛切に感じてきた過去があった。裕紀にとても良く似た少女からも「やり直す」という言葉を聞いた。それは正解でもなく近くにもない。さっき、少年に返してしまった帽子のように居場所も分からない。ただ、この時間はすすみ、直ぐに過去になった。この少女の一瞬の美しさも過去になり、指の爪はあざやかな色になる。顔は化粧を覚え、笑顔も単純なものではなくなるのかもしれない。いくつかの埋もれていた表情が前面にあらわれ、その言葉や目付きで未来を作る。ぼくは、裕紀のいくつかの表情を忘れてしまっていた。だが、美緒という少女のガイドを通して、再び手に入れる。風は止み、また外に出る。ぼくのこころに穴が残り、そこを身勝手な風が許可もなく通過する。
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壊れゆくブレイン(120)

2012年09月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(120)

「また、泳ぎをはじめようと思う」
 雪代は自分の身体の前で購入したばかりの飾り気のない水着をあてた。彼女はもともと泳ぐのが得意であった。ぼくはその姿を高校生のときに見ていた。彼女は優雅に、疲れた顔など見せずに泳いでいた。
「あの姿、覚えてるよ」
「いつの話?」
「まだ大学生だった雪代も」
「ひろし君もスリムで筋肉だらけの身体だった」それから笑った。
「何か言いたげだね?」
「別に」そして水着をもう一度、丁寧にたたんでからしまった。「あのお腹、まだ隠れてるのかね」

 平日の休みに彼女は泳いでいるようだった。ぼくらの家の近くにスポーツ・ジムができた。ぼくは仕事の往き帰りにその建物から発する消毒くさい匂いを嗅ぐ。そばには行きつけのスポーツ・バーがあった。ある日ぼくと雪代は、ぼくの仕事帰りに待ち合わせた。泳ぎ終えてからそれほど時間が経っていないのか彼女の髪はまだいくらか濡れていた。
「プール、混んでるの?」
「そんなには」
「雪代さん、あそこに通っているんですか? やっぱり、いつまでも健康で美しくありたいもんですよね。うちのバイトの子も何人か通ってますよ」店長は注文を訊きにきたときにそう言った。

 ぼくらはふたつのジン・トニックを前にしている。雪代は泳いで喉が渇いていたのだろう美味しそうにグラスを口にしていた。ぼくは汗をかいた後に取る冷え切った水分の爽快さを忘れているようだった。夕方から夜に完全に移行する前のちょっとした静寂がそのときは感じられたが、直ぐに多くのお客さんが場を占めていった。

「なんかあるんだっけ、今日?」と、ぼくは店長に訊く。
「やだな、サッカーの試合ですよ。書き入れ時です」
「そうか、じゃあ、家帰ってから見よう」
 ぼくらはスーパーに寄り、食材を買った。閉店になる前の店は安売りの時間になっていた。刺身や果物を買って、レジを通過して袋に入ったものをぼくはもっている。
「なんだか、泳ぐと眠くなるね」
「耳に水が入ったりしない?」
「あれ、いやだよね」

 手の込んだ料理はなくても満足だった。ぼくはビールを見ながらサッカーの試合を見ていた。雪代も軽くつまむ程度に食べたがソファに横たわり、そのうち居眠りをはじめたようだった。ぼくは前半を見終えて、また冷蔵庫からビールを取った。むかしのウエスト回り。もう誰も覚えていないのかもしれない。

 後半になる。ぼくの応援している側は負けていた。これから巻き返しをするのを楽しみにしている。笛の合図とともに22人が動くが、出鼻をくじくように勝っているチームが得点を決める。ぼくは嘆きの声をだした。

「点、取られた?」雪代もテレビのほうに視線を向けた。
「うん、無理かもしれないね」ぼくは逆転の期待を押し殺すように言ったが、実際はあきらめてもいない。チームの動き自体は良かったのだ。調子が良くても不図点を取られることがたまにある。いまはそのたまたまのアクシデントなのだ。
「ねえ、水取ってくれない?」

「いいよ」ぼくはコップに水を注ぐ。彼女は受け取るとまた美味しそうに飲んだ。疲労と回復のための水。ぼくはまたむかしのことを思い出した。雪代とはじめて会ったぐらいのときだ。練習後、自動販売機で雪代がジュースを買ってくれた。思ってもみなかったが、信じられないことに彼女はぼくのことを知っていた。ぼくは彼女のことをまったく知らない。目の前に突然おとずれた女性がジュースを握りぼくに渡そうとしている。だが、その一日だけの邂逅で未来が大幅に変わってしまうであろうことは予測として知っていたのかもしれない。

 雪代はクッションを首の下に敷いて枕代わりにした。そして、負けている側の応援に加わった。彼女の応援がぼくを勇気付け、力を倍化させた日々があった。そういう目に見えない力が振動や波動となってぼくのもっている気持ちの核のようなものを次第に上昇させた。核は熱を帯び、それを発するときにエネルギーに化け、ぼくはスポーツ選手としての能力を発揮する。自分の潜在能力を信じてこなかった訳ではないが、雪代はいとも簡単にそのぼくの袋のようなものの端を破き、秘められたものを爆発させる機会を作ってくれた。無数の応援を必要としていたのではない。ただ、雪代にぼくの最高の姿を見せ付けたいという自負心のようなものがあった。

 テレビの中では負けているチームは本来の力を取り戻し、なにがきっかけとしてあったのか分からないが、それぞれの役割が機能してボールをまわし始めた。すると1点を取り、直ぐに同点に持ち込んだ。相手チームは勢いという目に見えないものを恐れはじめ、身体の動きも緩慢になった。敗者はこうして敗因をうみだし育てていくのだというものがあらわれていた。雪代はもう寝そべっていなかった、椅子に座り、リモコンで音量のボリュームを上げた。

