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入社したての頃、富山にはよく出張で行っていた。そのころ、泊まったホテルの部屋にあった観光案内で、郊外の山中にある500余りの羅漢様のことを知った。
仕事だから、足を延ばしてというわけにもいかず、いつかそのおびただしい数の石仏を観てみたいと思っていた。
きっと、そのころから、自分にしか撮れない”写真”のイメージをおぼろげながら抱いていたのかもしれない。
木立の中に、さまざまなポーズで静かにたたずむ羅漢たち。
この石仏たちは、200年ほど前の寛政11(1799)年、富山城下の米穀商兼回船問屋、黒牧屋善次郎が先祖の供養にと16体の羅漢像を寄進したのが始まりという。200年以上もの間に風雪にさらされ、顔の彫りもほとんど失われているが、その表情はみな穏やかで訪れる人の心を和ませる。
そして、同じ顔は2体とない。
聞くとこの長慶寺の五百羅漢は佐渡の石工の手になるものらしい。
石仏は佐渡の輸出産品の一つだった。
この五百羅漢には原画が残されている。画家は佐渡の尼僧とのこと。
もともとは小木湊の遊郭の遊女だった尼僧。五百羅漢のモデルたちは、彼女の昔馴染みの客である北前船の船乗りたちだった。
明治維新時の廃仏毀釈の嵐は、富山藩、松本藩、薩摩藩、苗木藩に強く吹き荒れた。呉羽山の登山道の両脇に置かれていた五百羅漢は悉く倒され、そのまま放置され、やがて土に埋もれてしまった。
昭和2年に全部、発掘、修理され、造成された現在地に移転、安置された。
全国のあちこちにある五百羅漢。五百羅漢は
「亡き親・子供・愛しき人に会いたくば五百羅漢にこもれ」
と言われ、必ず探し求める人の顔があるという。
羅漢を観ていて、なんとなく幼いころに親しんだ懐かしい顔を思い出した。
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