カボチャとゴーヤの苗の区別すらつかない私であり、収穫は運次第
相変わらず晴耕雨読の日々。明日は雨の予報なので、晴れた今日は畑作業を頑張った。しかし、しかし、大変なことに気付き、大変なことをしてしまった。
まず、自家製の種から育てた「カボチャ」が定植してもなかなか大きくならないので、よくよく見たらそれはゴーヤの苗。多分、種の入れ間違え。にしても、ゴーヤとカボチャの苗の見分けがつかない私、ショックだし、ホント、トホホだ。
気付いたからにはと、ゴーヤを他の所へ植え替えた。この時期に種から育てるのは遅く、カボチャの苗を買いに行かなければと考えていたら、ナント、スイカを植えた畑に大きなカボチャの葉が見えた。
ラッキーと思い、スコップで思いっきり掘り上げると、ナント、それはスイカの苗。カボチャに接ぎ木をして、そのカボチャ部分が芽を出していたのだ。再度スイカを植え直したが、ずいぶんと大きく育っていたりで、ぐったりとなり立ち直れない。この一本を失うのはとても大きい。ショックだ。
こんな私が畑作業をしているのであり、十分な収穫が望めないのは残念ながら明白であり、まさに運次第の収穫となっている。
ところで、カボチャについては、今日幸運にもご近所から大きく育った苗を、2本いただいて植えた。これにより、もうずいぶんと大きくなっている2本と合わせて、これでカボチャは十分な収穫が可能と考えている。
今年の夏の畑では、キューリやなすびはもう既に連日収穫し楽しんでいるが、孫たちが楽しみにしているトマトとスイカが上手くいっていない。悩ましい。
畑仕事を頑張った昨日のご褒美は、合歓木の花が美し咲いている畠瀬本店のランチ。13時頃に行ったが、帰る頃までずっとお客さんが途切れない。お店が賑わうと、私まで嬉しくなる。畑仕事の疲れも取れる。
しゃべれるのにしゃべれないその辛さ、場面緘黙にもっともっと理解を!
今日の「読書ルーム」で読んだのは。石川百合子 石川麻利著『負けたらあかん!』。学校などでは一言も喋れない「場面緘黙」という心の病の麻利さんとお母さんの成長の記録。
家では快活に話せるのに、学校などでは喋れない(「喋らない」のでは決してない)苦しさ、そしていじめ、教師からの無理解な暴言、修学旅行などでも一人ぽっち、喋れるのに喋れないその辛さ、読んでいて辛くて涙が流れた。
「死んだらあかん!」「負けたらあかん!」と頑張って、場面緘黙を乗り越えたお二人に、心から拍手を送った。と同時に、場面緘黙にもっともっと理解を、とも強く思った。
外猫から家猫となったハル、抱かれるのを嫌がるようになり評判が悪い
外猫から家猫となったハル。外猫時代とはうって変わって抱かれるのを嫌がるようになり、家族の評判が悪い。
そんな悪評とは無関係にどこでも眠るハル。カワイイから許しているのだが…。ハルよ、孫たちにゴロゴロといって抱かれて。お願い。