 試合の結果はぼくらの応援している方が逆転勝ちを決めた。アナウンサーは勝利を呼び寄せたという表現を使った。それが呼べば簡単に来てくれるものなのか誰も分からない。ただ、片方は片腕を頭上に突き上げて喜び、もう一方のひとりは膝を地面にくっつけ肩をおとした。ぼくは両者の気持ちが痛いほど分かった。

「ひろし君の最後の試合もこうだったね」
「どっち?」
「勝った方。わたしは誇らしかった」ぼくはその夜にみなで勝利の祝賀会をして、雪代と過ごした。「ひとりでゆっくり泳ぐのもスポーツの一部だと思うけど、こうして勝者と敗者が決まってしまう残酷なものでもあるのよね。わたしはそれに深く関わらないでよかった」と言って、最後の水を飲んだ。

 ぼくはそれはスポーツに限ったことではないと考えている。明日、普通に起きるということが勝利の連続であるならば、永遠に眠ってしまうということは単純に負けなのだと感じ、辛い記憶をよみがえらせることを自分に許していた。
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壊れゆくブレイン(119)

2012年09月08日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(119)

 一晩の眠りが、ある出来事の印象を和らげる場合もあるし、逆に胸に強く刻み付ける時間と猶予を与えてしまうこともあった。ぼくは一昨日の失言やその後の恥を速やかに忘れ、もうどうやっても組み立てなおすことができない過去の一日をソフトに入り込んだ悪いウィルスのように消去できずにいる。それが良い思い出ならば歓迎されるが、悪いことは錘となってぼくのこころの配管にしつこくしがみつき、いつまでも存在をアピールした。

「昨日、職場で話題になったんだけど、ポール・ニューマンがゆで卵を食べる映画って、何ていう題名だったっけ?」突然、雪代が言う。
「クール・ハンド・ルークだよ」
「日本語名では?」
「暴力脱獄だっけ・・・」
「そうか。そうだっけ。でも、誰もそんなこと知らなかった。ハスラー2すら知らない。いまの若い子たちは。急に自分が化石にでもなった感じ」
「でも、もったいないね。古いものにも価値があるのに」それはどこまでも真実に近いと思っている。
「今日、仕事終わってから映画に行かない? お客さんから招待券をもらったから」
「いいよ」
「最後の回は、9時ちょっと前なんだ。その前にご飯を食べる?」
「そうしよう」
「じゃあ、8時ぐらいからご飯という予定で。何かあったら、電話するね」

 ぼくは仕度をして職場に向かう。出勤の遅い雪代は化粧をはじめたぐらいの時間だった。もうぼくにとって人生は起伏の多い場所ではなさそうだった。なだらかな平坦な道。ぼくと雪代のスピードは飛行機でもなく、自動車でもなく、ゆっくりと回転する自転車、いや、それでも速い、なめらかに進むボートを漕ぐほどの速度で日々が過ぎていくようだった。それは歓迎すべきことだった。嵐もなく、大豪雨でもない。たまに降る慈愛あふれる恵みの雨。それぐらいの適量の潤いがあった。だが、それは記憶に残る強さを秘めていない。ぼくの記憶のなかで生き残ろうと必死になっていたのは過去の悲劇の数ページだった。それは端的には死であり、ぼく自身にとっての挫折感だった。

 夜になる。周期的に動く月が頭上にある。ぼくは満月に近い形の月を見る。それは飽きさせることがなかった。いつでも初対面のような爽やかな気持ちをくれた。それから時計の文字盤に視線を向ける。円がもつ完結性のことを考えていた。それだけで物事はすべてである印象を与えてくれた。

「待った?」雪代は髪の毛を後ろで不思議なかたちで束ねていた。朝はまだそのようにはなっていなかった。

 ぼくらは映画館からも遠くないレストランに入る。ふたりで眠りが訪れない程度にお酒を飲んだ。一日の興奮を沈静化させるための役割として。

「最初に見た映画って、何だった?」雪代がその長い指で器用にパスタを回転させている。
「子どものときに見たのは、当然、シリーズもののアニメとかだけど、もう覚えていないよ」
「そういうのは抜きで」
「アフリカの日々。それも原題か。あれ、ロバート・レッドフォードの・・・」
「あれね、頭を洗うシーンがある。でも、それ、わたしといっしょじゃないよね?」
「最初に見た映画の質問だからね」ぼくのとなりには確かに裕紀がいた。つまらない退屈な映画だと思っていたが、30年近く経っても不思議と思い出せていた。「雪代は?」

「なんだろう。アメリカの少年が過去にタイム・スリップする話は覚えてるけど」
「それは、ぼくと見たね」
「あの古い映画館だ。立て直す前の・・・」ぼくらは同じ映像を頭に浮かべる。壁に亀裂があったようにも思う。お世辞にもきれいな外観とは呼べないが、なかは結構凝ってあり、居心地のよい所だった。ぼくもあそこにならタイム・スリップしてもいいとも考えていた。ぼくも雪代も若く、世間の大きさも把握できてなく、手触りも悪かったかもしれないが。「でも、なんで、お金払って、ひとのことを観に行くんだろうね? いつも不思議に思う」

「やはり、ひとにいちばん興味があるんじゃないの、同じ人間として。それにむかしの女優さんとかいないひともいるし、きれいなまま残るメリットもあるし」
「わたしの子ども時代はビデオなんかもメジャーじゃなかったからね」
「でも、たくさんの写真が、それこそ大量に残っているじゃない」
「別人のようになったけど。あの娘は、若くてきれいなまま」
「いまも耐えているよ。あの古いビルみたいに亀裂もない」ぼくは笑う。
「いやね、女心が分かっていない。もう出る?」そして、雪代も笑いながらレシートをぼくの方に押した。「失言のため払ってね」

