『巴里の屋根の下』(30)(1981.4.5.)
パリの街頭で楽譜を売って生活しているアルベール(アルベール・プレジャン)は、ルーマニア出身のポーラ(ポーラ・イレリ)と出会い、ひと目惚れをする。ところが、ある日、ひょんなことから部屋を締め出されたポーラがアルベールの部屋に居候をすることになって…。
先頃(81.3.15.)死去したルネ・クレールのトーキー第一作。1930年製作だから、今からおよそ半世紀前に作られた映画である。今ではファッションの都などと、華やかな形容詞で語られるパリも、この当時はむしろ地味な下町のように映る。
前に見た『巴里祭』(32)もそうだったが、クレールは本当にパリを愛していたんだなあと感じさせる雰囲気が映画全体に漂っているが、これは実景ではなくセット撮影だという。また、サイレントからトーキーへの移行期の映画なので音の使い方がとても面白い。主題歌も公開当時評判を呼んだというが、なるほどという感じのする名曲だった。
『華麗なるギャツビー』(13)(2013.6.29.MOVIX亀有)
豪邸に暮らす謎めいた男ジェイ・ギャツビー(レオナルド・ディカプリオ)は、毎夜のように豪華なパーティーを開くが、誰も彼の素性を知らない。ギャツビーは隣人のニック(トビー・マグワイア)に、自らの生い立ちを打ち明けるが…。アメリカ狂乱の1920年代、退廃と欲望渦巻く上流社会を舞台に、ギャツビーが人生の全てを懸けた、ある秘密を描く。原作はF・スコット・フィッツジェラルド。
1974年のジャック・クレイトン監督、フランシス・フォード・コッポラ脚本、ロバート・レッドフォード主演版は、当時のノスタルジーブームの中で作られたため、ひたすら20年代末期を再現することの方に重きを置いていたが、今回はバズ・ラーマンらしく、背景にも音楽にも、今を感じさせる趣向を端々に凝らしている。そのため、時代掛かっていない分、現代にも通じる話として示すことに成功している。
また、ギャツビーの屈折や狂気の表現という意味では、レッドフォードよりもディカプリオの方が合っていたかもしれない。デイジーも前作のミア・ファローよりも、今回のキャリー・マリガンの方がピンときた。今は、この映画が描いたような男の純情は「だからどうした」と思われてしまうのか…。新旧作とも、まるで全てを見透かしているかのような眼鏡の看板が印象に残る。
『聖衣』(53)
“聖書スペクタクル”がたくさん作られた理由は…
キリストが処刑時に身をまとっていたローブに触れ、信仰に目覚めたローマの護民官マーセラス(リチャード・バートン)の姿を中心に、ローマ帝国時代を壮大なスケールで描いたシネマスコープ第1作。監督ヘンリー・コスター、撮影レオン・シャムロイ、音楽アルフレッド・ニューマン。ビクター・マチュアが演じた奴隷のディミトリアスを主役にした続編『ディミトリアスと闘士』(54)も製作されている。
信仰とは、というテーマを真摯に見詰めたマーティン・スコセッシの『沈黙-サイレンス-』を見た直後に、偶然テレビでやっていたこの映画を再見したものだから、そこに描かれた信仰の描き方の違いには隔世の感があった。
ところで、アメリカ映画は、サイレント時代から、何故たくさんの“聖書スペクタクル”を作ってきたのか、という謎がある。それは、タイクーンと呼ばれた大手映画会社のドンたちのほとんどがユダヤ教徒だったからではないか。また、第2次大戦後はイスラエル支援という新たな目的も加わり、エルサレムはユダヤ人の都なのだ、キリストもユダヤ人なのだ、というメッセージを込めながら、『十戒』(23→56)『ベン・ハー』(25→59)『キング・オブ・キングス』(27→61)などがリメークされ、新作も盛んに作られたのではないか…。
以上は、瀬戸川猛資の好エッセー集『夢想の研究』の「大君の都」からの受け売りだが、核心の一端をついていると思う。昔の映画を見た時に、ただ、古い、くだらないで片付けず、その奥にあるものを考えると、興味深い事実が浮かび上がってくることもあるのだ。
『イースター・パレード』(48)(1993.11.25.)
