喜多方市岩月町宮津勝耕作、郊外の三津谷集落ある「若菜家」の煉瓦蔵群で一際目を惹く佇まいが、4万2500個もの煉瓦を使った三階蔵。大正5年(1916)の建造です。
四棟の煉瓦蔵はそれぞれにアーチ型の窓や入口などデザイン性に優れており、これらを設計建築したのは、東京で修行をし当時の最先端の技術を学んだ、喜多方市出身の煉瓦師『田中又一』。 三津谷の登り窯で焼かれた美しい総煉瓦造りの蔵は、それぞれ細かいデザインが違い、田中又一の設計技術の高さを物語っています。
敷地の通り沿いに南北棟で建つ平屋建、瓦葺の煉瓦座敷蔵、通り側に半円アーチ窓を二基設けています。若菜家煉瓦蔵は「喜多方市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物」の一部として、経済産業省の近代化産業遺産にも登録されています。
道路に面した一画に建つ煉瓦蔵
そしてやっぱり!「ラーメンと蔵の街:喜多方」😆
『樋口市郎』が生み出した喜多方煉瓦は、表面に釉薬(うわぐすり)をかけて焼成した釉薬煉瓦(ゆうやくれんが)。冬の寒さが厳しい会津の凍害を防止する目的で、釉薬をかけたもので、薪を燃料とした登り窯で焼かれるために、酸化や還元、窯の温度、施釉の濃淡、窯の冷える速度などの違いで出来上がりの色が微妙に変化し、それが喜多方独特の風合いを生み出しているのです。
レンガを、土木工事ではなく、建物にも使うことを推奨したのは明治14年(1881)に岩月村に生まれた『田中又一』。12歳で煉瓦師に憧れ、東京へ出て清水組のお抱え煉瓦師のもとでレンガ積みを学び、明治33年、喜多方に帰郷。明治35年、故郷の喜多方で木造骨組の外側にレンガを積んだ岩月尋常小学校を建築。これが喜多方のレンガ造建物の主流となる煉瓦が木部とかみ合う「喜多方式木骨煉瓦造」の始まりとされています。
本来は鉱山のトンネル、鉄道の橋脚用に焼かれた煉瓦ですが、それを住宅や蔵などに転用。その美しさの秘密は、独特の釉薬煉瓦にあります。喜多方市岩月町宮津火付沢にある「三津谷登り窯」。明治23年に製瓦業として創業した古い歴史を誇る登り窯で、その後、煉瓦の焼成にも使われ、喜多方の煉瓦産業を支えた窯となりました。
当初は7室(段)でしたが、現存する窯は大正時代に築窯された十連房からなる大型登り窯。1回に約1万個のレンガが焼成できる登り窯で、煉瓦と瓦を焼く登り窯としては、日本で唯一稼動できるものです。
窯を築いたのは新潟県亀田出身の安田瓦職人『樋口市郎』。若喜商店冠木家に住み込みで働きながら、原料の粘土と燃料の赤松が大量に得られる火付沢(三津谷)を見出し、瓦を焼く登り窯を築き、凍害対策として灰汁を釉薬に使用した瓦を生産。瓦で培った技術を煉瓦に転用し、オリジナルの釉薬煉瓦(ゆうやくれんが)を焼成する「樋口煉瓦工場」を創業しました。
三津谷登り窯は、「喜多方市の赤煉瓦製造関連遺産と建造物」の一部として、経済産業省の「建造物の近代化に貢献した赤煉瓦生産などの歩みを物語る近代化産業遺産群」にも登録されています😊。
訪問日:2015年6月20日
こんばんは。
すっかり積もった雪も溶けちゃいました。
電気も水道も何もかも値上がり。
野菜などももちろん。
つらいですねぇ。
二種類の蔵があることを、教えていただきました。勉強になりました。
お礼のため、最後の写真の説明は私にさせていただきます。
「そしてやっぱり!「ラーメンと蔵の街:喜多方」😆」・・貴方の言葉に続けます。
「私はラーメンを完食したぞー」
「TONONEKOが、証人だぞー」
仲良しご夫婦の歓喜の映像です。ご馳走様でした。
降り積もった雪が解けたとは・・
今日はそちらは少しは暖かかったのでしょうか?
最近の野菜の値段
主婦には頭の痛い事ですが、それでも農家の方のご苦労を思うと
贅沢は言えませんね
という歓喜のポーズだったのですが
😅 😅
それはこっちに置いといて~
偏食と断定されましたが(笑)
ラーメン完食しました😁
私の進呈した具材その他諸々を含めて
ご亭主殿も完食しました😁
人目もはばからず・・というか
この時間・・周囲には猫の子一匹いませんでした(笑)