tetujin's blog

映画の「ネタバレの場合があります。健康のため、読み過ぎにご注意ください。」

深夜のベニスの片隅で迷子

2012-02-22 21:57:50 | プチ放浪 都会編

 

モスクワからの乗継便は出発が30分遅れ。ベニス(ヴェネツィア)に着いた飛行機は、機内に拍手が巻き起こるほどのあざやかなランディングを披露してくれたが、到着は23時に近い時刻だった。
イミグレーション、つまり入国審査。パスポートコントロールは、官僚的なロシアのそれと比べるとあっけないくらい簡単だった。EU圏内以外の窓口に並びパスポートを提示する。
普通なら渡航目的などの質問があるのだが、なぜか1つも質問されることなく通過。まあ、夜も遅いし・・・。

さて、宿はネット(budgetplaces.com)で予約したホテル。6泊で245.54?。1泊5,000円ぐらい。
宿のHPでダウンロードした地図は非常に簡単だ。Padanaという広い通り沿いにある。空港から直線距離で10.1km。
空港を出て、さて、どうしたものかと迷っていると、タクシーの運転手が声をかけてくる。
ホテルの地図を見せて道を聞くと、ブスで”なんとかローマ”に行って、そこからまたブスとのこと。
この親切さはさすがにイタリア人だ。なつかしいなあ。「ブス」の発音を聞くのは・・・。

さて、”なんとかローマ”って、ローマ広場のことだろう。空港から“ヴェネツィア・エア・ターミナル”のシャトルブスで20分ほどでローマ広場へ。
ローマ広場からブスの乗り換えは簡単だった。チケット売り場に行ってホテルの地図に書いてある地名を言い、乗ったブスでは運転手にその地名のバス停で降ろしてもらう。もう、深夜を回って1時に近い時間だ。それでも、終バスに近いブスは何本か走っていた。

バス停で降り、地図に従って広い通りを歩いていく。深夜の人通りのほとんどない道を歩いていく。
深夜のひっそりとした住宅街を歩いていく。・・・歩いていくにつれ、どんどんさびれた雰囲気になっていく。・・・ん?迷子になった?
途中にあったBarで道を聞いたのが間違いだった。地図を見せるとあれこれひっくり返しては、酔っ払いどもがあーでもないこーでもないと議論している。

地図をひっくりかえしちゃだめでしょ。
・・・女性って、地図を読むのが苦手っていうけど、芸術に理解が深い右脳が発達したイタリア人も地図をひっくり返してみるんだ!
方向音痴にありがちなのが「勘」での行動。ダリの不思議な時計がまた、頭の中を泳ぎ始める。
「たしか、こっちの方向にホテルがあったはず」
Barで飲んでいた十人ぐらいのイタリア人たちの支援を受け、紙ナプキンに手書きしてもらった新しい地図を片手に、再度、深夜の道に足を踏み出したのだが、どうにも方向が違う。っつうか、描いてもらったフジテレビのマークのような地図は、かなりいい加減。
生存をかけた人間の動物的な勘だ。・・・酔っ払いたちの言うことは間違っている。。

今夜はどこかで野宿となかば覚悟しつつ、たまたまバスから降りて歩いていく通行人に確認すると、反対方向にまっすぐ30分ぐらい歩いた先にホテルがあるとのこと。
ヨーロッパではタクシーは決まった場所にしかいないし、タクシーを呼ぶという習慣はない。そして、30分ぐらい歩いた先というのは、彼らからしてみればごく当たり前の歩行距離。
バゲージが肩から下げるダイビング用のボストンバッグで良かった。キャスター付きのスーツケースなら、とっくの昔に歩くのを放棄していただろう。
その後、通行人の若いお兄ちゃん、道すがらの小さなホテルのお兄さん、ストリートガールなのか人気のない深夜の交差点で歌を歌っていた黒人のお姉さん、ここだろうと思って入った奥深く隠されていたホテルの支配人のおばちゃん、それぞれにホテルまでの道を教えてもらって、ようやく、ホテルにゴールした時は涙が出そうになった。
1時を回って到着した言葉が通じない日本人ゲストを、家族経営のホテルの主人はやさしく迎えてくれた。
翌日わかったことだが、降りるべきバス停は、降りたバス停よりもずっと先のブス停:fermata dell'autobus(フェルマータ デッラウトブス)だった。。・・・orz


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アエロフロートに揺られて

2012-02-21 21:58:49 | プチ放浪 都会編

 

