tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

格差問題は社会不安定の元凶らしい

2017年06月25日 11時36分34秒 | 社会
格差問題は社会不安定の元凶らしい
 前回の最後に書きましたように、トマ・ピケティは「21世紀の資本」―現代の資本論などといわれる―の中で、「放っておけば格差は拡大するもの」との考えを示していますが、戦後の世界経済の勃興期(1960年代中心)はその例外と述べています。

 この「例外」の分析は極めて重要と私は感じますが、それについてはまた、おいおい述べるとして、本題の、人類社会の経験として、格差が拡大すると社会が不安定になるという関係については、納得される方が多いと思います。

 戦争や革命の原因は、多くの場合国家間あるいは地域間の格差の拡大や国内の格差の拡大にあるようです。

 格差には色々ありますが、ここで問題にするのは基本的に経済的な格差という事になります。
 経済的な格差でも、大は国家間(以前は宗主国と植民地などもありました)の格差、国内の貧富の格差、それも、所得の格差、資産の格差、場合によっては身分の格差(正規社員、に正規社員などの格差はこれでしょうか)、従業員間の賃金の格差(年功賃金による格差、職務間の賃金格差、能力主義や成果主義による格差、経営トップと一般社員の給与の格差などなど・・・、といった個人レベルのものまで多種多様です。

 前回、自由と平等は対立概念と書きましたが、自由を徹底すれば格差は拡大するでしょう。ではと言って平等を徹底したら、何も面白くないでしょう。「真理は中間にある」ので、さてどの辺りが「認められる格差・納得できる格差か」を探すことになるのでしょう。

 アメリカのトップと平社員の給与格差は、日本のそれに比べてずっと大きいのは多くの方はご存知ですが、いま日本では、アメリカの方向に引っ張られているのでしょうか。年間報酬1億円以上のトップ層が傾向的に増えているようです。

 この問題はマスコミが「何百人を超えた」などと良く取り上げますが、やはり格差拡大には人の目が集まりやすいからでしょう。
 アメリカのような格差社会は日本には似合わないと考えている人は多いと思いますが、許容される「程度」は、社会の文化的背景によって違うようです。

 そして、その限度を超えて格差が拡大すると、社会が不安定になるようです。意識としての不安定だけでなく、それは、経済的な現実の格差、生活の格差を反映して、社会の融和や結束を蝕み、さらに進めば、反社会的な行為、犯罪の増加、総じて社会の劣化を引き起こすようです。

 今、世界で起きている多くの問題の、1つの大きな原因に「格差の拡大」という切り口があるとすれば、格差問題を、もう少し掘り下げてみる必要があるようです。

格差問題への回答

2017年06月24日 15時18分26秒 | 社会
格差問題への回答
 世の中で発生するいろいろな問題を考えるとき、解り易くて便利な方法として、こんなものがあります。
 私は「スペクトラム法」とか「真理は中間にあり」方式とか勝手に名付けていますが、それはこんな方法です。

・先ず、相対立する議論のそれぞれを徹底した極端までもっていってみます。
・そうすると通常、そこでの議論は、その右から左までの広がり(スペクトラム)の中のどこかに「解」があるはずという事になります。
・その点で一致すれば、「それなら『解』がその中間の何処にあるか、<真理は中間にあり>ということで探しましょう」という事になって、議論に無駄がなくなるという事になるはずです。

 例えば、「自由」と「平等」は対立概念です。自由がいいという人は規制などは皆外して自由にやらせろと主張し平等は消えます・平等がいいという人は「何事もみんなに平等に」と主張し、自由はなくなります。

 労使交渉でも、利益は要らない全部賃金に、という主張も、賃金は最低賃金で、後は利益に、はどちらの現実には成り立ちません。

 理想を掲げた原理主義どうしの対立は解決のしようがありませんが、現実の人間社会では双方が折り合って(妥協して)社会が安定して成り立つ点を探し、そこで話をまとめる事が大事でしょう。
 
 概念的に言えば、自由と平等の中間の妥協点として「正義」が定義され、労使の分配では適正労働分配率探しが始まることになります。

 このプロセスを辿ることで、「← →」という逆方向のベクトルが「→ ←」に代わるはずです。ただしこのプロセスも順調ではなく、時に元に戻ろうとする議論になったりします。その時はまた「それだと結論は出ませんよ」と議論を引き戻すことが必要です。

