「中世に、天然の良港で海外貿易港として発展した堺港は、江戸時代の大和川の付け替えにより港の機能が衰退。その後、江戸の商人吉川俵右衛門などの働きで、築港・修理された港が現在の堺旧港の原型です。」堺観光ガイドより
今回の目的は、堺市のマンホールデザインにも採用されている旧堺燈台の実物を見る事。建築は明治10年(1877)。現地に現存する木造洋式燈台としては日本最古の一つで、昭和47年(1973)には国史跡にも指定されています。
建築工事を担当したのは堺在住の大工『大眉佐太郎』。灯部の点灯機械の取り付けは、横浜の燈台寮よりバービエール社の機器を購入し、英国人技師『ビグルストーン』が携わりました。
もともと各地の突端巡りが好きな二人。山とか崖とか・・高いところが大の苦手で、通天閣でさえ満足に下を見るのも怖い癖に(笑)、有名な灯台があると聞くとどうしても行かずにはいられない因果な性分(^^;)
でもこの「旧堺燈台」は普通に地面と同じ高さにあって、下を見ても普通に海が見えるという立地。まるで私のためにあるよう(な、ワケ無い!)。
それはともかく(笑)、こうして間近で見ると、入口や明り取りの窓に施された細かい意匠など、可愛らしいという表現が決して可笑しくない。このまま灯台カフェにしても通用しそうなデザイン。
さらに周囲には人の姿もなく、まるで貸し切り状態。こんなシチュエーション、そうそう経験できるモノではありません(笑) 余談ですが、灯台土台部の石積みは、備前国出身の石工『継国真吉』が携わったそうです。備前国は現在の岡山県南東部。こうした歴史的な建物に故郷の地名が出てくると無条件で嬉しいと思えるのは、やっぱり「忘れ難き故郷」なんでしょうね。
堺を代表する建造物と言っても差し支えないほど有名な「旧堺燈台」。実は町中のそこかしこに見る事が出来ます(笑)
旧堺燈台がある一帯は、堺旧港親水プロムナードとして整備され、他にもお台場跡などの史跡が点在と、見所は一杯。冒頭で触れた江戸の商人『吉川俵右衛門』に関する現地案内など、興味深い内容も沢山。
近くには彼の顕彰碑も建立されていますが・・・これ、知ってて探さないと素通りしてしまうかもしれません。もう少し人目に触れるように出来ないものかと、少々残念です。
顕彰碑の近くには鳥居と、神域を守護される狛犬さんがいますが社殿らしきものは見当たりません。帰宅後に地図を調べたところ『吉川俵右衛門』とは無関係の「天満宮御旅所」と判明しました。
旧堺港北湾戸から港内に突き出た北波止突堤、16mの台座上より一帯を見下ろす女神は【龍女神像】。
明治36年に開催された「内国勧業博覧会」で、平和と繁栄のシンボルとして大浜水族館前に設置され【乙姫さん】の愛称で親しまれてきましたが、1974年の大浜水族館の廃館と共に撤去。2000年に市制110周年を迎える記念事業として復元され、堺の新たなシンボルとなっています。
全身像をもっと間近に捉えようと・・・でも近づき過ぎると下から見上げてしまう為、近未来の巨神像みたいでちょっと怖い・・(^^;)
最期は北波止緑地に建立されていた「幕末の堺港を語る標柱石」。港に出入りする船に注意を促すために建てられたもので、「舟かゝり致間敷内へ乗入可申者也(ふねかかりいたすまじく うちへのりいれもうすべきものなり)」「慶應元乙丑閏五月」と刻まれています。北波止の突堤近くから出土したとの事ですが、こうしたものがきちんと残されていた事に感動を覚えます(*^^*)
訪問日:2009年6月20日
私には一つだけ、忘れられない大切な灯台があります。母の里の出雲にある日御碕灯台です。
シベリアで捕虜になっていた父が帰ってきた時、父と母と三人で行きました。母の中では出雲大社と日御碕はセットになっているようで、大切な出来事がある時、かならずこの2ヶ所を訪れていました。
1. 父が復員したきた時
2. 私が高校に合格した時、
3. 私が大学に合格した時。
2と3は、家族旅行も兼ねていたのだと思いますが、日本酒の特級を抱えて行きました。お酒は出雲大社だけでなく、日御碕にも持っていったと記憶しています。
懐かしい灯台です。貴方のように知識欲があれば、色々なことを調べたのでしょうが、私はただ海を眺め、風に吹かれているだけでした。今になって考えますと、もったいないことをしました。
コメント有難うございます
灯台の景色は私にとっても故郷の風景と重なり
とても懐かしく感じられる場所の一つです。
小さな漁村に育った私は
泳げもしないくせに海が好きで
あの独特の内海の潮のにおいが大好きでした
日御碕灯台も出雲を旅した折に行きました。
故郷の海と違って日本海に面した灯台は
広く青く・・・忘れ難い印象を焼き付けてくれました。