我が、JJ氏復習の旅は、ヌーベルバーグからアンダーグランドシネマまでを語った本書でひとまず終了。
ところで、この本にもある通り、植草さんはヌーベルバーグを手放しで認めている。それを読みながら、『20世紀映画のすべて』という本を編集した際、植草さんとほぼ同年齢で、親しい友人同士でもあった淀川長治先生に「ヌーベルバーグやニューシネマをどう思いますか」と聞いたことを思い出した。
先生は「みんな悪くはないけれど、時代に乗った作品ばかりだね。映画の歴史に残る作品ではない。その時代の空気はそれぞれ見事につかんでいたけど、一過性のものだった」と答え、「では、映画史に残る名作の条件とは?」と重ねて問うと、「名作の条件とは、みんなを喜ばせてなおかつ作品の質が高いことです。勝手なことを言わないこと。どんな人が見ても喜ぶようなもの。それが名作の条件です」と答えた。
で、何が言いたいのかというと、ヌーベルバーグとは別に、例えば、先生は西部劇が大好きだったが、植草さんは嫌っていたという大きな違いもある。先生は割と好みがはっきりしていて、自分と趣向の違う人は敬遠するところがあった。だから、2人が親しかったというのはちょっと不思議な感じがすると思ったのだ。
ところで、この本にもある通り、植草さんはヌーベルバーグを手放しで認めている。それを読みながら、『20世紀映画のすべて』という本を編集した際、植草さんとほぼ同年齢で、親しい友人同士でもあった淀川長治先生に「ヌーベルバーグやニューシネマをどう思いますか」と聞いたことを思い出した。
先生は「みんな悪くはないけれど、時代に乗った作品ばかりだね。映画の歴史に残る作品ではない。その時代の空気はそれぞれ見事につかんでいたけど、一過性のものだった」と答え、「では、映画史に残る名作の条件とは?」と重ねて問うと、「名作の条件とは、みんなを喜ばせてなおかつ作品の質が高いことです。勝手なことを言わないこと。どんな人が見ても喜ぶようなもの。それが名作の条件です」と答えた。
で、何が言いたいのかというと、ヌーベルバーグとは別に、例えば、先生は西部劇が大好きだったが、植草さんは嫌っていたという大きな違いもある。先生は割と好みがはっきりしていて、自分と趣向の違う人は敬遠するところがあった。だから、2人が親しかったというのはちょっと不思議な感じがすると思ったのだ。
テレ朝で放送中の岡田准一主演のドラマ「白い巨塔」がなかなか面白い。山崎豊子の原作発売からすでに半世紀余りがたっているのに、医学界の暗部を告発するという原作の骨子が今でも通用するという普遍性はある意味恐ろしい。また原作は、財前の上昇志向の裏にある貧しい育ち故の屈折や弱さ、理想家故に融通が利かない里見の限界も描き、単純に財前を悪役、里見を善役としていないところに深みがある。だからこそ、時代を越えてこうして何度もドラマ化されるのだろう。
映画版『白い巨塔』(66)(1992.3.26.)