 ぼくは館内の座席に座る。雪代もトイレから戻ってぼくの横に座る。予告編がはじまる前に室内の照明はおとされる。ぼくは彼女の匂いをとなりに感じる。他人の人生をこれから眺めるのだ。そこに涙や笑いを誘発させるなにかがある。ぼくは過去のそうした日々も思い出していた。アフリカの大地を吹き抜ける焦げるような風を映像を通して知る。ふたりの主人公の緊密な関係。いつか、裕紀といっしょにその場所に行けたかもしれない。あの可能性が無限だった日々がぼくの頭にある。その可能性は古いむかしの映画館のように壊された。設計図があれば再生されるのに。だが、ぼくの頭のなかではそんな面倒な手順も踏まずに簡単に再現された。
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壊れゆくブレイン(118)

2012年09月07日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(118)

 スポーツが世界で戦うという次元になっていく。ぼくらが若いころはまだ頭の片隅にもそんな考えは入り込んでいなかったように思う。小さいスペースで自分の勝ちを誇ったり、負けたことを世界の終わりのようにも感じていた。そんな世界は、見渡す限りどこにもなかったのに。

 大人である冷静さがぼくにそのような回答を与えた。大人の自分はそれで納得するが、数十年も前の自分はその意見をないがしろにする。

 それはスポーツという分野だけに限らないのかもしれない。芸術もしかり、また芸能も世界という座標軸を基準にしていなかった。多くのものは言語という制約がある。ほかのひとの感情に直接に働きかけ動かす要因となるのは言語である。だが、バレエやただ早く走るということは言葉に頼る必要もない。

 ぼくはいくつかのスポーツをしたが、いまはもっぱら見る側にまわっている。東京で大きなサッカーの試合があり観に行ったが、いつものようにビジネス・ホテルも予約できなかったし、それよりましなホテルも埋まっていた。かけられるだけの電話はかけた。仕方なく、ぼくは広美の家の一室に泊まることになった。それはなぜだか居心地の悪い気持ちにさせた。もともと義理の関係ではあったが、そういうことを度外視する仲にはなっていた。だが、しばらく離れて暮らしていると気恥ずかしさが先に立った。でも、ぼくはその試合がなんとしても見たかったのだ。

「泊める代わりに、これ、いっしょに見に行って」
 と、広美はバレエのチケットを差し出した。
「彼氏みたいなひとはいないの?」
「いないから誘っているんじゃない」そういう言い草は若いころの雪代に似ていた。
「途中で寝てもいい?」彼女は返事をしない。ただ冷酷きわまる視線を向けた。

 その前にぼくはサッカーを見る。広美がバイトを終えたというので待ち合わせをして、いっしょにご飯を食べる約束をした。そこで、さまざまな話をする。この大人の女性になりかけている人物は、もし、雪代がいなかったらぼくと接点はなかったのだと当然の事実を考える。好きになったひとのひとり娘。それがぼくの人生に大きく関与した。

「瑠美は、最近、彼氏ができたみたいで付き合いが悪くなった」と、彼女は友の近況に対していくらか憤慨している。ぼくは寝耳に水という言葉をあらためて認識する。彼女は、ぼくの甥と結婚するのだ、と誰かの予言を真に受けていた。そんな遠回りを許してはいけない、という不確かな気持ちがあった。しかし、それはただ第三者の当てずっぽうな意見や予想であった。だが、ぼくは腑に落ちない。

「へえ、うまくいってるんだ」
「え? うまくいってるとか、なにも言ってないよ」広美の食欲は増す。東京で、やはり孤独な食事をしているのかと、その空虚な時間を可哀想に思う。
「言ってないけど、付き合いたてなんてうまくいくに決まっているじゃんか」
「そうなの、知らないけど」
「でも、彼女のこと陰で好きになるひとなんて大勢いると思うけど」甥の気持ちすらぼくは知らないのだが。
「陰にいたら分かんないよ。ひろし君もママにきちんと伝えたんでしょう?」

 ぼくは先ほどまでいたサッカー・グラウンドのことを考えている。応援にも言葉が必要なら、チームの仲間に戦術を伝えるのにも言葉が必要だった。ときには群衆が発する怒号に消えてしまうかもしれないが、練習のときに多くの時間を費やして、それらに対処していたはずだ。ぼくと雪代も多分そうなのだろう。

「瑠美ちゃんに、誰か紹介してもらえばいいのに」
「そういう関係じゃないよ」

 ぼくは彼女の母との出会いを考えていた。それは、誰かを介するという柔なものではなかった。ラグビーで疲れた身体に、その存在が飛び込んできた。有無をいわせないほどの強い衝撃だった。あれがなかったら、一体、ぼくのその後の人生はどうなっていたのだろう。それは余程つまらなくし、味気のないものとなったのだろう。だが、起こってしまった。別れを挟んだが、それも何の意味もなさなかった。彼女がいないときにその美を手にし、また反対に失ってこそ裕紀も尊かったのだろう。ぼくは、そういう立場にならなければ大切なものに気付きもしない感覚の乏しい人間のようだった。財布の中身に無頓着の人間のように。だが、失ったときは誰よりも悲しみの袋を巨大化させた。それに押し潰されることすら望み、しかし、どこかで逃げ道をずるくも作っていた。

「ましな洋服ある? 明日は、サッカーと違うからね」と、広美はご飯を食べ終え満足した顔でいった。
「もっと、若くて、優しいこを探せばいいのに」
「いまさら、遅いよ。それに泊めてあげるんだから」
「分かったよ。きちんとした格好をする。さてと、夜は早いし、コンビニでビール買うよ」
「どうぞ。誰も止めないよ」

