車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

鳥取城跡:久松(きゅうしょう)公園 in 鳥取市東町

2017年03月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・鳥取県

鳥取市東町、県内有数の桜の名所として知られ、鳥取市街地を一望できる城跡公園「鳥取城跡:久松(きゅうしょう)公園」。「日本さくら名所100選」に選ばれた園内、約230本の桜が春の城址を彩ります。

麓に残る石垣、手前には今日の主目的「仁風閣」。今すぐこの堀を飛び越えたい誘惑をグッと抑えて・・ だって私カ・ナ・ヅ・チ・(問題はそこじゃない!)

春の陽気に誘われて・・・とは言い難い薄曇りの中。公園入口からまっすぐ正面にはかって鳥取城があった久松山。その麓は柔らかな桜の薄ピンクに染められ、通路の両脇には派手な原色の露店。それにしてもお昼過ぎだというのに、何とも閑散とした雰囲気。やっぱり土日明けの月曜日と言うのは、行楽には向いていないのかもしれません。人の姿もまばらで、人混みが大嫌いなご亭主殿は至ってご機嫌(笑)

流石にこれだけ閑散としていると嫌な予感が・・・嫌な予感と言うのは存外と当たる物。というより今日が月曜日という時点で気が付くべきだった。

固く閉ざされた門扉、その向こうで取り澄ましたように優雅な姿を見せる白亜の洋館「仁風閣」

鳥取市の訪問、最大の目的の一つが「川六の狛犬」と、この「仁風閣」だっただけに、もうガッカリ感は半端なく (>_< )。門扉の隙間にしがみ付くように写してきた屋根の造形を見るたびに、あの時の切なさが蘇ってきます。

なんで予定を組む時に気が付いてくれなかったのと、ご亭主殿に八つ当たり(-"-) 駄々っ子みたいに門扉にしがみ付いていても開門される筈も無く(笑)、ここは諦めて花見を楽しもうというご亭主殿に促され「西坂下門」を潜り・・

デジカメを向けつつ、それでもやっぱりトボトボと石段を (ノ_-。)

ああ、すぐ目の下に「仁風閣」の建物が・・・

車寄せの屋根と玄関が・・

ついでに(ついでなのか?)鳥取の市街地が(笑)

私の嘆きなどどこ吹く風と、枝一杯に春の装いをこらす桜花。いい加減にダメなものはダメと割り切らなければ、折角の旅の一幕が台無しになってしまう。さぁ、深呼吸(笑)

久松山の山頂部には、中世期の城郭遺構である山上の丸などの貴重な遺構が残されており、山麓には慶長年間より明治に至るまでに整備された二の丸、三の丸などの遺構が残されています。

人混みの無い城址、少々別行動になってもはぐれる事はあるまいと、我が道を行くご亭主殿。気を取り直して、せっせと後を追う私(~_~;)

二の丸三階櫓跡の石垣に残る「お左近(さご)の手水鉢」。右手上方六段目に、穴の開いた石が見えるでしょうか?

「近世城郭としての鳥取城の基礎は、『池田長吉』の時代に築かれました。この時の工事にあたって『池田長幸』夫人の侍女「お左近(さご)」の活躍は目覚ましいものだったようで、このお左近の手水鉢を石垣に築き込んだところ、難工事であった三階櫓も無事完成したという伝説が残されています。昭和三十八年、この「手水鉢」と思われる石材が発見され、三階櫓石垣の修理に際して、元の位置に復元されました。」文化庁・鳥取市教育委員会

二ノ丸背後の山麓は、江戸期の改築時の石切場として用いられていたようで、当時の状況などが詳しく案内板に残されています。

城の石垣を築く為に最も経費が嵩むのは、切り出した石を運搬する為の費用。この打開策として用いられたのが、久松山の尾根を切り崩していく中で得られた石材を用いる事でした。

石切場のさらに奥に『経蔵坊(きょうぞうぼう)狐』を祀る「中坂神社」が鎮座しています。拝殿の奥を見ると確かに石段が続いているようですが、ご亭主殿の助言を聞いて引き返すことに。何事も「ほどほど」が肝心。

城址を後にして駐車場へ。振り返りながら見送るお濠の隅に頼りなさげな花筏が。

鳥取城正面入口に建つ『吉川経家(きっかわつねいえ)』・・・彼が見据えているのは在りし日の鳥取城でしょうか。その歴史の中で最も凄惨を極めた『羽柴秀吉』による天正9年(1581)の鳥取城攻略戦。後に「鳥取城の渇え殺し」と呼ばれた戦略は、それが戦というものだと分かっていても凄惨すぎて目を覆う・・まさにこの世の地獄絵図であったと伝えられています。餓死するもの・・その死肉を食らうもの・・・当時の城主であった『吉川経家』は、自らの命と引き換えに城兵の助命を乞い、開城して戦の幕を引きました。

秀吉はこれより三年前、天正六年の三木城攻略のさいにも同様の兵糧攻めで勝利しています。殺すか殺されるか、生きるか死ぬかの戦いに「綺麗な戦」など有る筈もない。鳥取城陥落の後、秀吉は経家の助命を申し出ていたとも伝えられていますが、事の真偽は勝者が作り出す物。『吉川経家』は城明け渡しの後、切腹して果てた・・その事実のみが確かに残された真実なのです。

訪問日:2012年4月16日

 


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