浪速大学医学部を舞台に、上昇志向の固まりである財前五郎(田宮二郎)と、正義派で理想家肌の里見脩二(田村高廣)という対照的な主人公を中心に、さまざまな思惑を持った医師とは名ばかりの“妖怪たち”を登場させる群像劇として、医学界の暗部を告発する。山崎豊子の原作、監督の山本薩夫、脚色の橋本忍、多彩なキャストたちが皆素晴らしい。
ただ、この映画の場合、同じく田宮二郎主演の同名テレビドラマ(78~79、総監督:小林俊一、脚色・鈴木尚之、音楽・渡辺岳夫、里見役・山本學)の方を先に見ており、しかもそれはとても上質なもので、最後が田宮自身の自殺と重なった衝撃もあった分、どうしてもドラマのイメージを思い浮かべながら見てしまったところがあった。
だから、悪役の財前が教授になり、正義派の里見が大学を追われるという、この映画の救いのないラストの後で、財前自身が病に倒れるというさらなる悲劇が起きることを知っているので、映画の終わりが尻切れトンボのように見えてしまったのは否めない。
ただ、最近、偶然大映の映画を続けて見たもので、大映という映画会社が持っていた独特の暗いカラーと、所属スターの田宮二郎という適役を得てこその映画だという気もした。当時の東宝や松竹、東映からはこうした映画が生まれなかったのも当然なのだ。
それにしても、もはや“聖職”などという言葉は死語だとしても、こうした医学界の腐敗は直接人の生死に関わる問題だし、いざという時、われわれはこうした“妖怪たち”に命を預けざるを得ないのかと思うとゾッとさせられる。
そう考えると、いかにも社会派監督の山本薩夫らしい告発、問題提起映画だということもできるが、先に再見した『皇帝のいない八月』(78)同様、ここまで体制や権力、組織側の嫌らしさを魅力的に描けるということは、実は山本には、こうしたものに対する、かわいさ余って憎さ百倍的なところがあったのではないかと思ってしまった。
山本の映画の多くは、反権力という思想が根本に流れていたが、作られた映画は皆力強く、鋭く時代を捉え、社会問題を提起した。何より、主義や思想云々は別にして、一本の映画として見ても見応えのある良作が多かった。つまり、告発劇でありながら、同時にエンターテインメントとしての面白さも持っていたのだ。その点が、彼の映画群を希有なものにしている。
『薩チャン 正ちゃん~戦後民主的独立プロ奮闘記~』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/b3e14e5e71a75ce42c0c9c18cf31d296
映画版『白い巨塔』(66)(1992.3.26.)
浪速大学医学部を舞台に、上昇志向の固まりである財前五郎(田宮二郎)と、正義派で理想家肌の里見脩二(田村高廣)という対照的な主人公を中心に、さまざまな思惑を持った医師とは名ばかりの“妖怪たち”を登場させる群像劇として、医学界の暗部を告発する。山崎豊子の原作、監督の山本薩夫、脚色の橋本忍、多彩なキャストたちが皆素晴らしい。
ただ、この映画の場合、同じく田宮二郎主演の同名テレビドラマ(78~79、総監督:小林俊一、脚色・鈴木尚之、音楽・渡辺岳夫、里見役・山本學)の方を先に見ており、しかもそれはとても上質なもので、最後が田宮自身の自殺と重なった衝撃もあった分、どうしてもドラマのイメージを思い浮かべながら見てしまったところがあった。
だから、悪役の財前が教授になり、正義派の里見が大学を追われるという、この映画の救いのないラストの後で、財前自身が病に倒れるというさらなる悲劇が起きることを知っているので、映画の終わりが尻切れトンボのように見えてしまったのは否めない。
ただ、最近、偶然大映の映画を続けて見たもので、大映という映画会社が持っていた独特の暗いカラーと、所属スターの田宮二郎という適役を得てこその映画だという気もした。当時の東宝や松竹、東映からはこうした映画が生まれなかったのも当然なのだ。
それにしても、もはや“聖職”などという言葉は死語だとしても、こうした医学界の腐敗は直接人の生死に関わる問題だし、いざという時、われわれはこうした“妖怪たち”に命を預けざるを得ないのかと思うとゾッとさせられる。
そう考えると、いかにも社会派監督の山本薩夫らしい告発、問題提起映画だということもできるが、先に再見した『皇帝のいない八月』(78)同様、ここまで体制や権力、組織側の嫌らしさを魅力的に描けるということは、実は山本には、こうしたものに対する、かわいさ余って憎さ百倍的なところがあったのではないかと思ってしまった。
山本の映画の多くは、反権力という思想が根本に流れていたが、作られた映画は皆力強く、鋭く時代を捉え、社会問題を提起した。何より、主義や思想云々は別にして、一本の映画として見ても見応えのある良作が多かった。つまり、告発劇でありながら、同時にエンターテインメントとしての面白さも持っていたのだ。その点が、彼の映画群を希有なものにしている。
『薩チャン 正ちゃん~戦後民主的独立プロ奮闘記~』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/b3e14e5e71a75ce42c0c9c18cf31d296