 最近格差問題が議論の的になっています。トマ・ピケティは、放っておけば「格差は広がり続けるもの」と指摘しました。
 以前は世界でも格差が少ない国だった日本でも、最近は格差の拡大が言われ、さらに格差の固定化も言われたりします。

 格差問題に、この方式を活用したらどうなるでしょうか。

「隠すより現る」

2017年06月01日 13時46分38秒 | 社会
「隠すより現る」
 国際情勢の不安定、国内政治の混乱にもかかわらず、さらに、先行き不安からくる深刻な個人消費の伸び悩みにもめげず、日本経済は、国際的に見ても、比較的健全に安定成長に向かって進む様相を見せています。

 日本国民そして日本企業は(例外がないとは言いませんが)真面目に、堅実に自分たちのやらなければならないことをきちんとやっているようです。消費不振にしてからが、日本の消費者の真面目さ、堅実さの表れでしょう。

 そういう意味では、日本の政治家は楽だと言えるのではないでしょうか。こんなこと書くのも、国会で問題になっていることと、いま日本の政治がやらなければならない本当に大事な事との間に大分距離感があると思うからです(例:籠池、加計 etc.)。

 ところで、このブログでは、ポピュリズムのもたらす問題についてはずっと書いてきていますが、理由は、ポピュリズムというのは、「人気のあるものが正しい」という世界ですから、時に大変困ったことも起きるように思うからです。

 「人気」というのは、時に大変浮気なものですから、長い目で見て、「人気のあるもの」と「正しさ」とは関係ないことも、往々にして起こり得ます。
 アメリカは、トランプ大統領を選択しましたが、これもポピュリズムの結果のようで、その後の政治運営はギクシャクです。

 ここで話は本題ですが、トランプ大統領のFBIコミー長官解任から端を発した「ロシアゲート」はニクソン大統領を追い詰めたウォーターゲートを想起させています。今後の事は解りませんが、「隠すより現る(注1)」(ポピュリズムの失敗)でないことを祈ります。

 諺は、時に人間の心理を穿ち、真実を人々に知らせ、世の誤り(ポピュリズム?)を正す効果を持ちますが、最近の日本では、安倍政権に対し「李下に冠を正さず(注2)」がよく言われます。

 真実は知りませんが、籠池、加計共に、知人だから便宜を図ったと多くの人が思っているからこうした諺が持ち出されるのでしょう。
 安倍さんも、その周辺も、疑惑の打ち消しに懸命で、そのようなことは「全くない」といった強い断定的な口調で否定します。
「あった」という人間が現れると、人間性否定まで試みて虚言だとします。

 これも今後の事は解りませんが、「隠すより現る」でないことを祈るばかりです。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  注1:「隠すより現る」あまりしつこく隠すので却って本当だとばれてしまう。    
   注2:「李下に冠を正さず」立派な人は疑われるようなことはしない
 

忖度と諫言

2017年05月21日 12時12分05秒 | 社会
忖度と諫言
 先日も書きましたが「忖度」という言葉がはやります。そしてその使われ方は、あまり良い意味ではありません。長い物には巻かれろといったような意味で、事の是非を問わず、権力者おもねるという態度や行動として使われています。

 もともと忖度というのは「他人の気持ちを推し量ること」の意ですから、決して悪い意味の言葉ではありません。
 それが最近のような「忖度の行き過ぎ」のような使われ方ばかりになるというのは、言葉のせいではなく、人間の精神や行動が怠惰になり劣化して、事の是非を判断しようとしないからでしょう。
 「忖度」が泣いているかもしれません。

 では、忖度でない行動、いわば、最近の「行き過ぎた忖度」の反対語は何でしょうか。ピタリというわけではありませんが、それは「諫言」でしょう。
 目上の者が言うことでも、それが正しくないと判断すれば、「それを諫め、正す」ことです。

 今の社会では、諫言が流行らず、忖度がはやるというのは、下手すれば身の危険があることより、事なかれ主義を選ぶ、つまり、正しいか否かは目上の者に任せ、自分では判断しないという思考停止が一般的なっているということなのでしょう。