20数年ぶりにこの映画を見直すきっかけになったのは、和田誠演出、構成の音楽ライブ番組「ソング・イズ・ユー」。その中で歌われたアービング・バーリン作曲の「イースター・パレード」が耳に残ったからである。
この映画は、戦後、日本で公開された最初の本格的カラーミュージカル映画なので、当時の淀川長治先生や双葉十三郎さんの批評を読むと、彼らがいかに熱狂的にこの映画を迎え入れたのかが分かってほほ笑ましくなる。
また、この映画は、当初はジーン・ケリーとジュディ・ガーランドの共演で撮られる予定だったのだが、ケリーがけがをして、そのピンチヒッターとして、当時半引退状態だったフレッド・アステアが起用されたらしい。そして、これが、図らずも、この後訪れる“MGMでのアステア”という第二次黄金時代の端緒となったのだ。
もし、ケリーが予定通りに演じていたら、戦後のアステアの活躍はなかったかもしれないし、ハリウッドミュージカルも全く違う方向に進んだかもしれない。そう考えると、両者の縁の不思議さを感じる。
また、この映画のガーランドは、抜群に歌がうまくて可憐なのだが、彼女は終生自分の容姿にコンプレックスを抱き、それが薬物中毒の原因の一つにもなったのだという。さらに、この映画は、ガーランドの夫のビンセント・ミネリが、彼女との不仲が原因で監督を降り、振付師出身のチャールズ・ウォルターズが引き継いで完成させている。
そんな歴史の裏側を知って見ると、アステアとガーランドが「イースター・パレード」(本当にいい曲だ)を歌いながらアベニューを行くラストシーンが、楽しいだけではなく、より感慨深いものとして映り、思わず涙ぐんでしまった。
https://www.youtube.com/watch?v=lYac9O3GYTM
フレッド・アステアのプロフィール↓
ジュディ・ガーランドのプロフィール↓
パンフレット(50・東宝事業部(Hibiya Theatre.No.21.))の主な内容
解説/梗概/イースター・パレード(秦豊吉)/IRVING BERLIN'S EASTER PARADE(佐藤邦夫)/イースター・パレードの美しさ(岡田恵吉)/イースター・パレードの味(淀川長治)/イースター・パレードを観て(矢田茂)/蛇の穴
『アメリカン・グラフィティ』(73)(1980.5.4.三軒茶屋映画 併映は『アニマル・ハウス』『天国から来たチャンピオン』)
1962年のカリフォルニアの小さな田舎町を舞台に、高校を卒業した若者たちが、一緒に過ごす最後の一夜を描いた青春群像劇。製作はフランシス・フォード・コッポラ。当時29歳のジョージ・ルーカス監督が60年代のアメリカの青春像を鮮やかによみがえらせた。
ルーカス監督作で言えば、『スター・ウォーズ』(77)を先に見た後で、遅ればせながらやっと見ることができた。ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」などオールディーズヒット曲が満載。描かれるのはベトナム戦争前の明るいアメリカ。この時代に青春を過ごしたアメリカ人が見たら、たまらないものがあるのだろうなあと感じた。
リチャード・ドレイファス、ロン・ハワード、ハリソン・フォードをはじめ、出演者がみんな若くて驚いた。中でもチャールズ・マーティン・スミスがいい。もてない男の強がりが身につまされる。最後はベトナム戦争で行方不明になった彼が何とも哀れに思えた。
しかし、こんなノスタルジックな青春映画を撮ったルーカスが、次作で『スター・ウォーズ』を撮ったとは…。その大きな変化には驚くばかりだ。
【インタビュー】『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』ロン・ハワード監督
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/034b9b32ed126b9e8c531d8a4ab698f0
『ラストサムライ』(03)(2003.12.17.品川プリンスシネマ)
トム・クルーズ製作・主演で、明治維新直後の日本を舞台にした時代劇大作。監督はエドワード・ズウィック。
近代化を進めるため、武士の根絶を目指す明治政府は、南北戦争の英雄だった元軍人のオールグレン(クルーズ)を西洋式の軍隊の教官として雇う。オールグレンは戦闘中に武士の一団によって捕らわれるが、侍の長・勝元(渡辺謙)たちと触れ合う中で、誇り高い武士道の精神に心を動かされる。そして決戦の時が訪れる。
史実から見ればめちゃくちゃな話だが、ハリウッド映画がこれだけ真面目に日本の侍を描いたことは喜ばしいと感じた。
日本側では、渡辺のほか、真田広之、小雪、池松壮亮、原田眞人、中村七之助、そして寡黙な侍(サイレント・サムライ)役で、斬られ役として知られる福本清三が出演している。
『おちおち死んでられまへん―斬られ役ハリウッドへ行く』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/987217d098f763218ba36d23e81d5dc6
『キングコング対ゴジラ<完全版>4Kデジタルリマスター』(2016.7.27.)
