出店が並んでいる通りに折れて、両側に連なるいろいろな出店を冷やかしてブラブラ歩いた。都会で人波に慣れているとは言え、浴衣を着た家族連れや、若い男女がごったがえす祭りの人ごみにもまれると、さすがに頭がクラクラする。喧騒が全身の感覚を襲い、その猥雑さに彼は押し流されそうになっていた。
出店が並んでいる通りに折れて、両側に連なるいろいろな出店を冷やかしてブラブラ歩いた。都会で人波に慣れているとは言え、浴衣を着た家族連れや、若い男女がごったがえす祭りの人ごみにもまれると、さすがに頭がクラクラする。喧騒が全身の感覚を襲い、その猥雑さに彼は押し流されそうになっていた。
金魚すくいの夜店のオヤジは、何本目かのタバコを足でふみ消すと、なみだ目になりながら訴えた。
「おじさん。もうちょっとだけお願い。もうすぐ勝負がつくから・・・・・・」
たくさんの人だかりを後ろにつけて、水槽の中を逃げ惑う金魚を金魚すくいのポイで水槽の隅に静かに追い詰めながら、久美子がオヤジに答える。頭にタオルを巻いたオヤジは、祈るように久美子のポイの動きを見つめる。
「そりゃ、何匹でもすくっていいと言ってるけど、あんたらみたいなのは計算に入っていないんだよね・・・・・・」
「そうすよね。お前、少し手加減しろよ」
「なに言ってるの。意地でも絶対に勝つんだから・・・・・・よっと、32匹目。そっちは?」
「28匹かなあ。もうだめかも」
「やっぱり、私の敵じゃないわね」
久美子が斜めにポイを静かに引き上げると、その上には赤橙色の小さな金魚が観念したようにおとなしく横になって乗っていた。様子を見守っていた後ろの人だかりから、久美子が金魚をすくい上げるたびに感嘆のどよめきが一斉にもれる。
「33匹目。どう?」
「29匹!やばい。破れる?…・・・ん、まだいけるか?」
小さめの表面近くを漂う金魚はほぼ獲りつくされて、残るはやや大きめの金魚や小さなコイが水槽を元気に泳いでいた。
The Carpenters-Close To You </object>
この時期になれば、『秋ナスは嫁に食わすな』という、ことわざの由来があちこちのブログで見つかる。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、『秋ナスは身体が冷えるから食べさせるなと言う意味と、うまいものだから嫁に食わせるのはもったいないという意味と二通り伝えられている。また、元来は嫁ではなく夜目であり、ネズミを指したとの説もある。』
とあり、ネットで見かける記述も、どれも同じことが書いてある。しかし、どちらが本当の由来なのかは決着がついていないようだ。
ー最初の説(身体が冷えるから)
これは、「茄子は性寒利、多食すれば必ず腹痛下痢す。女人はよく子宮を傷ふ(養生訓:貝原益軒(1630-1714))」から、嫁の体を案じた言葉だとする説である。これは、もともとは中国の明王朝時代(1368~1644)に書かれた「本草綱目」という書物に「茄性寒利,多食心腹痛下利,婦人能傷子宮。」という記述があることから、貝原益軒が人に注意を促したことを原点としている。未確認ではあるが、中国ではほかにも、 「開本草」という書物には「茄子は、性冷にして腸胃を冷やす、秋に至りて毒最甚し・・・」、「傷寒論」にも「多食すれば子宮を損なう」という記述があるらしい。
また、江戸時代初期の伊勢貞丈も「安斎随筆」のなかで、「子宮を痛めるから、秋茄子は嫁の身体に良くない」と書いているとのことだ。
一般に、夏野菜は身体を冷やす効果があると信じられているようだが、それを裏付ける実験データは見たことがない。ちなみに、貝原益軒は「菜譜」という書物の中で、きゅうりについて「これ瓜類の下品なり、味良からず、かつ小毒あり」としている。どうやら、食べ物は必ずしもすべて身体にいいわけではないらしい。
ー2番目の説(嫁に食わせるのはもったいない)
この説の根拠とされるのは、夫木和歌抄に詠われている「秋茄子わささの糟に漬けまぜて 嫁には呉れじ棚に置くとも」という和歌のようだ。早酒(わささ)とは新酒のこと。夫木和歌抄:(ふぼくわかしょう)は鎌倉後期(1310)の私撰和歌集であり、嫁を憎む姑の心境を歌ったうたで、姑の心境は核家族化して嫁と姑の関係が希薄化した今も変わるところがないようだ。女性の基本的な心理を的確に表している。のかもしれない。
この2つの説の元になっている書物を単純に年代だけを比べると、どうやら、「嫁に食わせるのはもったいない」の方が古く、こちらに軍配があがりそうである。和歌は四季の美しさを詠む公家の文化であった。その後、応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化を促した。室町時代には、惣村の成立や都市の発達により庶民が文化の担い手になってくる。このような経緯で、庶民に「秋茄子わささの糟に漬けまぜて 嫁には呉れじ棚に置くとも」の和歌が広まったと考えられる。一方、養生訓は儒教と中国医学とを修めた貝原益軒が、江戸時代の庶民のために書き下ろした生活習慣病と老化予防の本である。