 これは大変恐ろしいことのように思います。
 民主主義というのは、一人一票が保障されていて、そうした主体性のある一人ひとりが投票して、その結果の多数で決めるというシステムです。

 その中で、判断を他人(目上の人)に委ねて、自分は判断しない、判断することから逃げる(E.フロム『自由からの逃走』)ような人が増えてくれば、民主主義は簡単に独裁制に変化します。

 こんなことは、本当は誰でも解っているはずです。しかし、ここまで「忖度」という言葉が「行き過ぎた忖度」という意味で使われなければならない世の中というのは、組織の中の人間が、自ら判断することに「より怠惰」になっているからでしょう。

 「諫言」という言葉がマスコミに載るような、健全な社会にするにはどうしたらいいのでしょうか。

フランス大統領決選:マクロン2対ルペン1の大差

2017年05月08日 10時21分40秒 | 社会
フランス大統領決選:マクロン2対ルペン1の大差
 EUは勿論、世界中が気をもんだフランス大統領の決選投票ですが、票が伯仲するのでは、といった予想を裏切り、中道系独立候補、39歳の若手マクロン氏が大差で勝ちました。EUの安定が確保されたことに、先ず敬意を表したいと思います。

 多様な要素が絡まり合っての結果でしょうが、フランス国民が、自分たちがEUの中核であり、EUはフランスにとって大事、また、フランスはEUにとって大事という信念を明確に示したことは、何よりも良かったと率直に思うところです。

 今後、EUの移民政策などにある程度の変化はあるのかもしれませんが、人類社会が分裂でなく統合、融合の方向へ歩み続けるべきだという意思が、フランス国民によって示されたことは、素晴らしいと思います。

 ポピュリズムが支配し、内容や本質よりも、その時々の「人気」や「熱狂」が支配するような傾向が、経済・経営やマネーマーケットだけでなく、政治においてもみられるような様相が、これを機に沈静化し、足の地に着いた良識が主導する雰囲気や思考が、あらゆる場面で主流となるような世の中になって欲しいものだとつくづく思うところです。

「こどもの日」は何をする日でしょう?

2017年05月05日 11時18分49秒 | 社会
「こどもの日」は何をする日でしょう?
 今日は「こどもの日」です、かつては端午の節句、男の子の成長を願い、成長を祝う日でした。3月3日の女の子のための桃の節句と一緒に纏めて、すべての子供のための「こどもの日」として、国民の祝日にしたのは大変結構なことです。

 人間も生物の中の一つの種ですから、種の保存の本能は、生きることの基本行動の中に入っていて、それに人間としての知能、知恵を加えて、「こどもの日」を創設し、その意義づけをするという事になるのではないでしょうか。

 少子化問題が深刻化している日本では、「こどもの日」の意義は、より大きいということになるのかもしれません。
 勿論、子供たちは、お祝をしてもらって、それを楽しんで、喜べばいいのですが、さて、大人は何を考え、何をすればいいのでしょうか。

 そんなわけで、それでは、改めて大人にとってですが、やはり昔からの慣わし通り、先ずは子供の成長を願い、成長を祝うということになるのでしょう。しかし、今では世の中がますます複雑になっていますので、もう少し何か考えなければならないような気もします。

 ということで、改めて考えてみれば、子供たちが健全に成長し、人間として生まれてきたことの意義を満喫できるような環境を整備したいと思うのが「親心」でしょう。
 
 いま、地球上には色々な問題があります。全地球的な問題としてはエネルギー利用と地球環境の問題があります。これには、CO2による地球温暖化の問題もあり、また、放射能汚染対応策では、原発のゴミを10万年先まで岩盤に穴を掘って埋めておくという知恵しかありません。どちらもまだまだ先が見えません。

 さらに、社会的・政治的な問題としては、国際、国内の紛争は絶えません。
 思い出してみれば、私自身、小学生までは、早く兵隊さんになってお国のために戦死することがいいことだと信じ、出来れば軍神になるような死に方をしたいなどと真面目に考えていました。

