爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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11年目の縦軸 38歳-37

2014年07月14日 | 11年目の縦軸
38歳-37

 男女間にわざわざ愛など割り込ませる余地はないと考える。考えるのは自由だ。辞書で「愛」の項目を開けば、それらしき意味合いはあるかもしれないが、誰一人としてきちんとした定義など説明することはできないのだ。グラムという単位まで正確に量り間違えることなく。

 しかし、定義などなくても存在しているものもたくさんある。風船。石鹸。爪切り。日常品がもっともすばらしいものたちなのだと仮定する。引き出しの手前にあり、直ぐに取り出せるもの。経常的な使用に耐え得るもの。評価も誉め言葉もないのに、主人に献身的に仕えるものたち。

 期待を失いつづけ、本来の妥当な大きさとして認識する。膨らませたのも風船ならば、もとの原型のしぼんだものも風船と呼べた。子どもたちはどちらを喜ぶのだろう。空気のつまった風船を叩いて宙に浮かばせることが楽しければ、その状態になるよう自分の息で空気を吹き入れることも楽しみの一部に違いなかった。

 愛だけが、居心地の良い場所を与えられている。何にへつらうこともなく優位な状態を確保している。ぼくらは、それを前提にして生きている訳でもなかった。

 雑巾やティッシュ・ペーパーが汚れを拭き取るのだ。価値や値打ちの高いものだけが生活を組み立てているわけではなかった。摩耗し、すり減ることを余儀なくされるもの。その従順なる使用の過程こそ、はかなく貴重なものだった。

 目標も、結果としての金字塔もない。やり過ごしたことはすべて忘れていいのだ。いまだに主張するのは図々し過ぎる。その生意気な自意識がぼくの体内にある。失恋の事実を記憶して、たまには思い出すよう促す。愛というものが、もっとも誇らしい記念碑になると鞭打って。

「卵焼きでもつくる? 目玉焼きの方がいいかな?」
 絵美が冷蔵庫を開けて、そう言った。
「半熟ぐらいの目玉焼き」

 これが愛だろうか。等身大の愛の重さだろうか。

「その間にポストのなか、見てきてくれない。音がしたから」

 ぼくは玄関のドアを開け、絵美の名前のシールが貼ってあるアルミ製のポストを開いた。新築だか中古の売家のチラシが無造作に突っ込まれている。ピザの宅配用のメニューや、クレジット・カードの明細書らしきものもあった。ぼくは取り出してから中が空になったことを確認し、また閉じた。

 ぼくは部屋に戻り、テーブルにそれらを置いた。結婚というもので名前が変わる場合がある。カードの名義も変える必要があるのか考えた。どれも、休日の朝のいまは面倒だという認識しかなかった。すると、焼きたての匂いがする皿がそのわきに置かれた。

「いらないものばっかり」ひとつひとつを点検して、そのほとんどを絵美はゴミ箱に捨てた。

 ぼくらは大勢の人間と毎日、すれ違う。瞬間ごとには印象は感じたのかもしれないが、ほとんどは覚えてもいない。そして、自分の家のポスト以外を開けることもないので、何が入っているかも知らなかった。だが、こうして見ると、そんなに大差がないことに気付く。当然といえば当然だった。もっと大きなものは宅配便の運転手がもってきてくれて、サインと交換に手渡してくれるのだ。

 コーヒーを飲み、たまごを食べた。横にはソーセージもあった。飽きないものたち。飽きる前に奪われてしまったもの。飽きるという峠があるなら、そこからの下降は急なのだろうか。ずるずると地盤沈下するようなものなのだろうか。ぼくには分からなかった。

 ぼくは流しで皿を洗う。よれたスポンジ。使い込まれたタオル。どこに愛があるのだろう。ぼくらが涙を流すようなものとして貴く感じる愛などいったいどこにあるのだろう。

「分割にしておけばよかった」

 と絵美は袋を破る音がしたあとに言った。一遍に払うもの。一気に奪われるもの。徐々にぼくの前から消えるもの。

 大事なもの。大切にしていたもの。手にしたもの。手から離れてしまったもの。いつまでも魚の骨など喉に刺さったままではいないのだ。どこかで終止符があり、何らかの解決をする。物質があるものの常として。非物質の方こそ、自己主張が強く、こだわりを必要以上に長引かせた。その拘泥の大元はぼく自身のうちにあった。

「なに、買ったの?」
「洋服。後で着て見せるよ」
「そんなに高いの?」
「まあまあ」

 彼女のまあまあというのはどれぐらいの値段なのかぼくは予想する。自分の着ているTシャツ。去年も着ていた。汗を吸い込み、たくさんの回数、洗濯され、干されて、また着た。このどこに愛があるのだろうか。それでも、身近にあるものこそ愛ではないのだろうか。ぼくの辞書の定義は、意味合いが異なってしまう。感情にも無頓着になる。ピザのメニュー。もうどの会社のものかも分からない。まあまあの味。まあまあの値段。まあまあというものに周りを囲まれて生きている自分。そこに切なさも必死さも紛れ込まない。そんな余地もない。正確さなども求められていない。絵美は着替えている。まだ首元に値札がついている。ぼくはそれを教え、教えただけでは終わらずに、ハサミで切った。

11年目の縦軸 27歳-37

2014年07月13日 | 11年目の縦軸
27歳-37

 写真を見ながら電話で話していても、彼女の今日というものに嫉妬を覚えてしまった。希美の微笑みを誰かが一メートルも離れていないところから見て、素敵だなと思うかもしれない。小さな怒りで頬をふくらます様子を可愛さと等しく思うかもしれない。その架空の事実にすら嫉妬する。ぼくの希美はまるで動かなかった。

 新しい場所。

 新しい関係性。

 見慣れない顔が増えた。もし、歓迎会でもあって、アルコールの作用で多少の酔いが生じれば、不図、淋しさに襲われ、誰かの温かさを求めるかもしれない。渇望という程度にまでそれは強く、かつ高められることはないかもしれない。しかし、永遠に遠ざけておくことも難しいからこそ、ぼくは遠い地で嫉妬を感じているのだ。

 すると、ぼくはその身体に嫉妬を抱いているのだろうか。ぼくの横にその身体がないということが、ぼくの究極の困惑の原因であり、理由なのだろうか。

「ぼくはあてどなく町をさすらう」と頭に思い浮かべて悲劇の主人公のように歩いていた。森のようなビルの乱立のなか、ぼくは獣道さえ失ってしまった迷子のように途方に暮れていた。期限というのがぼんやりとありながらも、ぼくはその無性に長い期間をどう過ごしていいのかも判断できず、やり切れなさでいっぱいだった。

 ぼくはいくつもの失恋の歌を口ずさむ。この感情が忘れていたぼくの十一年前の悲しさを容易に再現させるきっかけとなった。それは過ちをおかした自分への罰と結ばれた。ぼくから離れることを許したのだ。平気だと浅はかに考えていたぼくの無理解への罰だった。

 ぼくは友人と酒を飲む。途中で新婚の妻が合流する。彼らの間には疑うことのない平和があった。ぼくのこころは時化ていた。大揺れだった。友人はふざけてぼくに新しい女性を紹介すると言った。妻は笑いながらもいやな顔をしてその提案をいさめた。ぼくは宙ぶらりんである。ただ、帰ってくるのを待つしかないのだ。その間に、彼女のこころも変わることなどないと宣言できるのだろうか。
 そばにあるものに愛着を抱くようにできている。ショーケースのなかの新しいものを欲しても、手近なものに未練がある。こだわりもある。つづいてきた関係性もあった。子どもが手放せない汚れたぬいぐるみと似た気持ちだった。

 だが、距離を置いてしまうとその愛着もほこりだけがただ目立った。揺り返しとして急に美点だけしか目に付かなくなる状況もあった。ぼくはショーウインドウ内のおもちゃを目にする。新しいものは、新しいという一点にこそ貴重な価値があった。

 ぼくはその友人と、女性がとなりの席につく店に入った。彼の妻はこういうことに関してなぜだか寛大だった。その交渉はどこでどのように締結へと至ったのか、経験も薄い自分には分からなかった。友人はぼくの立場をおもしろおかしく女性たちに説明した。裏切られた男性。少し生活の排出に困っている男性。ひたすら待つということに忠実な番犬の複合体として。

「目の前にいてもらわないと絶対にダメだよね」と、派手な化粧をほどこした女性は言った。どんな見かけをしていたって真実は真実である。「目の前でしっかりとつかまえていてもらわないと」

 結婚したばかりの友人は、もうひとりの女性と親しく話していた。同性からからすれば、たまに信頼に値しないほど重みのない彼だったが、異性はその短所を見抜けないのか、あえて盲目でいることを望んでいるのか、年齢によって聴きやすい音調が違うように性別によっても見える部分が別々なのだろうか、そのことを指摘されないままでいた。ぼくは、普通に判断に迷う。しかし、この場面では彼は勝利に甘んじ、ぼくは敗者の気持ちを多くなぞっていた。

 彼女たちも仕事を終えて、次の店に四人で行った。その後、ぼくはタクシーにひとりの女性と乗り込む。ぼくは自分の家に帰る予定だった。予定というのは現実に近いもののはずだが、結果には差異が生じた。