「飲食は身を養ひ、ねぶり臥すは気を養なふ。しかれども飲食節に過れば脾胃をそこなふ。ねぶり臥す事ならざれば、元気をそこなふ。」
この養生訓の中の一節の意味は、食物は体を作り養う、睡眠も生きてゆく上で必要不可欠なことである。しかし、飲食も休養も睡眠も、ほどほどに節制が必要である。過ぎたるは猶及ばざるがごとし。---とこのように、基本的には食物に対してポジティブなスタンスである。
「茄子、本草等の書に、性好まずと云。生なるは毒あり、食ふべからず。煮たるも瘧痢(ぎゃくり:急性下痢)傷寒(しょうかん:高熱疾患)などには、誠に忌むべし。他病には、皮を去切(さりきり)て米みず(しろみず:米のとぎ水)に浸し、一夜か半日を歴(へ)てやはらかに煮て食す。害なし。葛粉、水に溲(こね)て、切て線条(せんじょう)とし、水にて煮、又、みそ汁に鰹魚(かつお)の末(まつ)を加へ、再煮て食す。瀉を止め、胃を補ふ。保護に益あり」
子供の頃、食卓に出たナスは、味がない事からおいしいと思って食べた事はなかった。ナスのからし漬けやぬか味噌漬けの味がわかったのはいつからだろう。当時、ナスの色素は、アントシアン系の「ナスニン」という色素であり、アルミの化合物であるミョウバンを使うと紫に近い明るい紺色、鉄分を含む釘などを使うと青みの強い色に漬物が仕上がるという記述を読んで、薬品を使うことに対しての抵抗感からナスに対する嫌な印象を抱いていたのかもしれない。
この記事、最後はどうやってまとめようかと苦心している。オチを思いつかないのだ。ナスだけに「オチはなす(なし)」なんてオチは、ナスにしてねと読者から前もって釘をさされている。もうそろそろ、ナスの旬を過ぎてしまいそうな時期なので、だれかに助けてもらいたい。だれか、ナス(ないす)なオチ」があったら、コメントをくれないだろうか。というオチは、ある女性から頂いたのだが、どうだろう。
秋ナスを嫁に食わせるのはもったいないという言葉からすれば、それ以上のオチはないような気もするが・・・・・・。
父親の役割ってなんだろう。家族のあり方が多様化している現在、一律的に父親の役割を論じることは難しいのだが、少なくとも従来は母子のように密着した関係を維持する役割ではなく、子どもの社会化を支援し人生の良くも悪くも手本となることだとされてきたように思う。しかし、厳格な父親は減り、子ども中心に物事を考え、母親と子どもの関係の延長線上にいる優しい父親が増えているし、そういう存在である事を要求される世の中になってきている。
女性の就業、社会参加の機会の多い現在の社会では、父親の積極的育児参加が必須であり、父親の役割に母親の役割をオーバーラップすることも必要になってきているのは間違いない。しかしながら、子離れ、親離れのできない母子癒着や、育児ノイローゼ、また、家庭内暴力などの問題行動や心身症を発生させる家庭が増大する現状をみると、どこかが間違っているのかと疑わざるを得ないのも事実だ。
6歳の少年サーニャは、生まれる前に父を戦争でなくしている。彼が、生涯、父親と呼べる人間と共に暮らしたのは、6歳のごくわずかな一時期でしかない。しかし、そのわずかな時間で、彼は父親と呼べる男から、多くのことを学ぶ。人生を送る上で大切な事柄だ。
子供のけんかに親が出て行くのはなんと言っても卑怯だ。今の日本では、これが普通に行われる。いじめにあって死んだりでもしたら大変じゃないかという。だから、子供をいじめるやつらを、今度は保護者達が集団でいじめにかかる。いじめられたいじめっ子は、さらにいじめられっこをいじめる。いじめのダブルスパイラルだ。どこかで、断ち切らなければならない。当然、大人がいじめをやめればよい。
親として必要な事は、いじめっ子を矯正することではなく、子供がいじめ社会で生きていく勇気や知恵を授ける事だ。それには、こどもの喧嘩に立ち会うことも必要な場合がある。手出しはせずに、喧嘩に勝つまでやらせる。子供は、親の視線を感じて勇気を出す。「けんかしちゃダメよ」はオンナ・コドモに任せておけばよい。
人間と言うものを教える事。いじめっ子は必ず集団化する。弱いからつるむ。その連中に、相手が動けなくなるまで徹底的にやるという姿を見せれば恐くなって絶対にやってこない。堂々としていれば向こうは喧嘩を売ってこないのだ。ただ、向こうの土俵で戦うことになれば、何をされるかわからない。集団はエスカレートする。呼び出されたなら、イマスグそこで堂々とやることだ。
サーニャは、それなりに腹のくくりかたを覚える。そして、父親どおしの喧嘩に発展した時に、卑怯と思えるような手を使って相手をぶちのめす父の姿を見る。これが喧嘩のやりかたなんだ。鼻血をはでに出して戦意を喪失した相手は、最初の威勢はどっかに行ってしまっている。
