『自由を我等に』(31)(1982.4.16.)
今回、この映画を見直してみて気付いたのは、チャップリンの
『モダン・タイムス』(36)はもとより、スタンリー・クレイマーの
『おかしなおかしなおかしな世界』(63)など、後年の、金に絡んだ風刺喜劇映画全般に影響を与えている、ということだった。
最初に見た時は、この映画が『モダン・タイムス』より5年も前に作られていたことに驚き、チャップリンの映画作りの姿勢に疑問を持たされたりもしたのだが、改めて見てみると、何のことはない、二つの映画は似て非なるものだったのだ。
確かに、オートメーションによって機械と化した人間の姿を描いている点は同じだが、明らかな違いはラストシーンに象徴されていると思う。『モダン・タイムス』が貧しいながらも愛し合っている恋人たちの再出発を見せるのに対して、この映画は男友だち同士の再出発を見せる。しかも、その片割れは一度はブルジョワになったという皮肉を含んでいるのだ。これは、クレールとチャップリンの育ちの違い、女性観の違い、あるいは作風の違いを端的に表しているとも思える。
つまり、2人の優れた映画作家が、時代を先取った題材を、同時期に同じような方法で描いてみたら、似て非なるものが出来上がったということ。同種の題材に対して、2人の感性が違った反応を示したのだ。それが分かっていたからこそ、盗作問題が起きた時、クレールは一笑に付したのだろう。