1976年4月、国に学問は不要と言うクメール・ルージュは、無人になったプノンペンの学校を反革命分子を尋問しその係累を暴くための施設に転用。S21(トゥール・スレン)は、その政治犯収容所のひとつだ。2年9ヶ月の間に1万4千~2万人もの人が収容され、そのうち生還できたのはたったの8人という。
中央委員会(Angkar Loeu、クメール・ルージュが存在を秘密にした上部機構)は、共産主義になったにもかかわらず、国内の飢餓が増大するのは反革命分子によるものに違いないという被害妄想を抱いた。トゥール・スレンの看守たちは残虐行為でこれに応える。政治犯として捕えられたかつての文化人たちは、長く続く拷問から死をもって解放されるため、看守たちの望む答えをし、自ら処刑されていった。
遺体は裏手のトゥール・スレン小学校跡に埋められたが、じきにそこも満杯になった。また、処刑時の悲鳴があたりに響く事から、処刑・埋葬場はプノンペンの南西15kmのチュンエク村(後にキリング・フィールドと呼ばれる)に移された。
過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて危険人物だったのだ。それどころか、カンボジアの土着的制度、例えば市場を中心とする経済・地域社会の温存を図ろうとするクメール・ルージュ内部の人間も粛清、処刑された。
危険な要素は、速やかに排除しなければならない。僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、技術を持つ者や知識人はすべて処刑の対象となった。
また、旧体制文化の知識を全く持たない子供たちが重視されるようになっていく。子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、子供兵士、子供看守、子供医師が次々と生み出されていく。
このため、ポル・ポト派は有為の人材を失い、皮肉にも次第に政治組織としての機能と活力を失い、武力ゲリラに転落していく。
こうして、クメール・ルージュ(=ポル・ポト派)の非現実・非科学的な原始共産制社会を理想とする極端な重農政策は、カンボジア全土になお一層深刻な食糧危機をもたらす。
1978年1月。ポル・ポトはベトナム領内の農村に攻撃をしかけ、ベトナムやソビエト連邦と断交。ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソの対立から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権との対立が深まる。
1978年5月。ポル・ポトへの反乱が疑われたクメール・ルージュの幹部・兵士ら(反ポルポト派)が、ポル・ポト派から攻撃を受け、内戦に。その結果、反ポル・ポト派の幹部らが大量処刑され、ベトナム領内に十数万人の反ポル・ポト派が難民として流れ込む。
ベトナムは、ポル・ポト打倒を目指して、カンボジアからの難民をカンプチア救国民族統一戦線(KNUFNS) として組織。ヘン・サムリンを首相に擁立し、彼らは大規模な攻撃を画策していた。
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