 そんな世の中を、子供たちがこれから、人生の素晴らしさ、その良さ、面白さを満喫できるような世の中に変えていくのは、親の役割でしょう。
 やっぱり「こどもの日」の本当の意味は、「子供たちが、より充実した人生を送れるような世の中の実現のために『親』が考え、行動しなければならないと改めて気づく日」ということになる様な気がします。

 鯉のぼりや兜や柏餅の経済的負担だけでなく、「こどもの日」は、親にとって、結構重い意味を持つ日ということになるようです。

再び「言葉の重さ」を考える

2017年04月18日 12時12分39秒 | 社会
再び「言葉の重さ」を考える
 先月、言葉を軽く扱う風習がひどくなったと痛感し、「 言葉の重さを考える」を書きました。
 しかしその後も残念ながら、日本国の運営を担当している方々の発する言葉が、あまりにも軽いといった状況が続いてしまっています。

 昔から、「武士に二言はない」と言い、寺子屋では「病は口より入り、災いは口より出る」と教えた日本文化はいったいどこへ行ってしまったのでしょうか。

 日本のリーダーである安倍総理は、流石に、発言を撤回しるようなことにはなっていないようですが、頭の回転がいいせいでしょうか、発言の中には、詭弁に類するようなものが織り込まれたりします。

 待機児童が減らないことについて、子供が増えたという点では「うれしい悲鳴」といった側面もあるという発言があったと記憶しますが、先日は家計学園の関係でしたか、総理の知人だから特区に指定「しない」というのはおかしいという趣旨の発言がありあました。
 理屈はその通りです。

 森友学園関連では、100万円の寄付はしていませんが、したとしても喜ばれるだけで、犯罪にはならないとの発言の報道がされていますが、これは犯罪でなければいいのかと問題を孕むように思われます。

 このところ続いたのは、1つは、復興相の、自主避難は自己責任という発言です。当然後から撤回ということになりましたが、発言の時の切れ方はひどかったようですね。
 つづいて、地方創生相の学芸員は癌、一掃すべきという発言飛び出し、真面目に研究している学芸員たちはさぞびっくりしたことと思います。これも撤回陳謝となりましたが、一体こんなことが起こるのは何故なのでしょう。

 言葉がなければ人間は論理的な思考ができないと言われます。言葉は人間が合理的な知性(理性)を持つために、何万年もかけてが作ってきたものでしょう。
 本来、文字がない時代は言葉が重要だったと思います。日本は文字については(アイヌやインデアンなどと同じように)遅れた国でした。そのせいか、口から出る言葉に、大きな意味を置いてきたように思います。(「インデアン嘘つかない」というコマーシャルもありましたね。)

 文字が使われ、記録が出来るようになっても、日本人は、瞬間的に消え去る言葉を大事にしてきました(今は言葉も記録され消え去りませんが)。これは美しいことです。
 言葉なら記録されても後から撤回すればいい、というのは、不正なカネでも後から返せばいいといった最近の風潮にも似ているようです。

 「恥の文化」と言われた日本文化が、「恥知らずの文化」になるような事態を本気で恐れています。

リーダーとフォロワー論、その後

2017年04月16日 11時35分21秒 | 社会
リーダーとフォロワー論、その後
  Gooブログの編集部から、いつもご親切に、「1年前の記事」ということで、「1年前、こんなことを書いていましたよ」というお知らせが来ます。

 何時もあまり気にしないのですが、たまたま、昨年の4月13日に、「 リーダーとフォロワー」というテーマで書いていました。書いていたのは、私の持論でもある「リーダも大事だが、フォロワーが確りしていないとうまく行かない」そして「日本人はフォロワーとして素晴らしい資質を持っているのではないか」ということでした。

 札幌農学校のクラーク先生も、太平洋戦争後のアメリカの対日政策も素晴らしい結果を残したことを上げて、「相手が日本人だったから大成功を収めた」のではないか、「日本人はフォロワーとして素晴らしかった」のではないかという趣旨でした。

 最近も、いろいろなリーダーが、いろいろな事をやり、マスコミが報道してくれて、リーダーとフォロワーのそれぞれの組み合わせの事例を示してくれています。

 世界で最も注目されていうのはトランプ大統領でしょう。フォロワーであるアメリカの国民のフォロワーシップはどうでしょうか。国論を2分した大騒ぎの選挙でしたが、フォロワーも少し落ち着いてきたようです。
 リーダーも割と気軽に主張を変更しながら、リーダシップとフォロワーシップの歩み寄りが進みつつあるようで、今後もうまく行くのかなと思いつつ見ています。