欧州へのアクセスにアエロフロートを使うのは、30年も前の学生旅行以来だ。
正確にいうと、貧乏な学生だったこの時は、ロンドン行きがタイ航空で、パリからの帰りが就航したばかりの北回りのアエロフロートだった。
当時のアエロフロートは機体が古くて、床がめくれて下の機械室が見えるとか、窓が割れていて風が吹き込んでくるとか、機内食が激マズだとか、CAが無愛想すぎるだとか、墜落事故時の遺族への補償がほとんど出ないとかで、飛行機代の安さが取り柄だけの評判は最悪の航空会社だった。
当時のその機体はイリューシン62(Ilyushin IL62)。旧ソ連製。長距離路線用で座席は3-3のナローボディ。離陸の際は、甲高いエンジン音が機内に響き渡り、思わずヾ(・ω`・o) ダイジョウブ?となる飛行機だった。
機内の荷物の収納棚は小さく、座席にはモニター画面は勿論、オーディオ装置もなかった。座席の間隔がタイ航空のエアバスと比べてやや広かったのが救いだった。
ただ、パイロットの腕前は空軍出身だけあって上手な人が多いとの評判だったし、機内食はキャビアが付いてて、貧乏学生にとって立派な食事だったように記憶している。

さて、いまのアエロフロート。あいかわらず欧州のアクセスに料金も安いし、フライト時間も短いのでいまも魅力的だ。だいぶ前にチケットを予約したのだが、他の航空会社と比べてチケットともに海外諸税もかなり安い(112,050円(燃油込))。

成田からモスクワまでの機体は、エアバスA330。ワイドボディ旅客機。
さすがにもうあの旧ソ連製の機体は飛んでいないようだ。ロシアを含めてヨーロッパは運命共同体のような雰囲気になって来た感じがする。
機内食はそこそこ。日本で調理されたチキンか白身の魚のメインディッシュを選べ、それにサラダとスィーツがつく。
矢口史靖監督による「ハッピーフライト」では、ファーストクラスのデザートを駄目にしてしまった時、CAたちはありあわせの材料でケーキを作って乗客に提供するというシーンがあり、調理に電子レンジが使われていたように思う。そのイメージから、旅客機には大人数のメインディッシュを一度に加熱できる強力な電子レンジが装備されていると思っていたが、食器のカバーはアルミ製。だから冷凍した機内食の加熱は、電子レンジじゃなくて大型のオーブンで行っているのかもしれない。(この推測が間違っていたら、航空機ファンの皆様ゴメンナサイ・・・)。
フライト中、CAが一生懸命片言の日本語でいろいろアナウンスする。

各座席にはモニター画面が付いていてオンデマンドの映画が楽しめるのだが、ぼくの席のモニターは故障中。システムが立ち上がらずに起動を繰り返していた。・・・やっぱりね。。
映画を諦めて、座席に備え付けのUSB端子にiphoneをつないで音楽を聴こうとしたら、USBケーブルは、なんと預けたラゲージの中だった。
・・・こんな時でも相棒のカメラがあれば何時間でも暇をつぶせる。・・・no photo , no life.
幸運だったのは座席が窓側だったこと、そして隣が話好きな若い女性だったこと。
隣の席に座ったキエフ出身の美人は大阪の商社の通訳だった。きれいな日本語で、暇を持て余していたぼくの相手をしてくれた。スラブ人たちは体が妙にがっしりとしているように見えてなんだか怖いのだが、若い女性はめちゃくちゃ魅力的だ。

厳寒のモスクワからベニスへのトランジットでは、 念願のイリューシン(IL96・・・たぶん)。・・・座席にはやっぱり何もない。
ベニスのマルコ・ポーロ国際空港へ着陸するため、滑走路上まで降下しタッチダウン寸前。だが、なかなか車輪が地面に着かない。機体はランディングのスレスレのところで、滑走路に対して水平に飛んでいた。
パイロットはエンジンの出力を下げて逆噴射をし、さらにフライトスピードをダウン。そして、ほとんど衝撃を感じずに滑走路にタッチダウン。その瞬間、数名のロシア人旅行客たちが一斉に拍手。スラブ人たちの、このノリは今も健在だ。
機内にはイタリア到着をを意識してか、エンニオ・モリコーネの「夕日のガンマン」のテーマ曲が流れる。
・・・って、クリント・イーストウッドってWOPS(イタ公)じゃなくてヤンキーじゃね?
(差別用語です。はしゃぎすぎました。ごめんなさい)

「アリガトゴジャマスタ」
CAたちに見送られ、ついにベニス。。


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笑顔のおすそわけ

2012-02-20 22:43:59 | プチ放浪 都会編

 

ちゃお。
笑顔でイタリアから戻ってきました。

ベニス(ヴェネツィア)のマスクカーニバル。納得するまで写真を撮ろうと苦しんだ。撮った写真は枚数にして約5000枚。メモリーで10G以上。だが、まだ、まともな作品には仕上がってない。

