田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『映画に愛をこめて アメリカの夜』

2019-05-19 09:24:12 | 映画いろいろ
『映画に愛をこめて アメリカの夜』(73)(1981.11.26.八重洲スター座)併映はゴダールの『勝手にしやがれ』



 この映画は、巨大なセット撮影の場面から始まる。そこから『パメラを紹介します』という映画を作るスタッフ、キャスト、あるいは集まった報道陣の姿を追いながら、映画作りの実際を見せてくれる。

 例えば、トリュフォー自らが演じる監督は現実の映画製作に忙しく追い回されながら、映画に夢を託していた少年時代に『市民ケーン』(41)のスチール写真を盗みに行った夢にうなされる。夢と現実の違いは苦い。

 また、ハリウッドから来た主演女優(ジャクリーン・ビセット)は、フランスの男優(ジャン・ピエール・レオー)に同情し、思わず一夜を共にしてしまう。何日も自由を束縛され、苦労を共にしている俳優たちの間にこんなことが起きても不思議ではないし、役に成り切れば成り切るほど、映画の世界と現実がごっちゃになってしまうこともあるだろう。
 
 他にも、停電で現像前のフィルムが駄目になり、ベテラン女優(バレンティナ・コルテーゼ)はセリフが覚えられず、スタントマンとスクリプターは駆け落ちし、ネコは芝居をしないなど、てんやわんやで、撮影は遅遅として進まない。

 そんな中、女優と男優の情事を知ったスタッフの妻が叫ぶ「映画が何よ。やれ、誰かと誰かがくっ付いただの離れただのって、まるで精神病院じゃない」という一言が、映画製作の現場をズバリと言い当てているとも思える。

 所詮映画なんて、現実から逃避して夢の中でしか生きられないような異常な人間が集まって、心のよりどころとして作っているだけなのかもしれない。そして、映画を見る側も、それが嘘の世界だと知りながら、一時現実を忘れたくてその世界に浸るのだ。『アメリカの夜』というタイトルが示す通り、映画は虚構以外の何物でもない。結局、映画なんて作る側と見る側のばかばかしい共同作業なのかもしれないのだ。

 ただ、この映画の素晴らしさは、こうした数々のマイナスを超えて、映画を完成させる喜びを描き、それでも映画は生き続ける、それでも映画は素晴らしいと感じさせるところだ。また『パメラ~』の撮影開始から完成までが描かれるだけに、いっぺんに2本の映画を見たような不思議な気分にもなる。これは、まさに映画に対するトリュフォーの屈折に満ちたラブレターなのだ。

【今の一言】約40年前の、何とも支離滅裂な一文。当時の自分はこの映画を見て相当感動したはずなのに、それを素直に表現していない。それにしても、この頃のジャクリーン・ビセットは本当にきれいだったなあ。

『20世紀の映画』(2001)から
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『恋愛日記』

2019-05-19 07:14:32 | 映画いろいろ
『恋愛日記』(77)(1993.2.)



 1970年代のフランソワ・トリュフォー監督作。同時期『アメリカの夜』(73)で映画への愛を語り尽くし、『思春期』(76)で子供たちへの愛を語り尽くした彼が、今度はその愛の対象をひたすら女たちに向けたのがこの映画であろう。

 とはいえ、この映画は一種の変化球で、ひたすら女の脚に魅かれる決して二枚目ではない男(シャルル・デネル)を主人公にすることで、少々危ない雰囲気とコミカルさを同居させた、何とも不思議な味わいを持った映画なのだ。

 何しろ、この脚フェチ男が、何人目かの魅力的な脚に気を取られているうちに車にはねられ、一命はとりとめたものの、結局、看護婦の脚に興奮し、点滴をひっくり返してお陀仏となるのだから、これはもう変態の所業なのだが、冒頭を女ばかりの彼の葬式で始め、彼が書き残した本の出版で締めくくることで、実はこの男は滑稽だが幸せな一生を送ったのだと感じさせるところにトリュフォーの才がある。

 トリュフォーは生涯、愛の不毛と成就の間を行き来し、この映画のような温かいものと残酷なものを相前後して撮ったが、そのどちらもが魅力的であったという、愛すべき不思議な監督だった。
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