 その女性が化粧を脱ぐと、幼い少女があらわれた。ぼくは復讐する。希美に対して。自分に対して。この会ったばかりの女性に。あるいは未来の誰かに。だが、本音としては十六才の少女と、彼女と消えたあいつに対してだ。ぼくは、これぐらいに酔っていた。

「このこと、誰にも言わないよ。だから、言わないでね」と、その女性は言った。酔いが作った朦朧とした夜だった。それにしてはぼくの身体にさまざまなものが付着した。彼女の香水もそのひとつ。他にもたくさんのものがあった。

 ぼくは希美がいない間に、このようなことを何度、繰り返すか予想した。多分、これが最後だったろう。縁を切るという考えも起こらないほどの一瞬のできごとだった。ぼくは純粋ということを忘れかけたものに変化する。これとまったく同じことが希美に起こらないとも言い切れない。可能性があるものは、つまりは可能なのだ。ぼくは言い訳を探す。探してふさわしければ正当化させる。正当だと思ったものが自分の脳に記憶される。これが一連の思考の流れだ。彼女はまた化粧をする。昼の日射しのなかで見ると、華やか過ぎた。ぼくは希美の顔を思い浮かべた。だが、もうどこかで違う。ぼくは余程、モナリザの方が希美の顔よりうまく描けると思っていた。そのぐらい、意味もないことに自信があふれていた。

11年目の縦軸 16歳-37

2014年07月12日 | 11年目の縦軸
16歳-37

 ぼくが実際にこの目で見なかったものまでが、ほんの一瞬でも、頭に浮かばせたという理由だけで、いとも簡単にぼくを責め立てる。真相は、「ほんの」という程度のごく短く、そして、細切れの時間ではない。もっとこの頭のなかには長い間、映像としてたゆたい、底に沈むことなく泳いでいた。それこそ、疑いを起こさせること自体が犯行に匹敵する為なのか、原因や動機の追究のためなのか分からないが、胸にいぶった炎がまだあったので、無限の追及から、死にもの狂いの脱走兵のように逃げる手段も機会も逸したのだろう。こんな事態から、許しも自由も、誰も与えてはくれなかった。

 ある映像。いくつかの積もった姿。

 左利きの女性をその後、何人か見た。ぼくは当然、ぼくの彼女と結びつけない訳にはいかなかった。捜査線上の証拠はこの左利きというひとつのことだけなのだ。彼女は選ばれた側のひとだと大げさに考えるように関連付ける。それは半数(男女比)のさらに半数以下のひとびとの小さな集団、群れなのだ。

 ある飲食店で給仕をしてくれる女性の振る舞い。左手でお玉をつかみ、スープをよそう仕草。それは世界に挑まれている姿だった。大多数がルールを自分たち用に決める。少数派は世間に不平を言う価値も役割もあるのに、この女性は自分自身に信頼を置くことができている。そして、黙って甘受するのも厭わない。ぎくしゃくともせず、まるで優雅な作法を身に着けているようだ。ぼくは反対に些細なことで、不満をもらした。このひとつのモデル例をとっても、ぼくにはとても生きやすい世界なのに。マジョリティの傲慢さとちっぽけな優越感。

 ぼくは左利きの女性の信奉者になる。いや、求心力にあらがえない。

 もうひとつ加える。髪の短い女性。飾りを華美にしなくても素材だけで勝負できる側のひと。シンプルなエレガントさ。

 ぼくの十六才のたったひとつの選択がその後の生活まで影響するようになる。偶像としての、左利きのショート・ヘアのひと。

 しかし、あの十六才のときのぼくの気持ちなど簡単に思い出すことはできない領域に入ってしまっていた。カギも壊れているとあきらめていたが、ぼくの前にずっと後になってあらわれた女性によってあの気持ちをかき立てられたのだ。こうして物語の三分の一として仕立てあげることも可能になった。

 不思議な会話。

 ぼくはその後、その封印していたはずの扉を開くきっかけになった女性と世間話をするようになる。面影も背丈もよく似ていた。十六才のときにもし別れていなければ、ぼくの前に二十代の前半の女性になったときに、こういう成長を果たしたのだという確定の姿を教えてくれた。仮にという状態を決して越えない確定の範囲なのだが。

「いちばん好きな映画って?」

 彼女はある映画の名前を上げる。その年代の子が見る映画でもなかった。ずっとむかしの記憶に埋もれてしまった映画。だが、ぼくはびっくりする。それは、ぼくがあの最後のデートの日に見たものだったのだ。ぼくは秘密を固く封鎖していた。誰も暴きに来たりはしないが、あの日々の記憶はぼくだけが所有するもので、アクセスの権利もぼくのみが許されていたのだった。

「かなり古いものだよね?」

 ぼくは平然とした振る舞いをする。そういえば、オレも、見たことあったっけかな、という軽い感じで。そして、彼女は突然バイトを辞めると宣言して、ぼくの前から消えそうになる。その日は、偶然にも、ぼくの最後のデートの日だった。あの寒い渋谷の日だった。この長くつづったことを書かそうとする力をぼくは感じる。ぼくの歓喜と恥と後悔がクリームとしてつまったパンのコロネのような物語を。

 しかし、三人以外の女性の要素を排除しなければならない。彼女と希美と絵美以外は。ピラミッドを他の場所に建ててはいけない。

 愛は変わるのだ。それを否定するように愛をピンで止めるのだ。その模索がこの物語なのだ。

 ぼくは苦手だった理科の時間をいまになって思い出している。幼虫とさなぎと成虫というある命にとっては避けて通れない異なった段階のことを。彼女らをむりやりにそれに当てはめようとする。不可能なことはいちばんぼくが知っている。彼女らはそれぞれの段階と役割で魅力的だった。ぼく自身がその変態の過程をゆっくりと経てきたのだ。自分の気持ちを大っぴらにしないで、地味にうごめく虫のような存在として。最後に蝶にもならないし、羽ばたかないことも自分は説明もいらないほどに知っていた。解明や弁解の余地もない。

 誰かは誰かに似る。そのことすら許そうとしない。だが、彼女に似ているひととの一瞬の邂逅で、ぼくは居なくなった彼女をパズルでも組み立てるように再現しようとしてしまう。ピラミッドの石の破片で年代を計算できる研究者のように。訓練も鍛錬も考古学の知識もいらずに、自己流という溢れる自信だけなのに、権利だけは主張する。左利きのひともいなくならない。髪の短い女性など無数にいる。その組み合わせは、いったいどれほどの数なのだろう。ぼくの握りつかんで手放さない思い出と、どちらが多いのだろう。どこかの部分が一致するにせよ、しないにせよ。

11年目の縦軸 38歳-36

2014年07月11日 | 11年目の縦軸
38歳-36

 戻りたくないあの日。

 そういう日々が自然と増えていく。せめて片手の指の数ぐらいで収まってほしい。

 失敗など一回もしないということは不可能だ。何度も同じ過ちを繰り返すというのも愚かだった。しかし、人間はどちらかをする。いや、どちらもするというのが普通だ。誰かを好きになり、いずれ別れてしまうということまで愚かと定義してしまうには極端すぎ、景色としても途中の道は華やかだった。失恋を考慮に入れて恋などしないが、あれも含めて好きになってしまった褒美と土産だった。

 褒美だろうが戻りたくない日々なのは変わらない。

 恥ずかしさ。言わなければよかった言葉。口にするべきだった一言。謝るタイミング。怒りをおさめる機会。自らの怒りからも手を引く。

 ぼくはまじめすぎる過去をなつかしんでいる。いまは、もっと無頓着になり、図々しく変貌し、厚顔になった。なれないと思っていた厚かましさも悠然と手に入れた。堂々とその厚顔さを披露した。

 戻りたくても戻れないし、戻りたくなくても、どう足掻いてもあの日に再び帰れないことは知っていた。気持ちだけがその過去に縛られている。だが、それが両方とも同じことだとは思えなかった。意図していることと、冷や汗をともなうもの。

 絵美の体温を感じている。布団のなかでつるりとした足が絡んでいる。あの日も、この日もない。この瞬間だけが正解だった。ぼくのひげは伸び、絵美のおなじくすべすべの腕に微小な痕跡をのこす。横にいてくれるだけでぼくは大満足だった。別の誰かを探す必要もない。やり直しの二回目の告白に戸惑い、ためらう青年でもない。ぼくは自分をコントロールでき、悲しみの袋もいくらか干上がってしまった。みな、若くて元気だからできたのだ。悩みも悲しみも存分に味わう新鮮な若さがぼくにはあったのだ。もう、遠くに生き別れた弟を感じるように、ぼくはその過去の日々のあれこれを復唱していた。

 十六才のあの日。ぼくは彼女とぼくの同級生(後釜)が店を出た後、行きそうな場所を探した。ぼくにそうする権利はあったのだろうか? あれも、若いからためらいもなく行動できたのだ。恥も見栄もなかった。ただ彼女を取り戻したかった。ぼくらの世代に純潔などという言葉は、もうなかった。概念も意味も、すべて絶滅した古代の動物たちのようなものだった。ぼくは、そして、もし取り戻したら責めないでいられただろうか。放さないということを躊躇しなかった自分に、理屈も何も通らない。自分勝手の権化なのだ。