 ぼくは袋をぶら提げ、東京のある街の路地を歩いている。ここには雪代の印象はまったくない。ぼくは最初の妻である裕紀とこのように普通の普通の時間を過ごしたことを思い出している。華美なものもなく、雑踏も明滅するライトもなかった。それだから幸せな一日として壁に釘付けできるようにも感じていた。しかし、留めていたはずのものはもうなく、外したあとの日に焼けた壁紙もなかった。
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壊れゆくブレイン(117)

2012年09月06日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(117)

 ぼくは妹の家にいる。広美が東京に行ってから休日をひとりで過ごすことが多くなった。妻は仕事がら毎週のように土日を休めるわけでもなかった。妹はもともとぼくのラグビーの後輩と結婚していたから気持ちの上でも楽だった。さらに、甥や姪も大人になりはじめ、きちんとした考えをもつようになり会話をしてもそれなりな対応ができた。

 大人同士で話すときは、もうぼくらは未来を前提にすることもなく視野に入れてもいないらしかった。すべては行われたあとの後始末のようだった。そういう会話の中身になっていると、ある日、姪が言った。

「それは、仕様がないよ。ぼくらは、歩んだ過去の幅が長くなり過ぎたから」と、ぼくは言い訳をする。しかし、甥や姪と話すときは、未来に向けて意見を放った。未体験や展望を会話に含め、経験の不足も愛すべきことのひとつにした。ぼくにもそういう時代があった。そういう日々が永遠につづいてほしいとも願っていたが当然のこと無理なお願いな部類にそれは属した。

 ぼくは夜まで居つづけ彼らといっしょに酒を飲みはじめる。妹の手料理を食べながらそれらを嗜むということも以前だったら考えられなかっただろう。彼女が家事をてきぱきとこなす女性になるなど考えもしなかった。ただ元気で外交的な女性のひとりとしてぼくは認識している。いまももとは変わらないが、ふたりの子どもを育てた年季もあった。

 仕事も終わり、雪代も電話をかけてきてこちらに加わるよう促された。すると20分もしないうちに彼女はやって来る。ぼくの妹やその夫である山下は、雪代のことを当初は愛すべき裕紀から奪った女性として、負の存在として彼女のことを認定した。その裕紀と結婚し死別したあとぼくに立ち直る力を与えた女性として彼女を認識し直した。ぼくらはなぜ、決断を早く下してしまうことを止めないのだろう。最初は否定的だった気持ちもいつか改善され肯定的な印象を勝ち取る。ぼくはそれらのひとの感情の動きや高低への揺れを客観的にながめていた。だが、また同じようにぼくもひとのことを瞬時に判断した。手持ちの情報もそれほどはないのに。だが、ぼくは根底には愛を持ちたいと思っている。悪ばかりではひとは成り立たないのだと思いたかった。だが、そういうやつもたまにはいた。だが、それもぼくの信念らしきものになりはじめた考えを打ち壊しはしないのだという無駄な自信があった。それはもともとがぼくにあった考えではないのかもしれない。ぼくは勉強のため席を外した子どもたちを抜いた大人三人を前にして口には出さないがそんなことを思いつづけていた。では、誰が持っていたのかと問われれば、それは裕紀の考えだったとの答えに導かれる。彼女が死んでも、それはいくらか形を変えながらもぼくに移植されたのだろう。だから、ぼくはその思いを大切にする。

「広美がいなくなってから、ひろし君は暇を持て余すようになったのよ」雪代は、ただ事実だけを提示するように言った。その解決も代案ももっていないようだった。ぼくらの義理の親子関係はそれほどうまく行っていたのだろう。ただの友人のように。どちらかが大人であったのか、どちらかが子どもでいたからそれはうまく機能したのだろうか。原因は分からない。それに原因を追究するような問題でもない。仲の良い友だちは、ただ、気が合うとしか説明できない。

「お兄ちゃんは面倒見が良かったから」
「オレら後輩には厳しかったぞ」山下がそう付け足す。
「お前がいま教えていることに比べれば優しいものだよ」彼はぼくらの母校でコーチをしていた。
「コーチと先輩では態度も威厳も違うから。だから、恐い先輩は恐い先輩」

 ぼくにも厳しかった何人かの先輩が思い出された。だが、あの恐さはいまになると思いやり以外の何物でもないように感じられた。甘すぎる飲み物のように思い出の濃度は、はるかに濃かった。それも印象を変えてしまう、時の推移のひとつの現象なのだろう。ぼくらは厳しかった人物の無理な注文を許し、愛の記憶とでもいうように化けることさえ許していた。これこそが、さっき姪が言っていた「後ろ向きな会話」とでも呼べるのだろう。厳しさの名残りさえも美しい記念碑となるほどまでに。

「お皿洗い手伝うね」と雪代は言って台所に向かった。ぼくの妻はぼくの妹と両肩を並べ会話をしながら皿を洗っていた。雪代がしているのは見慣れた風景だったが、ぼくはそれこそがぼくのたどり着いた、いや、目的とした人生のゴールだとも思っていた。幼かった妹は、ぼくと喧嘩して勝ち目がなかったことに対して癇癪を起こし泣いていた。泣きながらまだ懲りずに立ち向かってきた。両親はそういう気の強い部分をなげいた。ぼくは異性をあれほどまでに熱烈に愛し、焦がれることなどまったく知らなかった年代である。あの妹も恋をするなど思ってもみなかった。だが、それぞれ愛すべき妻や夫を見つけ、落ち着くところにきちんと納まっていた。ぼくには紆余曲折があったが。そういうことを思い、まだ背中を見ていた。机の向こうでは疲れたのか山下が居眠りをしていた。ぼくは練習中にその姿を見つけていたら怒鳴っていたはずだ。だが、そうする資格をもう有していない。彼の先輩でもない。彼は、ただの妹の旦那だ。厳しさなど、もうぼくにはなかった。多分、過去にもなかったのだろう。ぼくは全国大会に出ることにしがみついていた。その為に、彼らの力を必要としていた。彼らの実力を総ざらいしてもまだまだ足りなかった。もともと、ぼくにも彼らにも高すぎた目標だったのだろう。それゆえに挫折もし、ライバル校に勝てたときには舞い上がり交際をしてもいない雪代と関係をもった。そして、裕紀は追い出された。

