田中雄二の「映画の王様」

映画のことなら何でも書く

『さらば愛しきアウトロー』

2019-05-31 10:24:59 | 新作映画を見てみた


 度重なる銀行強盗と16回の脱獄を繰り返しながら、誰も殺めなかった74歳の紳士的なアウトロー、フォレスト・タッカーの“ほぼ真実の物語”。タッカーを演じたロバート・レッドフォードの俳優引退作である。原題は「老人と海」ならぬ「老人と銃」だが、けれども銃は使わないという逆説的な意味があるわけだ。そういえば、昔フォレスト・タッカーという俳優がいたが、それは偶然の一致なのだろう。

 監督はレッドフォード主催のサンダンス映画祭で『ア・ゴースト・ストーリー』(17)が注目されたデビッド・ロウリー。レッドフォード全盛期の70年代の映画を意識してスーパー16フィルムで撮影したという。

 さて、実話を基に、老人の犯罪をユーモアを交えて描いた点、あるいは主人公にシンパシーを感じながら彼を追う若い刑事(ブラッドリー・クーパー、ケイシー・アフレック)や、主人公に絡む老年女性(ダイアン・ウィースト、シシ―・スペイセク)の存在、ジャズ風の音楽など、この映画はクリント・イーストウッドの『運び屋』とイメージが重なるところが多々ある。

 とはいえ、『運び屋』にはイーストウッド独特の暗さがあったのだが、こちらは人生を楽しむ男のホラ話(トール・テール)的なものとして、明るさを感じさせる。ここがレッドフォードとイーストウッドの個性の違いで、88歳のイーストウッドは硬派で頑固な男、82歳のレッドフォードはスマートで軟派な男のイメージを貫いた感がある。

 また、この映画の見どころは、誰も殺めない強盗=『ホット・ロック』(72)『スティング』(73)『スニーカーズ』(92)、夢を追い続ける男=『華麗なるギャツビー』(74)『華麗なるヒコーキ野郎』(75)、アウトロー=今回脱獄シーンで引用された『逃亡地帯』(66)『明日に向って撃て!』(69)、馬との絡み=『出逢い』(79)『モンタナの風に抱かれて』(98)など、レッドフォードの過去の出演作がオーバーラップしてくるところだ。

 その意味では、ジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』(76)やスティーブ・マックィーンの『ハンター』(80)同様、俳優ロバート・レッドフォードの集大成として“幸せな引退作”だと言えるのではないか。

ロバート・レッドフォードが俳優引退を表明
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/94c156eae0df2b5433c5ab6252c363df
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『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』

2019-05-31 08:17:24 | 映画いろいろ
『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』(42)



 劇作家、作詞・作曲家、俳優、歌手、ダンサーとして活躍し、ブロードウェーの父と呼ばれた興行師ジョージ・M・コーハンの伝記映画。監督はマイケル・カーティス。コーハンを演じたジェームズ・キャグニーは歌や踊りに達者なところを見せて(特にタップダンスのシーンが圧巻!)アカデミー主演男優賞を受賞。キャグニー自身「出演映画の中で最も好きなのはこの映画だ」と語っている。そのキャグニーは、ボブ・ホープ主演の『エディ・フォイ物語』(55)で再びコーハンを演じている。

 この映画は、戦中に製作されたため日本では1986年まで公開されなかった。多くの日本人は長い間キャグニーの本質に触れていなかったことになる。その意味で、ギャングスターではない彼を知るには『汚れた顔の天使 ジェームズ・キャグニー自伝』が最適の書だ。
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『ビリー・バスゲイト』ロバート・ベントン

2019-05-31 06:05:14 | 映画いろいろ
『ビリー・バスゲイト』(91)(1992.6.1.丸の内ピカデリー)



 『クレイマー、クレイマー』(79)以来の、ロバート・ベントン監督とダスティン・ホフマンの顔合わせだが、“今一映画”で終わっていたのが少々つらかった。同時期に作られた『バグジー』(91)同様、いまさらノスタルジックなギャング映画が映えるはずもないのに、何を勘違いしてこうした映画を作ってしまうのだろう、という疑問を感じた。

 あえてこの映画の新味を探せば、実在のギャング、ダッチ・シュルツ(ホフマン)の晩年を、彼の側近となった青年ビリー(ローレン・ディーン)の目を通して、つまり主人公から一歩引いたサブキャラクターの視点から描いている点だが、これとて『グッドフェローズ』(90)のような強烈味に欠けるから、印象がぼやけてしまう。ビリーよりも、むしろダッチの参謀役のオットー(スティーブン・ヒル)の方が目立ってしまう有様だ。

 ただ、ビリーの視点同様に、やけに老けてしまったホフマンを見ていくうちに、「そうかホフマンは“滅びの美”を演じたかったのか」と気づいた。そうなると映画自体の出来は別にして、違った感慨が湧いてくる。そこが狙いだったのか?


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