 ぼくは絵美の腕をさすり、トイレに立ちあがった。いつもと違う芳香剤の匂いがしたが、実際には殺風景なトイレのままで、棚にも数個のトイレット・ペーパーがむきだしに置いてあるだけだった。ぼくは水の音を聞く。それから、レバーをひねった。

 カーテンからもれる微かな日差しが絵美の足首あたりにあたっていた。ぼくはその部分を毛布で覆い、自分もその横に身体をすべり込ませた。

「何時?」

 ぼくは十六才の彼女を探した。ついに居なかった。もし、見つけていたら、どうなっていたのだろう。ふたりの男性を天秤にする彼女。ぼくが断られていたら、あの時以上に立ち直る早さが遅くなっていたかもしれない。だが、ぼくはもう立ち直っていた。古びた表現ならば、十度のカウントの前には立ち上がり、顔の傷も素早く治療されたのだ。

「そろそろ六時だよ」
「夜中、地震あったね?」
「気付かなかった」
「信じられない。でも、そうだと思った。ぐっすり寝てたから」

 これが、ぼくの到着点。神経も鈍麻し、なにも気付かない。すべては昨夜のできごと。過ぎ去ったものを評価し、分類して仕舞うだけ。

 彼女はあの夜のぼくがとったみじめな行動を知らないままで死ぬのだろう。そんなに夢中になったひとがいたことも、もう忘れているかもしれない。総じて、女性などそういう生き物なのだ。ぼくだけが過去に行ける扉をいまだに大切にもっているのだ。みな、そんな扉があることすら知らないのだろう。

「もっと、大きな地震だったら、どうしてた?」ぼくは、眠りの入口を失っていた。
「ひとりで、隣で寝ているひとは置いて逃げた」
「後悔するよ。ずっと」
「後悔しないひとなんて、ひとりも居ないよ」
「いるよ、ぼくとか」
「うそばっかり」

 十六才の少女は、ぼくの同級生の横で目を覚ます。もしかしたら、年齢的に夜通し過ごすことなど許されなかったのかもしれない。どこかで服を着込み、家まで送られて別れる。

「うそじゃないよ」
「だって、未練ぽい寝言、言ってたよ。未練ていうのは現在じゃないんだよね」

 真理を発見したように絵美は目を輝かせていた。

「絵美の寝言もきこえたよ」
「なんて?」
「オムライス、食べたいなって」
「食いしん坊」

 もう空は、朝のうららかという段階を辞めようとしていた。ぼく自身もそうだった。十六才が正午前なら、いまは何時ぐらいなのだろうかと考えていた。夕日に映える海岸というものを美しく感じる理性。今日あたり、もしくは今度の休日あたり、絵美と見に行ってもいいと考えていた。その時刻に着くには、朝の早い時間に出た方が思う存分、楽しめるだろう。

11年目の縦軸 27歳-36

2014年07月10日 | 11年目の縦軸
27歳-36

 戻るべきあの日。

 希美がいなくなり、ぼくらの関係はつづいていたとはいえ、物理的な距離が間に挟まった。この距離の介在を無視できるほど、ぼくは精神的にできていなかった。ぼくは、はじめて希美に会ったときを追憶している。彼女は仕事の相手側の会社にいた。

 その姿こそが重要だった。ぼくは内面など一切、知らなかった。徐々に世間話もするようになり、望んでいたことだったが交際することになる。いっしょの時間を過ごす。そこには必ず肉体が伴っていなければならない。ぼくらはまだ通信会社の宣伝を鵜呑みにして、かつ全面的に受け入れるほど、電波やシグナルを信じていなかった。対面することが親密さを増すには第一の、唯一のとっておきの方法だった。

 年齢というものはとても重要だと仮定する。ひとは三才で結婚する相手を決めたりしない。そう宣言したこともあるかもしれないが生活の実感は無論、まったくない。自分も養われる存在で、ぐずって眠れなければあやされる立場なのだ。

 何かがピークに向かい、いっしょにいたいというひとを探す。運よく巡り会う。相手も同じであってほしいと願う。話さなければ、ないと同然になってしまう。打ち明ける。返事は宙ぶらりんのまま、彼女の姿はなくなる。

 あるところも知っている。電波も信号も信じていないといったが、その役目と恩恵にまかせっきりになる。時差がそれほどないにもかかわらず、同じ朝という感覚は、それでも遠ざかってしまう。空はつづいているという事実も法則も無視して、別の空間の下で暮らしているという感覚が圧倒的に支配した。

 休みのたびに会うということが、あんなにも幸福だったということをこの日々に教え込まれていた。ぼくはひとりでピカソの絵を見ている。難解というぼくへの挑戦は、はっきりといえば、ぼくのこの状況より難解ではなかった。彼は自由だった。ぼくは不自由だった。彼は愛するひとをたくさん変える。ぼくは、ひとりを愛しつづけようともがいている。まったくの反対にいるひとの絵を、ぼくはひたすら眺めている。希美は、この絵をどう思うだろうか。

 次のピカソの絵は泣いている女性らしかった。題名はそう伝えていた。ぼくは希美が泣いている姿を思い出していた。ぼくに分からないようにして背中を向けていた。この絵の女性は泣くことを強烈にアピールしていた。画家はそのことを冷静に分析できるのだろう。普通ならば、泣いている女性がいれば筆などもたずに、なぐさめることになった。報道写真家も決定的瞬間を求める代わりに、いくつかの命を救うこと、また自分の命を危険にさらすことも避けられた。だが、使命のあるひとは、どう説得してもしないわけにはいかないのだろう。

 ぼくは足の疲れをおぼえ、同じビル内の地下で冷えたいやに丈の高いグラスでビールを飲んだ。ぼくは、ひとりで休日を楽しむことを長くしてきたはずなのだ。だが、いまはどんなに不機嫌でもいいし、もちろん慟哭という言葉がぴったりくるぐらいに泣いたままでもいいので希美に会いたかった。すっぴんでもかまわない。パジャマでもよかった。ただ、目の前にいてほしかった。それを離れた相手に電話でいうのは今更、卑怯な気がした。言うならば出発を決める前に口に出すべきだったのだろう。ぼくは、大人ぶろうとした。大人というのはふところの広いことと同義語だった。相手に自分の気持ちを押し付けないことだった。その報いとして、ぼくはビールをお代わりする羽目になる。長いグラスは、もっと長く伸びたような印象を与えた。

 ぼくは希美が好きそうな洋服を着ている女性の後ろ姿を見ている。彼女と髪形も似ていた。希美は髪を切る場所を見つけられるのだろうか。いっそ一度別れるという選択はあったのだろうか。もし、戻ってきたときにどちらもまたあの同じ状態をなつかしめば戻ればいい。だが、ぼくらはつづいている。ただ、身体も声もここにはないのだ。

 ぼくはこの痛みを再度、味わうとは予想していなかった。スクーターの女性はこころから消えたのだ。おたふくやある種の伝染性の病気はいちどかかれば耐性というのか免疫というのかができるはずだった。ぼくは、このような状態から抜け切れる即効の薬が欲しかった。その役目にビールはなってくれなかった。ぼくはテーブルの濡れたグラスの底がつくった輪っかのいくつかを眺め、そこをあとにする。

 円というのはそれだけで完全であるようにも思え、その完全さを主張することこそ、いびつなのだという矛盾した考えをぼくは階段をのぼりながら考えていた。ぼくは堂々巡りをしている。希美に似たひとは振り返ると、まったく似ていなかった。希美はひとりであるべきだ。ぼくが選んだ彼女の代わりはいなかったのだ。ぼくは、なぜだか息切れのようなものを感じていた。外にでる。無意味な大型電気店の店名とロゴを小さな声に出して呼んだ。歩き出すと、いくつものティッシュを受け取ることになる。ひとや会社は何かを宣伝し、売り上げや利益に結び付ける。ぼくには利益も得もなかった。希美がいないのに、あるはずもなかった。いや、見つけなければいけないのだろう。だが、どこに? 誰と。ひとりで。

11年目の縦軸 16歳-36

2014年07月09日 | 11年目の縦軸
16歳-36

 家族で海水浴に来ていた。クーラー・ボックスには冷えたジュースが入っていた。満載といってもいいぐらいに。ぼくはもっと冷やそうと一本のサイダーを取り、浅瀬の砂の中に缶を埋めた。後ろを向き、少し経ってから振り返って柔らかな水のなかの地面を掘り返すと、それはもうどこにもなかった。跡形もなく消えていた。波はやってきて、自分の家に戻るときに多くのものをついでにお土産にすることを知った。だが、ぼくはその自然の大いなる作用にただ戸惑っていたばかりだ。ふざけて失くしたことを叱られもせずに、もう一本のジュースをもらった。今度は大事にしよう、手から片時もはなさないようにしようと誓うように缶を開けて口を近付けた。あの誓いの有効期限は過ぎてしまったようだ。

 一度、失いかけたものを再度、手にする喜びに焦がれているのだろう。痛烈な喪失を経なければ、大事なものが分からないという鈍感さに惑わされていた。

 バイトが終わり、地元の駅に着く。古着のジーンズがそのころのぼくの制服のようなものになっていた。ある喫茶店の前でぼくに手を振る女性がいる。小柄なシルエット。ぼくは視力が悪いが、メガネを日常的にはめていなかった。下級生? 通り過ぎてしまったが名残惜しくぼくはそこまで戻った。