「おじさん、試験でも終わったら、また飯でもおごってよ」と甥がぼくらが帰る間際に階段を降りてきて見送りながらそう言った。
「連れて行ってもらいなさい。うちの子が東京に行ってから、週末は淋しくしているんだから」と雪代も言った。ぼくは曖昧な返事だけ残し、夜の見慣れた景色をなつかしく感じていた。
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壊れゆくブレイン(116)

2012年09月04日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(116)

「デリケートな話なんだけど、健康診断を受けたら、再検査になっちゃった」
 ぼくはなぜだか病気にかかるのは裕紀だけだと決め付けていた。それを向こうの世界に彼女は肉体とともに運んでしまったのだと。だから、雪代がいつもと変わらない自然な表情でそう告げたことに驚いていた。
「どこが、悪いの?」

「どこも悪くないよ、再検査というだけで。可能性があるだけ」雪代はあらゆる方法をつかって心配させないように努力しているようだった。ぼくは、そういう面ではかなりナイーブになっていた。「心配しないで」
「心配するよ」

「彼女は特別だったのよ」ぼくらはふたりの間で裕紀の名前を決して出さなかった。口にしないから居ないということではない。逆にぼくの胸にはいつもいた。雪代がどれほど考えているのかまったく分からない。だが、例外的にその存在を明るみに引っ張り出した。それは妥当な瞬間でもあった。ぼくは一度失い、二度もそれを経験することは避けたかった。妻を病気で。なぜ、ぼくは病気を必ず死と向かい合わせ、つなげてしまうのだろう。それは極端に過ぎた。冷静に判断すれば。

 結局のところ胸のしこりは良性だった。その結果が出るまでは気が気ではなかった。でも、その報告はぼくに安堵をもたらせてくれながらも、いつか、魔の手がのび、ぼくを苦しめることもあるのだという萌芽をも含んでいた。

「広美も、そういう一通りの検査は受けているのかね?」ぼくは素朴な疑問を口にする。年齢が若いからといって、ぼくらは病気から完全に守られているわけではないという事実を、ぼくはふたたび思い出した。

「訊いてみる。それで、受けるように言ってみる」もうその話はここで中断という意志がその口調にあらわれていた。病気を脇に置いておけるひとたち。ぼくと雪代の考えは、その点では一致しないのだろう。お互い、配偶者を亡くしていたが、ぼくは病気の看病をし、雪代は事故で一瞬にして島本さんを失った。どちらが、より悲しいかという問題ではなかった。ぼくは弱っていく状態を、何の助けにもならず、黙認するしかなかったのだ。あの無力感をぼくは二度と味わいたくない。自分になにか失点があり、その結果として苦しみたかった。それを勝手に送りつけられることに、うんざりしていたのだろう。だが、雪代がその話題を膨らませないことを決めた以上、ぼくもそれに同調した。かなり、不本意でもあったのだが。

「ここなのよ」雪代は風呂上りにそこの部分を自分でさすった。「どう?」
「ぜんぜん、分からないね」ぼくもその胸の箇所を触る。そこには対象物がまったくなかった。ぼくは不思議と裏切られたような形になる。まるで、それを発見できることを楽しみにでもしていたように。
「だから、心配しすぎなのよ」彼女は、安心させるように笑った。その検査結果が来るまでは、自分もすこし動揺をしていたことを隠しおおせたように。
「でも、今後も定期的に受けた方がいいよ」

「分かってる」彼女はビールをふたつのグラスに注ぐ。ぼくは若いころのスポーツの好影響なのか、まったく病気と無縁でいられた。自分がそういうものたちに侵されることすら想像できなかった。だからといって、その恐ろしさを知らないわけではない。誰よりも認識しているのだという驕った気持ちもあった。遠くに突き放すこと。それを目指していたのだ。それと同時に知識としては、胸に飛び込むことをこころがけていた。お前たちのやり口を自分は知っているのだから勝手なことはさせまいとも思いたかった。だが、実際はその存在を知ったときには脅え、手遅れになるのだという恐怖感すらあった。でも、こうしてふたりでビールをゆっくりと飲んでいると、ぼくらはこうしてこのまま太平でいられるのだという気持ちも残っていたのだ。

「適度に働いて、適度にビールでも飲んで」ぼくは自分でもなにを話すのか分からなかった。「もうがむしゃらに何かをすることもないよ」
「でも、小さな面倒なことが増えるでしょう。大人になればなるほど」

 実際、その通りだった。「とげ」とまでは言わないが、小さなものが生きることに挟まってくる。それはきれいに抜けることもなく、体内に勝手に居場所を作っている。在ることすら忘れ、日常の営みには何ら影響を及ぼしてこない。だから、ないと誤解する。

