空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

慣習と善意

2007-05-18 16:57:50 | 本・論文・研究メモ
 本多氏一行はアラビア半島のベドウィン集落に滞在する。その際,大いに歓待を受ける。初めのうち,彼らはベドウィンらによる,旅人への厚い親切に感動する。しかし去り際には,そんな"親切"な彼らの(返報の)要求に閉口する。

「…この「エセ親切」をバカにすることはできない。いや,むしろ私たちの考えるような「善意」による親切よりも,確実な効果がある。善意は往々にして気まぐれであり,相手より自分の心をなぐさめるためのものが多いが,慣習は一種の不文法として,確実な力を持っている。こうした慣習は,その民族の長い歴史の経験が集積した生活の知恵であり,無数の犠牲者を踏み台にしている」(本多勝一『アラビア遊牧民』朝日文庫版139頁)

 まずまずよい分析かと思われる。但し慣習と善意とを対比するのに急で,些か舌足らずの感がある。「自分の心を慰めるための」善意なるものは,「独りよがりの」善意であって,善意とは似て異なるものではないか,と思う。

 善意に基く行為は,発生するか否か不確実である。皆が皆善意の人ではなし,善意ある人でも常に善意のままに施し続けるわけにもいかない。善意の人が善行をし続け,その報いがない場合,善意の人は一方的に物質的損失に甘んじなければならない。極端な場合,その善意の人は破滅する。彼にとって悲劇であるし,彼によって利益(宿,食事など)をうけてきた人々にも損失である。

 慣習に基くなら,(この場合,接待の)行動はプログラム的であって,その生起は確実である(本多に従えば「確実な効果がある」)。また慣習に基く,この義務的行為は相互的で,どちらが損をするというわけでもない(原則的には)。

 慣習法に基く行為は義務的である。それは(恐らく直接には)善意に基かない。しかし善意が伴わないのではない。善意や行為とは別の理屈がはたらいており,好意に基く行為ではないが,好意を伴うものである。行為主体は木石にあらず,人間である。こうした点について,本多氏は些か注意を欠いたかと思う。

 以上,研究用メモ。

 非常な長期に亙って積んだままだった本多勝一を一冊消化してみた。この本については,心配したほど読みにくいものではなかった。尤も,文章から濃厚に個性が滲み出てくる感はあった。旅行記として一定の評価を与えるべきものではあろうと思われる。
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