 女性がふたりいた。なぜ、ぼくは見過ごすようなマネをしてしまったのだろう。何度も思い描いた女性なのに。目の前にいなくても執拗に思い描いた姿や場面は数え切れないぐらいあったのに。そこはふたりで一度、入った店だった。彼女は、ぼくに偶然、出会えたためなのか、うれしそうな様子をしている。彼女の横にいる友人は一歩、退いて会話に入らないという誓いを立てたようだ。

 何度も思い描いたはずなのに、彼女がこれほど小柄であったことも忘れている。ぼくはそのことを告げる。忘れたことではなく、小柄なことの方を。彼女は笑った。ぼくのいちばん見たかった笑顔でもある。

 彼女は誰のものでもない。ないのだろうか。

 まだあの小さな身体はぼくを刺激し、揺さぶる力を存分にもっていた。ぼくの恋は終わってもいなかったし、完結とも呼べる状態にない。継続していた。本人も知らないところでまだ生きていた。

 ぼくは彼女の次の交際相手をうらみかけた自分を恥じた。ぼくらの間にはどんな些細な隙間もなかったのだ。昨日、最後の電話をしたような自然さがふたりにはあった。信頼とは、はじめて手にする信頼とはこのようなものなのだろうか。

 ぼくは上手くいっていた、順調にすすんでいた日ではなく、この日の、この瞬間に戻りたいと願っている。台風で落下した無傷のりんごを拾って丁寧に拭い、実ったよろこびに感謝するのだ。ぼくには言うべき言葉がたくさんある。彼女も了承する機会、うなずくことが与えられる。問題を乗り越えたよろこびこそ、ぼくらにふさわしいのではないのだろうか。ぼくは数日後にたまらず電話をする。無言の時間が神経を病ませる。結局、語るべきだったはずのセリフを口に出さないという決断をする。喉元で終わった言葉にならなかったものをぼくは感じられるが、世間は認めない。ここでいう世間とはいったい何であろうか。ぼくは形のないものに責任を押し付けようとまだ懲りずにしていた。

 問いかけもなければ、当然、答えもない。ぼくが聞きたい答えは電線を通っても与えられない。

 なにが、それほどに気弱にしたのだろう。一度、関係が終わっているのだから、恥もなにもなかった。終わったものが、終わっただけになるのだ。どう考えても問いにはプラスしか発生しない。減ることなど何一つなかったはずだ。

 いや、ぼくの無駄なプライドが折れる。折れても、また今後、何度も折ったが、ここで経験をしても良かったのだ。

 ぼくは受話器を置く。再会から訪れた微妙な変化とチャンスをぼくは無惨に放り投げる。

 持ち主のいないビーチ・サンダルが海岸に落ちている。

 今年は終わるのだ。

 ぼくがこの瞬間に戻りたいといったのは、この決断を覆すことを可能にするためだ。頭を下げて、もう一度、交際のお願いをする。ためらう彼女。ふたりともにやり直すチャンスが与えられる。ぼくの望んだ物語となる。希美もいない世界。絵美のいない世界。ぼくは引き換えにそれらを提供しなければならない。する覚悟もあるが、もうどうにもならない。

 冗舌さもいらなかったのだ。ただのほんの数語だけで運命が変わったかもしれない。その選択の結果がいまの自分であり、わずかながらも愛着がある。その意気地のない自分を好きになってくれた未来の女性がふたりいる。誰しもが過去を塗り替えてしまったら、支流が多過ぎてしまう。人間など芯が一本、本流が、太い本流があればいいのだ。

 あの日のぼく。小柄な彼女。ふたりは会う。別のプログラム。五つの横線がつらなる紙はまっ白なままで、記されることのなかった九作目のシンフォニー。ふたりの再会からの歩みのひとつひとつが、小さな音符なのだ。休符という記号が延々とひたすらつづく不格好な傑作をぼくは生む。

 落とされた爆弾。壊滅状態の都市。またひとが住むようになる。緑がところどころに生える。成長する。過去の記憶など覆い尽くして美となる。ふたりのベンチ。ふたりの最初のキスの場ともなる公園。

 ぼくは過去に大切なものを置き忘れたが、停まった時計もまたぼくの大事な財産でもあった。

11年目の縦軸 38歳-35

2014年07月08日 | 11年目の縦軸
38歳-35

 永続性を信じられなくなったということが、ぼくの身に受けた罰だった。

 例えるなら、八月六日と九日のまさに神々しい光を浴びたふたつの都市のやる瀬ない住人のように。

 不運をその場しのぎでやり過ごし、幸運の深い井戸も乾いたままでよく、なるべくなら新たな水脈を発見した時点で自分の手で埋めた。深さやコンコンと湧き出る水など、もうぼくにはいらなかったからだ。また、自分というものに拘泥し過ぎなければ、どれも、耐えられそうな不運ばかりであったのも事実だ。

 ぼくは嘘が上手になっている。文字というものは信ぴょう性を与えられやすいものだ。人間から希望を奪い取ってしまえば、そう長くは生きつづけられないのだから、嘘に違いない。

 ぼくは目の前にいる絵美を眺める。この女性が希望の役割をまったく引き受けていないと誓えるだろうか。ある種の魚は放流をふくめてフィッシングなのだ。そのままの姿で、そのままの場所に帰す。

 すべては一時的な所有に過ぎないのだ。

 失うと仮定して、まだぼくには悲しむ気持ちがあるのか試してみたくなる。もしかしたら、悲しみのスイッチがとっくの前に切れてしまったのかもしれない。直す機会も巡ってこなかったので、そのままになっている。運よく使われなかった倉庫の奥の防災用品のように。乾パンの期限も切れ、腐りそうもない水も腐っている。ひとは、この年になって、あまり恋人と別れたりもしないのだ。二十代の前半から、もう経験しないひとだっている。ぼくは成熟や老いを無意識化で遠ざけるために、対価としてこれらを体験しなければならない。しかし、そのスイッチも摩耗した。悲しむ元気があるひとも逆説的にうらやましく思う。ある女性のささいな感情の揺れに一喜一憂できる豊かさを。

 その分、楽しさが減るかといえば、そういうものでもなかった。絵美と出会う前より、確かにぼくは機嫌も良かったし、世界観も美しいものに化けていた。絵美がもたらした恩恵であり、その結果、ぼくから奪われたものは比較すれば何もなかった。

 だが、永続性という考えはもてない。ひとはなぜ、それらに信頼が置けるのだろうか。無心に。ふたりの間に子どもがいて、永続性の一部を肩代わりするために、変体して生き延びるのか。家のローンや、車の月々の支払いが元となって寄り添い、永遠につづくのだろうか。ぼくは敢えて将来を潰そうと願っているのだろうか。

 多分、絵美は明日もきれいなままである。あさっても、来年も。ぼくは、それを確認する機会がもてるかもしれない。他の別の男性がその楽しみを承継するのかもしれない。こう考えると、ぼくの愛の分量こそ、タンクのなかで減少しているのだろう。燃料切れ。十一年前と二十二年前に空吹かしをたくさんしてしまった所為なのだろう。節約も、手加減をすることも考慮しなかった。それほどに夢中であった。あれを毎年することは、ワールド・シリーズを勝ちつづけることと等しかった。せめて、ワイルド・カードぐらいの愛をと思う。文字の信ぴょう性をぼくは誤解している。

 永続性がないということは絶対がないと同じであるのだろうか。であれば、ぼくには絶対などとっくになかった。絶対的な拘束を求める愛も、絶対という誓いも、絶対という希望も。ぼくだけがないのではない。大人はだいたいは途中でなくすのだ。そして、完全なる微笑みを捨て、眉間にしわがよった。不満は絶えず浮かび上がり、解消する力も失っていく。

 ぼくは思考のためだけに思考している。ぼくを失って困らなかった数人の女性のために、愛を語っているのだ。なんと不毛なことだろう。引き取り手のない宝物は、ぼくにとってだけ宝物だったのだ。金(ゴールド)とかある種の紙幣とかの共通の価値など、ぼくにはまったくない。子どものおもちゃのお金のようにふたりだけで通用していたものなのだ。しかし、共通さなど入り込ませないからこそ、貴さも逆にうまれた。

 ぼくは書くことだけのために、異性と交際し、ある面では破れさせたのだ。ふすまや障子を貼りかえる作業が、つまりはこの物語なのだ。永続など真にあったら、この物語も消滅する。絶対も永遠もないからこそ、ぼくはすすめられている。これも、またなんと不毛なできごとだろう。

 絵美はきっと、明日も美しいのだろう。ぼくが保証する。ぼくの推薦の書類をもって次の会社の面接に向かうように、新しい男性のもとに向かえばいいのだ。これが、八月七日と十日のぼくだった。そして、十六日に後悔する。

 後悔しても絵美は美しいだろう。だから、ぼくは後悔するのだ。後悔だけは永続性をもっている。彼らの主要な成分は、継続性でもあった。

 永続を信じなくなった自分は、後悔の継続ということに縛られている。意外なものに足をすべらせる結果となる。どんなに注意していても転ぶときは転ぶのだ。立ち上がることもできるし、転がった姿勢のまま憤慨を抱きつづけることもできる。だが、さっと立ち上がった方が格好いい。そして、見栄も永続する。こんなつまらない人間の見栄など、大して値打ちもないはずなのに。