家のテレビでは4Kデジタルリマスターの効果のほどは定かではないが、今改めて見ると、関沢新一の脚本はなんと荒唐無稽でご都合主義なことかと思い、思わず苦笑いさせられた。けれども、それと同時に、怪獣同士を闘わせるために考え出された強引な力業と奇抜なアイデアの数々はすごいとも思う。こうした荒唐無稽さは、岡本喜八の無国籍アクションのために書いた脚本にも生かされていた。
例えば、この『キングコング対ゴジラ』(62)では、日米の両雄をいかに相まみえさせるかを、東宝お得意の『社長シリーズ』のようなコメディー要素を絡めながら描いているし(有島一郎が絶品!)、形勢不利なコングが雷に撃たれて帯電体質となり、ゴジラと互角に闘えるようになるというように、随所に見られる秀逸なアイデアも楽しい。
続く『モスラ対ゴジラ』(64)では、明確にベビーフェース(善=モスラ)対ヒール(悪=ゴジラ)の対決としたが、そこに、モスラの卵を巡る興行師(佐原健二、田島義文)の暗躍や土地問題を絡めて、実は一番恐ろしくてずるいのは人間ではないのかと問い掛けた。
そして『三大怪獣 地球最大の決戦』(64)では、ドラマ部分はあの『ローマの休日』(53)を下敷きに、金星人が乗り移った某国の王女(若林映子)と日本の刑事(夏木陽介)との淡い恋を描き、そこに、宇宙怪獣キングギドラを倒すために、モスラの説得でゴジラとラドンが地球代表として共闘するという力業を盛り込んだ。
さらに『怪獣大戦争』(65)では、ゴジラとラドンを宇宙に遠征させ、X星人という不思議な宇宙人まで登場させた。さすがに、ゴジラにシェーをさせたのは関沢氏ではなさそうだが…。
こうした流れが、良くも悪くも「ゴジラ」という素材を変え、そのことについては賛否両論あるのだが、いずれにせよ、この人は、監督本多猪四郎、特技監督円谷英二と共に、子供時代のオレたちを気持ち良くだまし、夢を見させてくれた恩人であったことだけは確かだ。
さて、この人のユニークなところは作詞家でもあるところ。美空ひばりの「柔」、村田英雄の「皆の衆」、小林旭の「ダイナマイトが500屯」、都はるみの「涙の連絡船」、そして舟木一夫のテレビ主題歌「銭形平次」は、みんなこの人の作詞。鉄道写真家としても有名だった。なんだか伝記が書きたくなるような多面体の面白い人だったと改めて思う。
室蘭を舞台にした不思議な映像詩集
北海道・室蘭出身の坪川拓史監督が6年越しで完成させたという力作。タイトルの「モルエラニ」とは、アイヌ民族の言葉で「小さな坂道をおりた場所」を意味し、室蘭の語源の一つと言われているそうだ。
この映画は、7話連作のオムニバス形式ではあるが、それぞれの話と登場人物が微妙に関連し合い、まるでメビウスの輪のように、ぐるりと一回りしてきて最後につながる。だから「あー、そうだったのか」と合点がいってうれしくなる。
観念的で難解な映画かと思いきや、さにあらず。一種の映像詩集、あるいは寓話集のようでもあり、純文学風な室蘭のガイド映画といった趣もある。不思議なことに3時間34分を決して長く感じない。
コロナ禍で公開が延期となり、その間に出演者の大杉漣、佐藤嘉一、小松政夫が逝去した。記憶、約束、生と死、再生などをテーマにした映画であるだけに、そこに映る彼らの姿には特別な感慨を抱かされる。
以下、それぞれの話に関するメモを。
第1話「冬の章/水族館のはなし「青いロウソクと人魚」
画面をモノクロからカラーに変転させることで季節の変わり目を表現。アイテムは、『赤いろうそくと人魚』(小川未明)、クラゲ、瓶に入った手紙、メリーゴーラウンド、音楽は「波涛を越えて」。
第2話「春の章/写真館のはなし「夏の名残りの花」」
第1話に続いてのロウソク職人役で大塚寧々、写真館の主人役で大杉漣、謎の老女役で香川京子が登場。アイテムは、写真、時計、レコード、ロウソク、桜の木、音楽は「夏の名残のバラ=庭の千草」。
第3話「夏の章/港のはなし「しずかな空」」
妻を介護する夫役に小松政夫。そこはかとないユーモアとペーソスを漂わせるところはさすが。若夫婦役の水橋研二と菜葉菜、留学生ヘルパー役の張平もいい味を出す。アイテムはピアノ、カセットテープ、和太鼓、豪華客船。音楽は「静かな空」。
第4話「晩夏の章/Via Dolorosa」
前半と後半をつなぐ役割を持った短編。アイテムはピアノ、「名前のない小さな木」。
第5話「秋の章/科学館のはなし「名前のない小さな木」」
後半3作に登場する少女・久保田紗友がここで初めて現れる。そして再びの大杉漣。アイテムは、絵本「名前のない小さな木」、サクランボ。そして画面はカラーからモノクロへ。
第6章「晩秋の章/蒸気機関車のはなし「煙の追憶」」
老機関士役で坂本長利。アイテムは、静態保存されたSLのD51。
第7章「初冬の章/樹木医のはなし「冬の虫と夏の草」」
樹木医役の市民キャストの佐藤嘉一が好演を見せる。アイテムは、冬虫夏草、レコード、遺灰、桜の木。音楽は再びの「夏の名残のバラ」。
全編を通して何度も流れる曲が耳に残り、どこかで聴いたことがあると思って調べてみたら、『レイジング・ブル』(80)のオープニングでも使われた、マスカーニのオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲だという。