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てらまち・ねっと



 原発事故とその後のことの報道を見ていて、何を信じてよいかの不安を募らせる人は少なくない。
 報道機関のあり方や報道の姿勢が強く疑われている。
 そのまま信じてはいけないことは少なくない。

 もちろん、すべてというわけではない。
 ということで、いくつかの記事を記録しておく。

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●原発報道に求められるものとは
     朝日 2011年6月14日
 中断したはずの福島第一原発1号機への海水注入が現場の所長判断で続けられるなど、二転三転の事態が続く原発報道。3号機原子炉建屋での高い放射能データを公表しなかったり、5号機での冷却機能一時喪失の発表が半日遅れたり、と東京電力や政府の情報隠蔽体質に報道陣が振り回されている色彩は強い。ただ、報道側にも、東電の社長後任人事の誤報で読売新聞がおわび記事を掲載した失点はある。「政府や東電の発表をそのまま掲載しているだけでは」という批判も読者から寄せられている。先行きが見通しづらく長期にわたる原発の復旧について、メディアに求められる課題とは何か。 
 ※写真は、「脱原発」を訴えてデモ行進に参加する人たち=11日、名古屋市中区
..

●原発事故報道と戦前の新聞
   ニュースの現場で考えること
 東日本大震災の後は、半ば呆然とした日々が続いていた。札幌は、地震も津波も原発事故も、ほとんど影響がなかったし、今もない。自分の日常の仕事も、震災前と同様に続いている。

・(略)・・

私は常々、最近の報道界の凋落は「取材力の低下」が大きな原因であると言ってきた。それは「当局との親和性の深化」の裏返しでもある。現場では、記者がそれぞれに工夫し、なんとか壁を突破しようとしているのだとは思う。私の知人・友人にも、そういう記者は数多くいる。しかし、報道全体としては限りなく、「大本営前夜に近付いているのではないか」という感覚がある。あえて「前夜」と付したのは、強制的な検閲が発動される以前の、という意味においてである。ある全国紙の知人(デスク)も先日、「福島原発絡みでは、やばい話がいろいろある。でもデカすぎて書けない」という趣旨の話をしていた。「政府・当局」のお墨付きがない限り、こわくて書けないという。

東京電力も官僚機構も、そして新聞社も、すでに出来上がった、言葉を換えれば賞味期限が過ぎた組織である。ビジネスの様式が完成し、日々仕事は進んでいく仕組みが出来上がっているから、トップや中堅幹部がどのような人物であっても、とりあえずの仕事は進む。そのような組織には、日ごろ、葛藤がない。「新聞 資本と経営の昭和史」を読んでもそうだったけれども、戦前の新聞社も実に粛々と、国策遂行会社になってしまう。当時の当事者にとっても、すべては「日常の延長」だったようだ。軍部や政権の奥深くに食い込んだ記者も、やがては大ニュースも大ニュースと思わなくなっていく。

福島の問題に立ち返れば、それでも、報道の現場でやるべきこと、やれることはたくさんあると思う。「多様性の確保=異なる視点」と「発表されない事実の掘り起こし」。突き詰めて言えば、「大本営」を防ぐには、この2つの柱しかない。では具体的にどうするか、という点については、また後日に記したいと思う。

●【放送】原発とテレビの危険な関係を直視しなければならない
       朝日 2011年6月10日
 この原稿は大震災発生からほぼ2カ月の時点(5月9日)で書いている。大津波は壊滅的な被害を残して一応「去った」が、原発事故はいまだ「現在進行形」だ。そこで本稿は、原子力発電所事故とテレビ報道の関係に敢えて絞って書き進める。それはこの問題にこそ、なぜ日本の原発が今回のような惨事を引き起こす事態に至ったのかを解くための、きわめて重要なカギが含まれているように思うからだ。とりあえず論点を整理しておく。

 (1)今回の原発事故の重大性、深刻さをテレビは伝えることができたか? メディア自身にとって「想定外」だったことはないか? 当初の「レベル4」という原子力安全・保安院発表に追随するような「発表ジャーナリズム」に疑義を呈することができていたか?

 (2)事故について解説する専門家、識者、学者の選定に「推進派」寄りのバイアスがなかったか? その一方で「反対派」「批判派」に対して排除・忌避するようなバイアスがなかったかどうか?

 (3)原発からの距離によって描かれた同心円による区切り(原発から何キロ圏内)を設定してメディア取材の自主規制を行っていたことをどうみるか? さらに各メディアによって設けられた取材者の被ばく線量の基準は妥当だったかどうか? 一方で、線量計を持参して原発至近距離までの取材を試みたフリーランンスの取材者をどのように評価するか?

 (4)「風評被害」の発生について、テレビはどんな役割を果たしたのか? パニックの発生を恐れるあまり、過剰に安全性を強調することがなかったか? 安全性を主張する際にその根拠にまで遡及して報じていたか?

 (5)「国策」化していた原子力発電推進について、テレビが果たしてきた役割を検証する自省的視点があったかどうか? 電力会社の隠蔽体質や情報コントロールについて批判する視点が担保されていたかどうか? 

 (6)テレビにおける過去の原子力報道の歴史を共有できていたか? 原発を扱うことをタブー視する空気にどこまで抗してきたかどうか? スポンサーとしての電力会社を「相対化」する視点がしっかりと確保されていたかどうか?

 (7)テレビに限らず、企業メディアにおける科学部記者、専門記者の原子力発電に関する視点、立ち位置が批判的に検証されてきたことがあるか? 何よりもテレビにおいて、原発問題に関して専門記者が育成されてきたかどうか? 記者が推進側と「癒着」しているような構造はなかったかどうか?

 以上の整理は、まだ生硬なものだが、論をすすめる意味合いで構成した。重複も多々ある。

  ・・・(略)・・・

●テレビが報じ損ねた原発事故の重大性
   ・・(略)・・
●NHKが放棄した政府指示の相対化
   ・・(略)・・
●原発を後押しした記者に責任を問う作業が必要
   ・・(略)・・

  その作業は、戦後まもなくの頃、吉本隆明らが行った知識人の「転向」研究と性格が似ているのかもしれない。だが、誰かがやらなければならない作業だと思う。なぜならば前項で記したように原発推進に異を唱えた人々は、ことごとく迫害され排除されてきた歴史があるからだ。
 私たちの国の歴史で、「戦争責任」がついにうやむやにされてきたように、「原発推進責任」についても同様の道筋をたどるのか。歴史はやはり繰り返すのだろうか。
(「ジャーナリズム」11年6月号掲載)
   ◇
金平茂紀(かねひら・しげのり)
TBSテレビ執行役員(報道局担当)。1953年北海道生まれ。1977年TBS入社。モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、アメリカ総局長などを経て2010年9月より現職。著書に『テレビニュースは終わらない』『報道局長 業務外日誌』など。


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もともと重金属や非日常の化学物質などの恐れがあるので「汚泥」を肥料とすることはいけないと思っていた。でも、今回は、国は「肥料に」と。ブログに⇒◆「放射性の汚泥を肥料にする」との決定/「汚泥肥料中に含まれる放射性セシウムについて」(農水省)⇒http://bit.ly/iEKvH1
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