11年目の縦軸 27歳-35

2014年07月07日 | 11年目の縦軸
27歳-35

 ぼくと希美は結婚する計画だった。少なくともぼくの側では。もちろん、雨天で順延するようなものではない。大きな過ちがない限り、車輪は回転していくのだ。

 ある日、希美は海外での勤務のことを言いだす。寝耳に水ということばをぼくは脳のどこかから引っ張り出した。

 ぼくの仕事ではそのような状況は起こらなかった。だから、他のひともそういうものだと勝手に決めていた。周りでエイズで死んだひとが見当たらなければ、その病気がないということでもない。どこかにはあるのだし、日夜、研究員は新薬を発見できるよう試しているのだろう。だが、ぼくの周りではないも同然だった。

 海外勤務と不治の病を同列に置くことも正しくないのかもしれない。だが、避けられなかった事実と見るならば、横に置くのが普通であり、対処の方法がないと見なすと、まったく同じものだった。

 しつこいようだが、ぼくは彼女と結婚するであろうと想像していた。想像の範疇を一歩越え、その要求をつきつけた。彼女の返事はまだなかった。その為に、ここで離れた場所に行き、冷静に考えるのは悪くないと納得させようとする友人もいた。離れればそれで終わりだとあきらめを知っている友人もいた。離れたからこそ、大切なものに気付き、より大事にするという不思議な論理をもちだすひともいた。みな、自分に起こらなかったことだからこそ、身勝手なことがいえた。こちらは生活がかかっていた。未来の問題であり、同時にいまの自分の方向性を見極める通過点の難題でもあった。

 結局、最後は彼女の判断なのだ。ぼくが口出しする権利は彼女の両親を含めて三分の一に過ぎないようだった。彼女をいれれば二十五パーセント。ハンバーグの楕円をレストランでその形に切り分けながら、空腹を満たす量にも足りないのだと、その肉の切れ端を口に運びながら考えていた。

 テーブルの向こうには希美がいる。彫刻にならなかった希美。

 ぼくは別れがもたらす何かを知っていた。十一年前に身をもって体験していた。あれが地獄でなければ、ぼくの想像力は余程、働かないのかもしれない。いや、想像で終わっていればよかったし、安楽だった。あれが現実になったのだ。アンハッピーという安上がりな表現では軽く、もっと重たいものをぼくの上に誰かが載せた。あるいは自分で被せた。

 彼女は陽気さを演出し、ぼくは不機嫌という切り身をまな板に載せた。不機嫌など調理できるわけもなく、グツグツと煮える鍋に放り込み、不機嫌はさらに重々しいものとなった。

 時間は経ち、いまは成田空港にいる。希美の何度もの涙をこの間に見て、ぼくのふてくされた顔を数え切れないぐらい見せた。だが、ここまで来れば楽しげに見送るしかない。これも、人生なのだ。人生の一部なのだ。

 希美の友人もいた。ぼくも会ったことがある。友人というのは応援するためにいるのだと思われた。その応援は結婚ではなく、海外勤務の選択に傾いていた。彼女のジャッジは不利ではなく、ぼくよりも長い交遊が生んだ明晰な分析と判断だった。

 ぼくはまだ長い夢の無邪気な通過を待ちわびるような気持ちにときどきなっていた。しかし、現実に電光掲示板は順序を繰り上げていく。友人の手前、抱き合うこともできない。最後に儀礼的に握手をして、希美はパスポートをつかんだ片手を振って、見えないところに消えた。

「さて、どうする?」と、希美の友人はいう。めぐみという名前だった。「さっぱりした?」そして、笑った。

 ぼくはめぐみ、という言葉が意味するものを考えた。直ぐに連想したのは恵みの雨、という慣用句だった。空は快晴だった。飛行機の機体がきらきらと太陽の光を反射させていた。恵みの雨が大量に降り、運航を遅らせることなどなさそうだった。

 ぼくらは電車に乗った。都心まで小一時間はある。ぼくらは会うべき理由はなかったのかもしれないが、喪失の共犯者としてここにいる。電話もあり、時間はかかるが手紙もある。そのような待機の時間割の提言をめぐみは付け加える。実体がないということにぼくは不満なのだろうか。目の前にいるということは何より大事なのだろう。十六才のぼくはそのことを充分、強引な力によって理解させられた。

 ぼくらの家は意外と近かった。ぼくの家のそばの通い慣れた店に入って酒を飲んだ。ある店員は交際相手を変えたんだ、という表情を隠せないでいた。ぼくは正す必要性を感じない。やけという気持ちに近かった。

 喪失の共同体の仕上げとして、ぼくらはぼくの部屋のベッドに忍び込む。ぼくは誰かを罰さなければならなかった。第一に希美であり、当然、そうされる理由があって、ずっとか、おそらく数か月はこの事実を知らないでいる。ぼくへの信頼の罰でもある。いや、抑えられなかった、彼女の決定を制することができなかった自分への罰である。それもわずかに違う。希美の決定を後押ししたこのめぐみへの罰である。彼女の助言により、ぼくはひとりになったのだ。

 しかし、全部うそっぱちであった。罰ではなくギフトであり、報いである。甘い果実である。ぼくは得られなかったであろうものを、こうしてその当日に手にしていた。罰の要素も、罪の観念もぼくにはまったくなかった。歯をみがき、うがいの水とともに、そんなものは流しに吐きだしてしまったようだ。

11年目の縦軸 16歳-35

2014年07月06日 | 11年目の縦軸
16歳-35

 友だちとファミリー・レストランで夜中の時間を過ごす。別の友人の両親も夜中と呼ぶ前のまだ早い時間には遠い座席にいて、自分の息子が過去の青い時期にぼくにしたことを気にかけて、ぼくらのテーブルにビールを注文してくれる。ぼくの指には数針の、そして数センチの縫ったあとがあり、その傷の報いをこうして受けている。閉じた傷からも恩恵があるのだ。

 閉じない傷は、逆にこころのなかで雄弁だ。

 別れた彼女と同性の友人もいた。ぼくらの真後ろの席にいる。狭い世界の話だ。この近くの公衆電話でぼくは度々、彼女の家に電話をした。ぼくの友はぼくの終わった関係をからかう。暇にしているぼくらにとって、ちょうど手頃な話題だ。トランプを偶然、二枚引っくり返したら、同じ絵柄だったように。ぼくらは後ろ向きでひとことも会話を交わさない。ただ、背中に彼女の視線があるような気がした。小さな町の又聞きから情報を入手すると、彼女はぼくともう一度きちんと会って話してみたいと言っているそうである。ぼくは有頂天になることをいさめた。一回、山で遭難したひと、あるいは海でおぼれたひとがそれらから遠ざかるように、ぼくは浮上の幸福ではなく、墜落の高さをおそれた。登山の楽しさではなく、遭難にあう憂き目をおそれ、救出の迷惑と恥を事前検証した。すると、ゴーサインを出せるはずもなかった。

 子どもであれば宣言として必要以上に泣くこともできた。誰かの耳に手厚い保護や愛撫の欲求を入れるため、伝えるためにわざとアピールする。シミュレーションでPKをもらうように。大人は軽々しくそうした振る舞いもできずに、表面と根底の感情を使い分けるのだった。ぼくはちっとも悲しんではいないという風に。転がる姿を見せるなど、鍛えていない証拠なのだ。

 ビールのジョッキが空になると、今度は自腹で飲む。彼女の会話は聞こえない。ぼくはいないフリをしているが、そこにいて振り向いて様子を確認したいという誘惑と戦っている。もし、別の友人といるなら、そうしたかもしれない。ぼくと彼には数年の間柄がある。弱音を見せることなどもできないし、見栄に過ぎなかろうが、強さ以外の感情を介在させないなにかが確実にあった。

 だが、ぼくは彼の家にその後泊まり、寝言で未練たらたらの言葉を吐いていたそうだ。夢のなかまではコントロールできない。ましてや支配下にも置けない。そして、ぼくの寝言の対象を彼は知らないでいた。別の誰か、どこか遠くの見たこともない女性かもしれないと予想もできた。

 こころを隠すということを、このように自然にしてしまうようになった。もっと開けっ広げに、彼女が話したいというならば応じればよかったのだ。た易いことだ。ぼくには面子があり、その面子を保つために、ぼくの外部と内部に差があった。これがつづけば精神の病をかかえるようになるかもしれない。その判定を自分が下すわけにもいかないが、ひとに知られることにも無言で抵抗した。だが、それは明らかなのだ。ぼくには、もう次がないのだ。好きになりそうな感触はこころのなかにあり、芽生えそうでもあったが、やはりどこかで、彼女と比較した。もうそのままの、ありのままの等身大の彼女ではない。ぼくのなかにいるメッキされた、コーティングされた彼女とである。勝ち目がないのは当然だろう。

 ぼくは親指の付け根を見る。過去の傷がある。数年前に近くの医院で縫われたものだ。痛むことも、血がでることも当然のことない。外傷というのは見かけには影響するが、直ってしまえば重く考えることもなくなる。それに対して、内面の傷はもっと厄介であった。ひとは原因やいまの状況を、好奇心か慰めか、あるいは両方のためか知ろうとするかもしれないが、ふて腐れてしまえば訊きようもない。故に世間との溝ができる。