さて、世界3大カーニバルの一つのマスクカーニバル。
「水の都」「アドリア海の女王」「アドリア海の真珠」ベニスにて、Ash Wednesdayの2週間前から行われ、Shrove Tuesday に終わる。今年は11~21日まで。
サンマルコ広場を中心に、街中が仮装をしたマスケラとそのマスケラを囲む世界中からの観光客で連日にぎわった。

このベニスのマスクカーニバルは、ベニスの古い名であるセレニシマ共和国の1162年のアクイレイア総大司教ウルリコに対する勝利を祝ったものといわれる。人々はサンマルコ広場に集結し、ダンスに酔いしれた。

・・・と物の本には書かれているのだが、カーニバルは、冬から春になるという区切りをつけるための祭だ。ローマ神話におけるバッコ(酒の神)への収穫祭のようなもの。より神に近づくために仮面をつけ、ベニス以外の各地域でも祭りは存在していたようだ。
カーニバルをオフィシャルなイベントとしたのは、1296年、イースターの前日。当時、ベニスを治めていた第49代ドージェPietro Gradenigo(ピエトロ・グラデニーゴ)による。

1204年、第4回十字軍とともにベニスの艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノポリスを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となる。
その後、15世紀にかけて、世界に君臨したベニスの勢力はピークに達し、富と権力を掌握していた貴族たちはこの祭りを楽しむ。祭りで仮面を着けるのは、貴族も平民も関係なく祭りを楽しむためだという。
1436年の4月10日。第65代ドージェFrancesco Foscari(フランチェスコ・フォスカリ)によってmaschereri(マスケレーリ:仮面職人)が専門職として確立。.
以後、退廃的で秘密に満ちた遊びが中世の貴族のニーズにマッチしたため、仮面で踊るマスカレードは、ヨーロッパの宮廷で広く普及し貴族の代表的な遊びのひとつとなる。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見。貿易の対象はアジアに移る。
アメリカ大陸が発見され、時はキャプテン・ジャック・スパロウが活躍した大航海時代だ。
貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ベニスは東西の貿易の中心から徐々に後退。ベニスの経済衰退とともに、カーニバルも開催が途絶えてしまっていた。
1979年にイタリア政府は、ベニスの文化と歴史を取り戻すため、伝統的なカーニバルを中心に復活させることを決定。今日、カーニバル期間中、約300万人の観光客が押し寄せる。

なお、当時は12月26日から行われていたカーニバルは数ヶ月続いてたそうで、その語源は13世紀のイタリア語(ラテン語)のカルネ・ウァレ(carne vale、肉と別れ)に由来するといわれる。

・・・MASK。ジム・キャリー主演の映画があったなあ。彼は不思議なMASKの力を借りて、ー目惚れしたクラブ歌手、ティナにアタックする。そのティナ役が、当時全くの新人のキャメロン・ディアス。
帰りの飛行機のオンデマンド映画上映で「Bad Teacher」を観た。
映画「旅情」で始まり、「Bad Teacher」で終わったベニス旅行。なぜだか、自分の中ではつじつまが合ってしまっている。

You have some rough road ahead of you
Seventh grade is not your moment.
- Yeah, eighth grade will be better.
Probably not.
I think in college

・・・まあ、世の中そんなもんさ。


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イタリアに行ってきます

2012-02-11 00:00:51 | プチ放浪 都会編

 

明日から一週間、幻想的な水上の都ヴェネツィアです。

イタリア語はまったくできないのでドキドキ。

いろいろ刺激があるだろうなとワクワクしています!

素敵なカフェもいっぱいあるだろうなと・・・。

運河を渡る風に一週間吹かれてきます。

君は空を見てるか 風の音を聞いてるか 
なんてね。

では、いってまいります!ちゃおー。。


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横浜西洋館

2012-02-10 23:38:40 | 港町 YOKOHAMA

 
 

ブラフ18番館と外交官の家。
山手イタリア山庭園にあるブラフ18番館は、横浜市中区山手町45番地に建てられた外国人住宅だ。戦後はカトリック山手教会の司祭館として1991(平成3)年まで使用された。
一方、外交官の家は、1910(明治43)年に外交官である内田定槌氏の邸宅として、J.M.ガーディナーの設計で東京渋谷に建てられたもの。
第二次世界大戦までに建設された西洋の建築様式を「西洋館」と呼ぶんだそうだ。外国人の住宅が異人館。だから、ここ一帯は「横浜西洋館」。
山下公園の「赤い靴」の印象から、ずっとこの山手本通り沿いの西洋館を「異人館」だと思っていた。
恰好のデートコース。
学生の頃から、数十年・・・。この町でデートしたことは・・・なかったが、きっと、ヨコハマに彼女がいたら「異人館に行こうよ」と誘っていただろう。
んで、正式な名称はちげーよと指摘されていたに違いない・・・orz。


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