「もっと人付き合いを悪くするとか・・・」
「わたし、これでもお客さん商売だから」

 雪代はパジャマの首元をしっかりと合わせ、飲み終わったグラスをシンクのなかに片付けた。それから自室に消えた。ぼくはまだ飲み足りなかった。スポーツ・ニュースを見て、別番組で知っている情報を再度ながめた。また缶ビールを開け、すわって引退をする予定の選手の最後の頑張りを見ていた。裕紀は病気になったことを泣きながらぼくに詫びた。詫びる必要などどこにもなかった。そして、泣くのはぼくが先であるべきだった。あの過去の一日をぼくは思い出す羽目になる。早目に眠ってしまってすべてを忘れたかったが、そうしなかった。引退する選手は来年どうするのだろう。生計の心配はあるのだろうか。生きることと等しかったスポーツをすべて投げ打った彼の喪失感の重みはどれほどなのだろう。ぼくはつまらないことを考え続けていた。

「寝ないの? テレビの音が外にも漏れるよ」と、雪代が部屋から首を出した。彼女は無事だった。ぼくにはまだまだ彼女のいくつかを発見する時間が宿った。
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壊れゆくブレイン(115)

2012年09月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(115)

 暗くなった車道には、それほどの車の量がなかった。スムーズな車のモーターの回転音がする。だが、音楽をかけると、その路上にいることも忘れてしまう。

 となりでは雪代が寝息をたてていた。かすかな音。それは音というしっかりとした呼び名を必要としていないのかもしれない。ただの振動。世の中を乱さない震え。先ほど海で見た大きな波とは大違いだ。数分後、サービスエリアで車を停め、ぼくはコーヒーを買った。手にのった丁度の重さの小銭。雪代にも同じものを買っておいた。彼女は車が停まっても、そのままの体勢から動かなかった。

「コーヒー?」ドアを開けると、飲み物を手にしたぼくに雪代が訊いた。
「飲む?」
「ううん、いらない。いま飲んだら、多分、夜に眠れなくなるから」ぼくはコーヒーの作用より、いまの眠りのほうが、睡魔とそのここちよい導きに影響を及ぼすような気がした。また車を流れに戻すと、雪代はもう眠らなかった。「わたし、寝てた?」
「うん。気持ち良さそうだった」
「不思議だけど、車を運転している夢を見てた。寝ているのに、アクティブ」
「どこら辺を?」
「さあ、分からないけど。まだ、ひろし君は免許を持っていなかった。それで、わたしが運転していた」

 その時期を特定するのは簡単だった。ぼくらが交際していながらも、まだぼくは車の運転を法律によって規制されているころ。そんなにも長い期間ではない。
「なにか話していた?」
「ひろし君は拗ねているようだった。ひじや手首とかが擦り剥けている」
「まだラグビーをしているんだ」
「多分、最後の試合だったのかもしれない」

 それこそがぼくの分岐点だったのだろう。いまになって思い返せば。

 ぼくは地方予選の試合を勝ち進み、ライバル校についに勝った。それを目指してぼくの三年間は費やされたとも言えた。あとは、もう一試合だけ準決勝の対戦校より弱い相手と戦うだけだった。だが、ぼくの身体は痛みが覆っている。それも、興奮した気持ちが軽減させている状態であることを知らなかった。ぼくは雪代に誘われる。彼女の存在を知ってから、それは知るという単純な出来事ではなく、憧れるというもっと精神的な深い部分での能動的な決意でもあったわけだが、二年以上の月日が経っていた。憧れとは別に、ぼくには裕紀という同年齢の愛すべき女性がいた。ぼくと裕紀の関係は順調だった。いますすんでいるこの道のように。

 ぼくは自分にご褒美をあげたかったのだろう。こんなにまで苦労して勝ちをおさめた自分には、もっと大きな喜びと、反対にその喜びを沈静化させる必要があった。そこに雪代がいた。ぼくの腕のなかにはじめて彼女がいる。彼女は前の交際相手と別れたばかりだったと思う。ぼくには裕紀がいた。だが、あの勝利を祝うにはこうするしか方法がなかったのだ。それは言い訳でもない。ぼくが自分に選んだプレゼントだった。勝利への願いと報い。

 そのことを誰かが裕紀に告げた。彼女は近いうちに留学をすることになっていたが、それを早めた。ぼくは見送ることもできない。気が付けば、ぼくは彼女と会うことを絶たれていた。ただ、裏切ったのだ。得たものに比べれば、代償は小さいのだとぼくは結論をくだそうとした。自分自身のことも、周りのことも一切分からない無知で幼稚な自分がいた。

「あの頃のことか」ぼくがその返事をする間には、このような出来事が頭のなかをうずまいていた。
「となりで勝利に酔っているはずの男の子が拗ねていた。これから、それで偉いことに巻き込まれてしまうような恐れをいだいて」
「自分が望んだことだし、誰よりも自分が選びとったことだよ。分岐点になったけど」
「たしかにね」
「別れて東京に行ったことも同じように分岐点だった」
「道、間違えるよ」

 ぼくは過去の思い出を考え過ぎ、いま通過する場所を間違えそうになった。家に帰るには右。左に行けば山に入ってしまう。ハンドルを調整し、ぼくはすすむべき道に戻る。

「わたしもあの男の子を応援することを生き甲斐にまで感じていた。その結果が身体を傷だらけにすることによって証明されることになったんだ。そんな風に思って、車を運転しながら横目で見てる。あのときは考えもしなかった。傷ついたのは、傷つけたのは身体だけじゃないかもしれない。わたしも随分と欲張りだったなって」
「でも、良かったよ、すべて」