 ぼくが望んでいた、生きたかった十七才というのは、いったいこういうものだったのだろうか。話すことが楽しかった相手が、ぼくの一メートルも離れていない後ろにいるというのに、そこにはわだかまりがあり、誤解があり、そして、恋の終焉があった。ぼくは、またここでも被害者になろうとしている。彼女こそ栄光の被害者なのだ。その愛くるしさによって、その立場がふさわしくないように感じられているだけなのだ。

 ぼくらの喉に数杯のビールが消える。彼女たちも帰った。「じゃあね」とかの軽い挨拶もいえず、ぼくらは別れるときに必ずキスをしていたはずなのに、もうぼくにはできない。主導権がないということではない。同じことをすれば、犯罪者に近く、婦女暴行という定義とも、そう離れていなかった。

 ぼくらもそこを出る。以前、使っていた公衆電話を見ないフリをして通り過ぎる。あれが何度も彼女の声を通じさせてくれた。ミュージカル映画でもあれば、この物体は突然に意思をもち、楽しげな様子で自分の四角い身体の横から腕をだして、さっとぼくの眼の前に受話器を差し出すところだった。さあ、ちょっとした勇気をだして、会話しなよ! という風に。

 だが、ぼくは友人と別れて、とぼとぼとひとりで歩く。その付近では大きな公園を横切る。ここで彼女とよく話した夜もあった。後日、ある歌手は唄うのだ。全部、君だった、と。

11年目の縦軸 38歳-34

2014年07月05日 | 11年目の縦軸
38歳-34

 ぼくは録音技師になるべきだったのだ。彼女の声の記念として。

 しかし、才能などは端的にいえば雌牛の乳房にたまったミルクのようなものだと思う。どんな量で、どんな成分を増やしてほしいなど、こっちの勝手な意図は組み込まれない。ただ、定量を毎日、毎日、きちんとしぼることが必要なのだ。そして、ある日、不意に打ち止めになる。それが手の習熟した技能によるのか、蛇口をとりつけるのかは分からないが、与えられたものを注ぎだせばミルクも才能も終わりだった。干上がってしまえば、なす術もない。

 ぼくの耳はさまざまな音を聞き分ける。これも、普通のひとが感じる程度にだ。好悪というものも、それぞれが違う。ぼくの耳は絵美の声を純粋に美しいと思っている。もちろん、朝一番の扉の向こう側にいるような声や、喜んで甲高くなるときもある。でも、総じて普段は落ち着いた声を出した。

 音を最終的に耳に届けるには、どんな優れたデジタルの媒体であってもアナログにどこかで変換しないといけないそうだ。通常の会話の音ではそんなことは一切、気にしてもいない。声に限定せず、軒下に揺れる風鈴だろうと蝉の鳴き声であろうと。

 CDやレコードがある。そこに音が、信号とか溝として封じ込められているはずだが、それらを再生する装置が必要になり、アンプを通して増幅し、最後はスピーカーやヘッドホンという出口に向かう。人間の声はそこまで難しい配線を通していない。いくつかの器官がものを食べながら、別の役割で音も出した。

 留守番電話にその声の断片がのこっている。大体は聞き終わって役目を果たせば同時に消した。ぼくはこの声の持ち主と未来があるのだという漠然とした信頼が勝利をおさめているころだ。地球外の生物にもし接したときに相手が困らないように、理解への導きとして歴史的な録音が宇宙のどこかにただよっている。みな、ないかもしれない可能性のために労働をすることも、面倒を厭わない場合もあるのだ。なぜ、ぼくが努力をためらっても罰せられないのだろうか。

 声は音程なのか、振動なのか、濃度なのか、空気の含み具合なのか。すると総合体として考慮することになると、もしこれが仮定でも、このまま押し通せば、録音という方法が間違っていることになる。風船のようなもので絵美の周辺の空気を漫然と吸い込むしかない。もちろん、そこに音はない。

 なぜ、音だけにこだわるのか。存在から発せられる一部分でしかないはずなのに。ラジオよりより身近になった媒体もたくさんある。かといってラジオを葬り去るわけにもいかない。

 彼女は、ぼくがそれほどその声を気に入っていることは知らないはずだ。長所というのは指摘されて、はじめて長所になるのか。自分で得意がっていることを評価されずに、自分がいやいやしたことの結果を褒められることもまれにあった。第三者の目、ここでは耳、が判別する。ひとは自分のことを正確に知り尽くすことはできない。町でばったり自分自身に出会い頭にぶつかりそうな機会がなければ、自分の第一印象がどういうものかが客観的にも類推的にも分からない。テープにとった自分の声もまったくの他人のものである。自分の骨という壁面にぶつかって反響が起こった音しか、通常は聞き取ることができないのだ。

 ぼくは絵美の声に魅了されていることだけを書こうとしていたのだった。しかし、それだけを取り出すことはできない。声だけに会っている訳ではない。その温かい、ときには冷たい手を握り、まつげの動きを見て、笑うときに眉毛がアンバランスになることも、すべてが魅力だった。

 機材もリハーサルも特別なマイクも必要ではなかった。チューニングに手間取ることも、ポリープに悩むことも、外部の騒音にいら立つこともなかった。普通に生きられるということがぼくの身の回りにはのこっていた。そこに絵美がいつもいた。

 だが、ぼくはイラスト程度なら描けるのだ。紙とペンだけあれば。詳細なデッサンではない。数本の曲がった線だけがそのひとの特徴となる。だが、どこかで似ていない。似せるという行為そのものが間違っているような気もした。誰にも似ないでいい。個性そのものを際立たせればいい。あざとくならずに。計算ずくめにならずに。

「そういうときの顔、意外と格好いいよ」

 ぼくは彼女の部屋で切れた電球を取り替えていた。両腕を伸ばして、長年、着過ぎた、洗濯し過ぎたよれたTシャツの裾がへそを隠すことをやめていた。自分としてはあまり納得のできない姿だった。いや、自分の外見や様子など、そのときはまったく意識していなかった。ただ、目の前の問題を片づけることだけに注視していた。

「これが?」
「それが」

 この三文字だけを放つ絵美の声も素敵だった。耳というのは次の音を待つようにできている。脳だけが、一瞬前の過去の音の意味と味わいを分析しようとしている。分析というには精度もあまり高くなく、ぼんやりとしていて、間違うことも多い代物だった。

 ぼくは手を洗いスイッチを押す。電気はつく。録音機のスイッチもどこかにあると良かった。

11年目の縦軸 27歳-34

2014年07月04日 | 11年目の縦軸
27歳-34

 ぼくは彫刻家になるべきだったのだ。彼女の横顔のためだけにでも。

 ぼくは粘土をこねくり回し、彼女に似せたものをつくる。本物があれば、本当はその必要はない。彼女の鼻。鼻梁。それを見るには彼女の横にいつづける必要があった。

 好きな相手の保険など、あってはならないものなのだろう。今後、我が身に傷が生じるとしても。

 しかし、この瞬間の彼女はこの日にしかない。ある日、目の端をぶつけて切れた皮膚を縫うことがあるかもしれない。小さな変化の訪れ。だが、移ろい往く過程を知ることこそ、付き合うという迷走の醍醐味なのだ。

 ぼくの差。

 問題集をひとつ解き、予習をした成果として原付の免許を取っても、彼女と並走することはなかった。彼女への道にそもそも通じていなかった。そのときとぼくの体型も顔もそれほどは変わっていないだろう。中味は変わったかもしれない。

 それでも、ぼくは希美の顔を彫刻の姿でのこす要求を抑え切れない。その才能や天分に自分が恵まれていればと想像する。世界はぼくの作品を絶賛するのだ。そのもとになったひとのことなど介在させないで。

 いや、公開などということは念頭にもない。その反対の貸金庫での保管というのもふさわしくなかった。どこかのひっそりとした部屋でぼくはその優雅な横顔を眺める。すると、やはり当人はいなくなるのが前提のようだった。

 喪失というのを体験すれば、あの恐怖を未然に防ぎたいと思うのが妥当な結論になるのだろう。かといって、がんじがらめにして拘束することなどできない。文明とは充分な自由とある程度の裁量が与えられた場所のことなのだ。たとえ、誤った判断と方法ばかり選んでしまっても、その裁量を奪われることは断じて拒否しなければならない。ぼくのもとを去る自由も、当然、そこに含まれた。

 ぼくという個体の中味がいくら変化したとしても、大きな才能が急に芽生えるわけもない。そもそも種が体内のなかには最初のスタートから植えつけられていない。あるもの、発芽しかけたもの(いくらかのギフト)を剪定したり、もうちょっとで咲きそうなものの元になる土に栄養を加えたり水をかけて丹念に育てるしかなかった。これから、どうもがいても、社長にもならなければ、会社の創業者にもならない。株の操作で大金を回収する技能もない。ぼくを他と区別しているものは、決して飛び越えられないものではなかった。

 その理屈を周囲にも適用すれば、どこかに希美に似た存在がいて、ぼくはその女性の方を好きになっていた可能性もある。広大過ぎてつかみきれない言葉でもある可能性の幅が、徐々に狭まっていくのに妥協するのも生きることが押し付けてくる冷酷で義務的な事柄だった。

