21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

北海道5区補選の自公対市民は愚の骨頂

2016-04-13 06:31:12 | 政治にモノ申す

 衆院補選が昨日告示され、メディアはこぞって夏の参院選を占う選挙と注目を煽っている。合併で誕生した民進党に勢いがなく、ろくに党名すら覚えてもらえい現状、さらに北海道5区のように政党色を出さず自公対市民運動の戦いになっているようでは、安倍政権を揺るがす結果には到底ならない。

 そもそも、国政選挙で政党色を隠して(頭かくして尻隠さずの状態ではあるが)、市民運動を前面に出す選挙は詐欺的手法ではないのか。確かに、この国は無党派層が勝敗の鍵を握るが、そこに迎合する市民運動選挙はものすごく矛盾している。なぜなら、日本は政党政治であり、過半数を制した政党、もしくは政党の連合に政権運営が委ねられる仕組みだからだ。つまり、市民運動を語って当選したところで、政党に属さなければ国会で質問すらできない。無所属のままなら法案採決で札を入れるか、起立するだけの存在でしかなのだ。

 かつて、参院には二院クラブという政党があった。これは市民運動家市川房江氏を中心に組織された会派で、いわば憲政史上における市民政党の走りであった。残念ながら、今は市民政党は存在しない。分裂した維新の党や解党したみんなの党も、奇をてらった国会議員の集まりでしかなかった。

 つまり、市民運動を前面に出す選挙は所詮は政党の隠れ蓑でしかなく、見方によれば有権者を煙に巻く行為としかならない。

 一党独裁を阻止し、選挙によって政権交代が可能な政治土壌を定着させるためにも、堂々と政党を名乗り有権者に政策を訴えることこそ、真の政党政治の姿ではないのか。

 世間には政治と宗教の話はお断りという空気が流れているが、すくなくとも政党が宗教団体や暴力団に等しい煙たがられる存在になっているのは政治家が矜持を持たないからではないのか。いつわりの政党政治に一喜一憂しているようでは、いつまでたっても政治家は国民の信頼など得られない。


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