「悪いとも思ってないよ、これっぽっちも」暗い車内で雪代は指を動かしたようだったが、ぼくは、そちらを見ることができない。すれ違う車の光がぼくの視界に入る。与えられた命の用い方として自分の生き方や選んだものは正しかったのかとぼくは思案した。そこには利益や損害という考えは余剰なもので、入り込ませる余地もなかった。笑いや涙というものも違っていた。ぼくの擦りむいたひじや痛む節々こそ正しかったのだとみなしたかった。それは、ぼくだけが受けるものではない。ぼくは他者にも同じように無数のものを刻んだ。能動的に。加害者として。それが許されるのかどうかも問題ではない。エンジンの音を聞いて、帰るべき家にたどり着く。それだけが正しいのだ。みな、自分の拠りどころを見つけ、帰るべきところに到着してほしかった。途中に転がっている石ぐらいにしか自分の意味もないし、善も悪意もなかったのだと、頭のなかで、まるで旗でも振り回し騒ぐ誇大なものを戒めた。
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壊れゆくブレイン(114)

2012年09月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(114)

 ぼくは沈み行く夕日を見ていた。何度か来ていた家から二時間ほど離れた潮の匂いのする町。横には雪代がいた。最初に来たとき、ぼくはまだ十代で仕事だけをして働く大人ではなかった。自分の稼ぎを家族のために使うということも実践していなかった。そもそも、自分がどのような大人になるのか、その結果がぼんやりとも分かっていなかった。あれから、時間がかなり早いスピードで経過していた。

 あのときと現在では夕日に違いがあるのかと問われれば、外見上はまったく同じであった。ただ、見るものの意識によって壮大に見えることもあれば、反対に己のちっぽけさを痛感させられることもあった。その大きさゆえに対決するということは考えられもしない。そして、いまのぼくは、自分がハムスターにでもなっていたかのように、小さなゲージのなかだけで動き、ジタバタし、些細なことに拘りすぎていたようにも思えていた。しかし、それも仕様がない。達観などという言葉はぼくにはなかったのだ。今後もないのだろう。ただ、そのときの場面ごとにまじめに取り組むしかなかった。それで得るものもあれば、当然、失うものもあった。

 ぼくらは立ち上がり、なんの気なしにお尻の砂を払うような仕草をした。

 歩くと、屋根のある商店街がみやげ物を売り、シーズンから外れていたためそこは思いのほか閑散としていた。少し路地に入ると、そこの住民のための総菜屋や肉屋が良い匂いを発していた。まだ後方では潮の匂いも途絶えることがなかった。

 ぼくらはある店に入る。今日のぼくはなんとなくふたりで過ごして来た時間を貴く感じていた。なぜなのだろう。その証明をするかのように、ぼくはひとりで無為に休日を過ごしつづける日々もあったのだということを思い巡らせた。十年近く前に最初の妻が死に、それでこころを閉ざすのをずっと無心に守っていたら、この日のような安らかな時間を持つことはできなかったのだ。雪代がぼくの荒んだ生活を軽んじることなく、彼女なりの仕方で関わってきた。その結果がどうなるか誰にも分かっていなかった。ぼくらは中断した関係を回復する意図などなしに、ただ、自分の未来にとって互いを必要とするという無意識な気持ちを、それこそ無計画に実行した。

「若いとき、ここに来たね」
 ぼくらは料理を注文し終わり、それをテーブルで待っている間に雪代が訊いた。
「覚えてるよ。まだ、ぼくは大学生だった」
「その関係が、こんな風につづくとは理解できていなかった。望んでいたのかもしれないけど」
「うん。別のひとと結婚もしたしね」
「その産まれた子も、わたしをいつか必要としなくなる。もう、なっているのかもしれないけどね」
「いいことだよ」
「淋しいけど」

 だが、ふたりは一緒に暮らしているときも、それほど密接な関係は保っていなかった。しかし、離れてみるとそれぞれが依存しあい、間柄を貴重なことと考えているらしいことは実感できた。その点で、ぼくはある意味では他人だったのだ。二度目の妻に、義理の娘。だが、同時にぼくはこれまでの時間を、そのような事実を考えることなく深く関与してきた。ぼくにそのような機会を与えてくれたふたりにも感謝していた。大昔、ここに座っていた大学生のぼくに、そのふたりを仮に紹介するとしたら、どんな言葉を使えばよいのだろう。目の前に座っている女性とぼくは二十代の半ばに別れることになる。それから、傷つけてしまった、もちろん、その事実のため自分も傷ついた以前の交際相手と東京で結婚することになる。彼女は若くして亡くなる。ぼくは、大学生の彼の前に座っている未来の女性と再婚する。その娘は、ぼくの人生をも愉快なものにしてくれた。大学生の彼はその漠然とした気持ちをすべては把握してくれないだろう。でも、それも仕方がない。あれから、二十年以上もかかってぼくはその毎日毎日を歩みつづけてきたのだ。数分だけの説明で納得してもらいたくもなかった。

「淋しくないだろう・・・」
「なんで、淋しいよ」
 注文した料理が運ばれてきた。ぼくは、大学生の自分がなにを食べたか覚えていない。一昨日の食事すら覚えていないぐらいだ。でも、その都度、ぼくの栄養になってくれたことには変わりはない。雪代と過ごした月日も同じようにぼくに満足感を与えてくれた。例えば、それがどこだと問われれば返答にも困るかもしれないが、指摘できなくてもその幸福と安堵は奪われることはなかったのだ。

「また、ここに来るのかな?」と雪代がしみじみと言う。
「孫でも連れて、海水浴に来るようになるかもしれない」
「あのひろし君がラグビーボールじゃなくて、うろうろ走り回る子どもを追いかけるようになるんだ」
「足がからまって、転倒して・・・」
「それも、いいかも」
「無様だけどね」
「誰も覚えてないよ」
「そうだね」
「あの活躍した日々のこと、まだ、わたしは覚えてるよ」
「若かったときの記憶は、なかなか消えてくれないものだよ」

 そのようないくつもの思い出が、ぼくにも手付かずのまま残されていた。それを手放す方法も思いつかず、いつか着るかもしれないと思いつづけた衣服のように、ただタンスのなかで眠りながら古びていく将来が待っているのだろう。あながち、間違ってもいないのだろう。古いものを捨てることだけが正解でもなかった。とくに物質として目に見える形で存在しているものでもなければ。
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壊れゆくブレイン(113)