 彼女はストローで飲み物を飲んでいる。そのものを発明したひとは一体、誰なのだろう。今日のこの希美の魅力がそれによって加算することを予想していただろうか。小さな襟も、不思議な形のボタンも、爪の色も彼女のことをより美しくするために必死のようだった。

 大理石の彫刻にはカラフルさがいらない。陰影が色以上のものを表現する。希美には色が必要だった。ぼくを楽しませるいくつもの色彩。

 この色しかぼくの前では着ないで、という無理な注文をくりかえせば、いつか、その色彩自体が主導権をもち、ぼくのことを考えざるを得なくなる。犬の訓練にも似た単純な方法で。

 だが、そんな言葉はぼくから出ない。彼女がどのようになるか、振る舞うかをぼく自身が真っ先にびっくりしたいのだ。新鮮さの代償はなにもない。また新鮮さだけを追求すれば、これまでの歩みを打ち消すことにもなる。ぼくらには短いながらも歴史もあるのだ。歴史と呼ぶのに値しないぐらいの期間しかないが、ぼくらにとっては大事なものだ。

 ぼくは彼女のみどり色の下着のことをなぜだか考えていた。そんな色をこれまで目にしたこともなかった。あれは、一度きりでその後も目にしていない。あれをもう一回、身につけてほしいと思ったが、わざわざ口にすることもなかった。世の彫刻は裸であることを強いられている。いくつかのお地蔵さんは寒さに備え、帽子を被らされているが。付帯するもので評価が異なる。もっと青い子どもならばきちんと分けていただろうが、もうその潔癖さはどこかに捨てられていた。

 希美の飲み物ののこりは少なくなっていた。氷の角は丸まり、溶解という状態に近かった。自分のこころもこれと大して違わないような気もした。さらに物事はきっちりと輪郭を要求してもいない。誰かに恋するなど、白か黒でもない。別の色であるかもしれない。あのみどり色のようなものでも間違いではない。

「ここに最近、かわいい下着を売ってる店ができたんだ」希美はある方角を指差す。
「え?」
「いっしょに入れないよね?」
「まあ、気まずいよね」

 ダビデ像は、きょうも裸のままだろう。それが彼の仕事なのだ。歌い終わったジェームス・ブラウンはガウンを肩に優しくかけられてステージを降りる素振りをするも、それを勢いよく脱ぎ去って、かなぐり捨ててからアンコールに応える。それも、彼の仕事なのだ。ぼくは彫刻などつくることはできない。ただ、想像を膨らませているだけで、胸を張っていえるような仕事ではないが、趣味という小さなクローゼットに詰め込むには分量が多過ぎた。

11年目の縦軸 16歳-34

2014年07月03日 | 11年目の縦軸
16歳-34

 ぼくは画家になるべきだったのだ。彼女の追憶のためだけにでも。

 もう四月になっている。季節は、どれほど女々しく悲しもうが、目一杯、存分に楽しもうが容赦なく動いていくものである。楽しい方がいくらか早く感じる。体感的に。ぼくはスーパーと文房具屋の間の道路で、スクーターに乗る彼女を見かける。ぼくらは同じ町に住んでいるのだ。邂逅があっても不思議でも奇跡でもない。まだ、頭を覆うヘルメットは常用しなくても良い時期だった。短い髪の彼女の髪は風になびくこともすくないが、それでも、その程度で魅力が簡単に軽減するわけでもなかった。ぼくらは挨拶をする。少しだけ言葉を交わす。バイクの免許、取ったんだ? とかぐらいの。

 ぼくは愛情をもっている素振りも見せない。彼女の表情からも本心は分からない。ただ、憎まれていないことには、いくら鈍感だろうと勘付く。彼女は去る。自分もバイクの免許(50CC)ぐらい取っとこうか、と考える。そのことを頭に浮かべれば自然と鮫洲という地名が脈絡もなくでてきた。いや、明確な理由はある。みな、そこに行くしかなかった。東京の西の方を別とすれば。

 東京に住むひとの免許の交付場所なのに、東京のまた別の反対側のはじにいる自分にとっては、ずっと神奈川県だと勘違いさせるほど、そこは、はるか彼方の遠い場所だった。

 彼女は高校二年生になったばかりなのだろう。ぼくにその名称は相応しくもなく、妥当でもなく、明らかにするならただの十七才間近、1986年という数字で表すしか方法がない。学年という名札はとうにない。阪神タイガースの夢の一年はもう完全に終わってしまった翌年の四月なのだ。

 ぼくは絵筆を取り、この短い再会時の彼女の印象を描き写すべきだったのだろう。才能の有無を鑑みもせずにトライだけでもしてみることは間違いではなかったはずなのだ。高校生がスクーターに乗って、ぼくの前を通り過ぎる。彼女のスピードは手首の回転だけで速まり、ぼくはあの地点でまだ停滞していた。あの寒い月日のことだ。渋谷と原宿の間の明治通りの歩道橋あたりで。

 あのスクーターが別世界へと飛翔する彼女の馬車でもあった。象徴的に。絵の題材としても悪くない。星空につながる背景のなかで空中に浮かぶスクーター。多分、色は黄色で国産だ。

 ベスパという美しいバイクがあった。ぼくは映画をひとりで見る。横に彼女はいない。ビギナーズ。ある時代のイギリスの若者がグループになって、ベスパを乗り回す映画もむかしにあった。

 ぼくはビギナーズという映画を新宿で見て、バスで明治通りを渋谷に向かう。途中の表参道で古着屋に寄る。店員とその映画の話をした。ファッションというものが個性と流行の狭間で揺れる。

 映画は映画館で観るものであり、若者はあの辺に出向く時期だった。学校で教えてくれないもの、という陳腐な表現を借りる。教えてくれたかもしれない可能性のものを入手する機会がぼくにはなかったためどう評価することもできない。だが、漠然としたあの時代と空気感を喪失が伴うとはいえなつかしんでいる自分もいる。

 ぼくは一時間ほど時間をかけ家に戻る。おそらく次のバイトをしていた頃だ。時給も高くはないが平日のほとんどの時間を費やしているぐらいだから、そこそこにはなった。それが古着に化け、映画館の暗闇に沈む時間を与えてくれた。デートの相手はまだいなかった。おみくじの大吉の到来を待ち望んで、ただひたすら中味をゆすっていた。逆さにすることは絶対にないのに。そこに彼女はもう入っていないのだから当然だった。すべてが凶に近いものか、スカとでも呼びたかった。

 ぼくは絵筆を握ることも、パレットに色を用意することもなく、自室で本を開く。電話をする相手もいなくなった。異性の同級生も進行形ではもういなかった。その圧迫的な夜に本を読もうとしている。開かれた本こそが正しい状態なのだ。閉じたままでは未完成であり、不完全なままのものだった。活字を追っている最中にあらゆる思考が往き来する。

「どんな書籍も公の記念碑なのである」

 ぼくは自分の部屋で本を読み、その言葉を発見する。どんなに目立たないものでも人類の記念碑になり得る。全体的にひとりよがりの内容だったが、その一行があるだけで読んだ甲斐があった。無駄な299ページ分を開かざるを得なかったとしても。すると、どんな絵画も彫刻も作者の手から離れれば公の記念碑になり得るのだ。ぼくは彼女をもう一度、自分のものにしたいと思いながらも、公の記念碑になることをより望んでいる。どちらかといえばそちらに傾いている。年月というのは不思議なものだ。

 スクーターで飛翔する少女の絵画が世界の裏側のどこかで飾られているかもしれない。作者の名は不明である。夢見ることは勝手で、無料だ。それもぼくの脳裡から生み出された記念碑だ。手を動かさなかっただけで、本来はどこかにあったのだ。もしくは作られて飾られる必然性があったのだ。あのスーパーの前の雑踏のような場所ではなく。きちんと整備された場所に、凛然と。見守るひとが稀であったとしても。

11年目の縦軸 38歳-33

2014年07月02日 | 11年目の縦軸
38歳-33

 訊かれてもいないのに絵美は自分の相手の人数を告げた。外国への旅行ならば、ちょっと多いなという数だった。ぼくの正直な反応としては嫉妬も起こらない代わりに、興味も湧かなかった。それより、ぼくはその数に匹敵する事柄ならば海外に旅したことの方が楽しそうだなと深い考えもなく思った。ぼくの対決した、あるいは共闘した相手は絵美の口から出た数字と比較すればいくらか少なかった。とはいえ大食漢の胃袋をあまりうらやましいのと思わないように、数量やグラムの分量で計る必要も、判断材料にする気もなかった。

 彼女はぼくの人数をさらっとした問いかけで訊きたがった。ぼくは答えるかどうか一瞬だけ迷う。同じ土俵にあがることもないが、会話というのはこういう無駄なやりとりを繰り返すことだということも経験上、知っていた。それさえ拒否するほど無神経でも無頓着でもなかった。

 さらに絵美は自分のはじめてのときの年もいった。またぼくはひらめくというような形で少し遅いなと単純に感じた。別にレースや競争をしている訳でもない。100メートルのタイムを10秒でどうにかこうにか切るかの問題でもない。もっと耐久的な話なのだ。少なくても数十年を費やす作業なのだ。ゴールはもっと先だ。しかし、絵美はスタートが遅れながらも立派に後半伸びて追い上げた。