父親が、卑怯な男であろうが泥棒であろうが、子供が人生を学ぶ上で父親の存在は大きい。サーニャが妊娠中絶に失敗して死んだ母親の敵を討ったのは、ごくほんのわずかの期間に父親と呼べる存在であった男の人生を乗り越えた時だった。この先、彼がどんな生き方をしていくのかはわからないが、少なくとも、「けんかしちゃダメよ」とオンナ・コドモのような事は口にすまい。彼は、人生を生き抜く勇気を男から与えられたのだから。
この歳になればもう、「Let the world wag.(世間なぞどうにでもなれ)」と開き直るものだが、それでも、「友達欲しいなあ・・・」なんて本気で思ってしまう映画だ。世間の垢にまみれた心が洗われるような爽快感。ちょっと前の歌なら、<ぼくのこころの柔らかい場所をキュっとしめつける>そんな映画だった。
4つのオムニバス形式の映画。それぞれのエピソードをどうつなげていくかは、まさに脚本家の腕のみせどころだ。お隣、韓国で2001年に公開された『子猫をお願い』では、種々の事情により1匹の子猫がたらい回しにされるエピソードで5人の20歳の女の子達のそれぞれを描いていた。そして、この映画は、スタイルが違う筈の16歳の女の子4人の誰が履いてもぴったり合う不思議なジーンズを通して彼女たちのひと夏の成長を描いている。4人は初めて生まれて始めて別々の場所で夏を過ごす事になり、魔法のジーンズを送りあって順番に履き、その時の出来事を記録しあう約束をしたのだ。それぞれの思いを載せて旅をするジーンズは、別々の場所にいても4人がいつでもつながっていることを示すラッキーアイテムだ。どんな時でも自分のことを分かってくれる友達がいる。そのことに勇気を与えられて少女達は大人になっていくのだ。
原作は、2001年に出版され世界30カ国以上で翻訳されている大ベストセラー小説「トラベリング・パンツ」(THE SISTERHOOD OF THE TRAVELING PANTS)。
彼女たちのルールはこうだ。
ルール1 ひとりが使う期間は一週間
ルール2 はいている時は鼻をほじらない。 ちょっと掻くのはよし。
ルール3 すその折り返し禁止
ルール4 シャツのすそをジーンズに入れるのも禁止
ルール5 次の人へ送るとき、出来事を詳しく書いた手紙をつける
ルール6 再会した時に、 ジーンズにその出来事を書く
ルール7 自分で脱ぐ
ルール8 絶対洗わない
ルール9 はいている間は体型を気にしない
ルール10 ジーンズは“愛”
ルール11 緊急事態なら、順番に関係なく必要な人を優先させる
But, Tibby...
...the pants have already worked their magic on me.
They brought me to you.
I want you to do something for me.
4人のうちの1人は、ある事情をかかえて生きている女の子と過ごす。彼女はその子から、他者を"理解する"大切さを知り、社会に対するいらつきや反抗心を克服する。魔法ジーンズを履いたその女の子は、魔法が効かなかったとする彼女に「魔法は効いた。だって、あなたを連れてきてくれた」。このパートの彼女もキュートで、彼女の感性は好きだなあ。友達になってほしいなあ。
彼女の手紙には文末にお約束のos xs(hugs and kisses)。こんな手紙もらってみたいなあ。
女の子のメッセージ
wearing a price sticker on your forehead probably makes you one too.
おでこに値札のあなたも仲間ね
You know, I don't know, Tibby.
どうなんだろう
Maybe the truth is there's a little bit of loser in all of us, you know?
結局誰にもダメなところあるよね
Being happy isn't having everything in your life be perfect.
幸せは大きく成功した時より
Maybe it's about stringing together all the little things...
ちょっとした時に感じるもの
... like wearing these pants...
このジーンズをはくときや
... or getting to a new level of "Dragon's Lair"...
ドラゴンレイヤーで次のレベルに進む時
... and making those count for more than the bad stuff.
後悔せずに前向きになれるとき
Maybe we just get through it...
なんとかがんばる
... and that's all we can ask for.
それでいい