2012年09月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(113)

 気がつくとぼくは二日酔いで目を覚ましていた。こういう状態になるのは、裕紀を亡くした直後以来だった。あの頃は、それが日常でもあった。いまは、ベッドから起き上がるのも億劫で、その日は休日だったこともあり、その中でダラダラと過ごしていた。

「お酒、飲み過ぎ?」と、いつまでも姿を見せないぼくにやきもきしたのか、雪代が訊いた。心配というより、いささかあきれたという様子に近かった。
「うん。ひさしぶりだよ、こんなの」
「気をつけてよ。もう、わたしも、頼れるひとがそんなにいないんだから」
「うん。気をつける」自分の返事は気転も利かないそのままのオウム返しだった。
「冷たい炭酸でも飲む?」
「うん、そっちに行くよ」

 ぼくはベッドから足を出し、床に足裏をつけた。思ったより床はひんやりとしていた。もしかして、足の方が暑過ぎたのかもしれない。

 ぼくはテーブルにあった氷入りのコップを一気に飲み干す。生き返ったという実感があったが、直ぐに気持ちの悪さに逆戻りした。それを無言で雪代は見ている。
「もう、まったく。ふたりで暮らしているのに、ひとりが、それじゃ」それ以降の言葉は出てこなかった。
「なんだか、楽しかったから」
「辛いことが多いより、いいけど。身体の心配もしてよ」
「うん、また寝る」

 そう言ってベッドに戻っても、眠り自体は訪れず、目を閉じて考え事をしているだけだった。遠くで雪代が家事をしている際にたてる音がきこえる。それが時折り高い音を発し、ぼくの五感に響いた。ぼくらの間には、ぼくが前の妻との死別から立ち直れない古い記憶が淀みのようにただよっていることを思い出させた。
 二時間もしないうちに、ぼくはやっとその重荷から解放されつつあった。浴室に行き、そこで熱いシャワーを浴び、その残り滓も流し尽くしてしまうように勢いを強めた。

「直った?」
「やっと。ごめん」
「むかしもこうだったね。あのときはこころは弱っていたけど、身体はまだ若かった。いまは、もう身体も疲れてきているんじゃない?」
「さっきから、爺さん呼ばわりだな」ぼくはまた冷たい飲み物を口にする。
「だって、なにかあって倒れでもしたら、わたし、ひとりだし・・・」
「まだそんな状態にならないよ」
「でも、いつまでも、10代や、20代じゃないんだよ」
「分かってるよ。でも、直ると、途端に腹減った」

 その言葉を機に雪代の機嫌がなおったのか笑顔を見せた。ぼくらは外にでる。風は穏やかで、少し奥のほうで痛む頭以外は、すべてが順調になった。すると、雪代の電話が鳴った。娘が東京から電話をかけてきた。彼女は立ち止まり、そこで少し話しはじめた。
「なんだって?」
「とくに用はないけど、お金が要るみたいなことを言ってた。勉強に必要なんだって」
「緊急?」
「ううん、違う」それ以上、つづけなかった。「便りがないのは、良い便り」
「子どもなんて、心配させるのが仕事みたいなものだから」
「きょうのひろし君は、あまり、そういう強気なこと言えた義理じゃないよ」

 ぼくらは飲食店に入る。となりの席ではビールを旨そうに飲んでいる男性がいた。だが、今日だけはぼくはそんな気分になれなかった。また、明日にでもなれば、忘れてしまうだろう。簡単に忘れてしまえる出来事があり、同じ過ちを繰り返す愚かなこころがあり、まったくその反対のものもあった。いつまでも忘れ去らない情景があり、二度と失敗しないよう防御をしていることもあった。妻はぼくより先に死んではいけない。そうなれば、ぼくは、今日以上の苦しみをまた連続して経験しなければならなくなるのだろう。あおの日々のように。連日連夜。一度の人生で、二度もそんなことが起こってはならないのだ。

 ぼくは思い出したかのように、旨そうにスパゲッティを食べた、それはかなり美味しかった。突然に起こった空腹感がそういう気持ちにさせたのか、それを抜きにしても味が良かったのだろうか。その様子を雪代はじっと見ていた。
「むかしから、それ好きだったよね?」
「そうだったかな」
「自分では気付いてないの?」
「うん。でも、好みなんて変わらないものだからね」
「変わったら困るよ。わたしのことを好きになったひろし君が急にいなくなったら、あれは、全部うそだったらって言われたら、わたしの人生、どうしてくれるんだろう」
「どうしようもしないよ」
「もっと、強い二日酔いで、寝てたら良かったのに」彼女もフォークを回転させる。その行為自体に楽しみを見つけたように口に運ばずにくるくると指先を器用に動かしていた。

 ぼくは食べ終え、ナプキンで口の周りを拭いた。今更、ぼくはこれが好物だったのかと発見し直し、空になった皿の上を名残惜しく見つめていた。それは、ランクの10番目にも入らないものだと思っていた。しかし、雪代の観察からすると、ぼくはいつもそれを注文していると言った。どちらが正しいのだろう。多分、どちらも間違っていなかった。目の前の女性を空白の期間がありながらも、三十年近くもぼくは見て来たのだ。旅で不図目にした見知らぬ土地の気になった風景では決してなく、それは日常的な愛着を持ち続けた見慣れた景色になっているのだろう。その長くなりつつある期間こそ、ぼくの人生と等しくなるのだ。二度と繰り返したくない二日酔いから覚めた自分は、毎日、接し続けてきた女性の魅力にあらためて悩殺されていたようだった。
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