 ぼくは大人になりはじめる頃から日常的に密接した事柄になり、ずっとつづけることを考えた。歯はもっと小さなときから毎日みがいている。腕時計をすることも大人になりかけの頃が開始の時期だろう。子どもは深い眠りから揺すり起こされ、学校の通学の時間さえ後押しされる。あ、そうだ、ひげを剃ること。ネクタイを結ぶこともその部類かもしれない。すると、同じ作業でもメーカーを変えたりして、ひとつの製品や種類をずっと継続させることは不可能なのだと思いはじめた。何年かに一度は買い換える。現物を手にしたり、結んでいる間は気にもしていない。ブランドも忘れている。大事にしないということではない。ただ、しっくりきてるなという安心感があればそれで充分だった。

 パスポートに押される外国の門を通過した刻印。絵美のものにぼくのスタンプもある。斜めに押され、端はかすんでいる。別に契約書のように鮮明に押す必要もない。係員はきょうの夕飯や妻とのケンカと仲直りのプレゼントのことなどを考えながら、適当に押しただけなのだ。流れ作業の一部として。

 大人になってから。またはなりかけの具体的な事項として。思考の飛躍を戒めなければならない。

 すると腕時計というのは自分を管理することの象徴なのか。遅刻をしないように学校やバイトや仕事に行き、約束した相手との時間に間に合うように向かう。仕事の重要な約束ならば、あとで大きな金額に化け自分の成績に反映するかもしれない。大元の目覚まし時計も個人各々の所有になる。

 ネクタイは通勤電車に耐えられることの象徴のようだった。雨でも台風でも、電車の事故でさらに満員のぎゅうぎゅう詰めの車内に身体をねじこめることができるかを問われるのだ。

 大人の毎日の勤勉なる営み。その大人には、その大人だからこそ解放も必要だ。快楽も捨ててはならない。絵美にはその相手が必要だったのだ。この数とさらに別の数を掛けた分だけの。

 ぼくは数だけにこだわれない。相性と趣味がある。

 好きというのは相手の何が好きなのだろう。ぼくの内部の何が好きと告げているのだろう。ファンファーレのように。ぼくは身体を差し出す。その差し出した人数を多いとか少ないと比較している。

 互いに提案し合う好みもある。容姿や考え方などとは別のところの趣味が。

 ぼくは古着のジーンズに愛着をもつ。所有は買った時点からはじまるが、その印象と歴史は見たこともない誰かがどこかでつくった。年月が経ち、丁度いい風合いと色合いになる。ぼくは履きつぶす。捨てるまでがぼくのものであり、ゴミの収集時間前に置いた時点でぼくの所有権は消える。会社に行く。満員電車に詰め込まれる。

 数だけが厳然と証明するものがある。ある種の通帳の残高。テレビのチャンネル。ラジオの周波数。

 胸の大きさは数字であり、かつ数字ではない。

 感触の数値化。

 ぼくは数字にもてあそばれる。ぼくはひとつのスタンプに過ぎない。確固たる個性など、夜のひとときに主張してもあまり通じないものなのだろう。この快楽もぼくの所有であり、同時に絵美の所有でもあった。混ざり合ったものがふたりの捨てるものでもある。その所有にはちっぽけな永続性もない。また同じことを繰り返さなければならない。定期的に。

 訊かれる前から絵美はその数字を述べたのだ。十数年前の彼女ははじめてそのことを知る。ぼくの二十二年前をきちんと葬ることにしよう。映写の途中で切れてしまった映画の貴重なフィルム。そのつづきは別の男性がつないだ。ぼくはつづきをどこかの倉庫の奥で探す。その探すという作業をしないでつづきを引き継いでも良かったのだ。選択というのはむずかしい。もっとも困難なものである。その困難と毎日、直面している。間違わない方がめずらしい。目覚ましが鳴ってもまた眠るのだ。もう少し、自分の採点を甘くしてもかまわないのかもしれなかった。

11年目の縦軸 27歳-33

2014年07月01日 | 11年目の縦軸
27歳-33

 ぼくは希美を抱きしめている。暗い中でも、当然、希美だ。

 過去におそらく誰かがそうした。未来にも同じように、ぼく以外の誰かがするだろう。

 頂上に向かう登山者が途絶えないように。あとを絶たないように。ゴミはもちかえるようにという看板が目立つ。その看板を登山者のためにわざわざ突き立てたものは誰だろう?

「引きも切らずに。引きも切らさない?」
「え?」
「あ、ごめん、ひとりごと」
「ねえ、集中してよ」笑い声を過分に含んでいった。

 永続性も永遠もぼくの手のひらからこぼれる。どうやっても水をとどめるには手は形状として向いていない。手の上向きの問題だけではなく、同じ体勢も、ずっとずっとはつづけられない。同時に並行させないということが大人のルールであり、最低限のエチケットでもあった。それさえ守れば何事も許される。漠然とした提示だが、そもそも誰が許す側で、誰が許される側なのか、厳然とした取り決めもない。ただ、暗黙にそういうものなのだろう。誰と誰との暗黙かも明確にするのは抜きにして。

 ぼくは中断している。過去に誰かがそうした。未来にもおそらく誰かがそうするであろう。その合間に、昔の洋画なら白黒の画面でもはっきり分かる紫煙と表現するのが似合う漂い往くものがハンサムな主人公の口から吐かれていることだろう。ぼくは、代わりにぼんやりとする。時代も、男性に求められているものも違う。ただ、ぼんやりとする。暗い中でも視線が有効になっている。ぼくはうつ伏せの希美を見る。エッフェル塔からの眺めを楽しむように。パリは昼でも夜でも輝いている。希美自身の存在がおそらくそうなのだろう。セーヌとシテ島。

 ぼくは再開する。過去に誰かがその機会を奪われ、未来にぼくも失い、誰かが再開するのだ。一時的なものにこそ宝が含まれているのだ。過去に金脈を発見して、ゴールド・ラッシュというブームがある。アメリカン・フットボールのチームもうまれる。ぼくは何を考えているのだろう?

 ぼくは下山する。ゆっくりと下山する。一気にかもしれない。急斜面を。希美も下山する。ゆっくりと下山する。再度、彼女は登山靴を履きはじめる。ぼくは冷たい飲み物を探す。冷蔵庫を開ける。冷蔵庫も開けていいのは自分だけなのだ。権利というのは所有という概念と引き換えのものなのだ。友人の家の冷蔵庫を勝手に開けることもむずかしい。ぼくはどうでもいいことばかり考えている。

 ぼくは行動を思考に置き換え、さらにその思考の過程と答えらしきものを言葉にしようとしている。その最中にも刻々と思考自体が変化してしまう。ぼくは十六才のあの少女の一日を捕まえきれなかった。そうしていたら、どんな変化が訪れ、そのことと、付属するあらゆるものを執拗に言葉にする義務を自分に課したのだろうか。

 文章にしようということが土台無理なのだ。十六才のぼくの世界は文字では納まらないし、埋まりきらない。行動を逐一表現するのは文字というのは機能として優れていない。感情の連鎖と絡まり具合には合致か釣り合いのようなものがとれ、喪失の綿々たる嘆きにも合う。歓喜には即時性という一点のことだけでも向かない。記録や、印刷、保存という過程が間に挟まれば、この歓喜も消えてしまうのだ。ベルリン・オリンピックの当時ですら映像は動きというものを記録するのに向いているのだ。躍動感もあれば、身体という外面へ滲み出すさまざまな内面の奥の側の感情もともなって表情にあらわれる。引きずり出される疲労や焦り。だが、ぼくには言葉しか与えられていない。二十六文字以上はあるが、組み合わせの確立はそう変わらない。

 ぼくは動いている。同時に耳のそばで立てられる音を聴いている。過去にこの哀切なる響きを聴き、未来にも吐息が混ざった音を耳にする。誰かが耳にする。音は刃向わない。情報に忠実である。ぼくはあの蓄音機の前の犬のように希美の声で安心する。

 目をつぶる。五感が鋭くなるよう神経を落ち着かせ、かつ荒立てる。女性の年齢により身体の温度が変わった。いや、人々にもよる。毛髪ですら愛着のもととなるのだ。

 ぼくは文というものに期待をかけ過ぎ、そのために失敗する。行動するひとはメモすら鬱陶しがる。戦場カメラマンはカメラだから優位に立てるのだ。ぼくには思考という回路を移し替えるのに、記号でもなく設計図のようなものでもなく、まどろっこしい文しか与えられていない。時間の経過が不可欠なものなのだ。当事者から一歩、退くとより緊密になれる媒体。ぼくは当事者の資格をおそれている。

 文章なんて所詮、ブドウ酒美味しゅうございました、に尽きるのだ。

 本人がいなくなった後としては。

 感謝とあきらめ。分際をわきまえる。身の程を知る。

 ぼくは冷たいもののフタを閉める。希美にもフタを閉める。

 シテ島という中洲。セーヌはそこを分岐点として両側に分かたれる。またひとつになる。閉じられる足。浮かんだいくつもの言葉。空中で舞い散り、網のなかに入れられなかった言葉。捕獲されない賜物。生まれなかった子孫。生まれたよろこび。誰かが得る可能性としてのよろこび。前倒しの限界。