 隣の韓国では、どういうわけか、歴代のリーダーには往々悲劇が訪れ、リーダとフォロワーの関係は、なかなか巧く行かない様です。
 
 日本に戻って、東京都のリーダーだった石原慎太郎氏はどうでしょうか。個人的には腹心のフォロワーもいたようですが、問題が起こってみると、都庁や都民の本当の意味での良きフォロワーシップを引き出せなかったように感じられる昨今です。

 安倍政権はどうかと言いますと、「決める政治」を標榜して、リーダーシップを確立し、フォロワーを引っ張って行こうとしているようですが、どうも、フォロワーとして素晴らしい素質を持っている日本人の本来のフォロワーシップを引き出せていないようです。

 トランプさんのような柔軟性もないようで、言い出したら、いつまでも自分が正しいと主張するようではフォロワーシップは生かされません。

 優れたフォロワーシップの資質を持つ日本人国民のリーダーですから、そのフォロワーシップを十分に活用できるような柔軟さがあれば、日本も、もう少し良くなっているのかな、などと思ってしまうところです。

 国際、国内、自治体、会社、職場、いろいろなところで、リーダーとフォロワーの関係を分析してみると面白いし、何かの役に立つのではと思っています。

日本の人口問題、将来予測も逐次改善

2017年04月11日 13時51分16秒 | 社会
日本の人口問題、将来予測も逐次改善
 昨年10月に総務省は平成27年の国勢調査の結果を発表しましたが、国立社会保障・人口問題研究所は昨日、それをベースにした50年後(2065年)の日本の将来人口推計を発表しました。

 マスコミが揃って取り上げているのはいわゆる「中位推計」で、それによりますと50年後の人口は8808万人で高齢化率(65歳以上人口の割合)は38.4%(2015年現在1億2709万人、26.6%)ということです。

 これは前回の推計(推計は国勢調査に合わせて5年ごと)より大分改善しています。
 推計には合計特殊出生率や平均寿命などの要因を予測して計算するわけですが、改善の主要な要因は勿論、このブログでも折に触れて書いていますが、 合計特殊出生率の上昇です。

 前回の推計では合計特殊出生率は1.35人ベースでしたが、今回は1.44人がベースです。勿論上記研究所は中位推計のほかに「高位推計」「低位推計」も発表していて、ちなみに並べてみますと、3つの推計の合計特殊出生率と人口と高齢化率は、
高位推計  1.65人 9490万人 35.6%
中位推計  1.44人 8808万人 38.4%
低位推計  1.25人 8213万人 41.2%
という事になっています。高位推計では安倍政権の目標、人口1億維持に近づきます。

 過去の動きを見れば、合計特殊出生率は、2005年の1.26人、いわゆる「1.26ショック」を底に回復に転じ2015年には1.44人まで回復していて、これには波はなく一貫して上昇基調です。という事は、これは日本社会全体が支えている傾向と考えられ、今後も上昇の可能性が大きいと予想されます。

 人口推計は50年先を見ているのですが、足元の10年で、合計特殊出生率は0.19人上昇という事です。マスコミ論調では、まだまだ高齢化の深刻化といった意見が多いようですが、そろそろ発想を変えてもいいのではないでしょうか。

 折しも、今年の春闘では、労使が共に 高齢化問題を克服、プラスに変えよう、という主張をしています。
 日本人のバイタリティーを、一方で出生率の改善に、もう一方で、人口減でもより豊かな充実した社会の建設に積極的に活用すべく発想の転換をしていくことが望まれる社会なってきているようです。

 社会の豊かさ、快適さは、経済成長によって可能になります。一人当たりのGDPが順調に増えることが、元気な社会を作り、人びとは将来に希望を持ち、結果的に出生率も改善するといった方向を日本人が望み、その方向に動き出しているように見受けられます。
 人口、経済、社会、前向きな発想に切り替える時期が来ているのではないでしょうか。

組織風土と忖度、あまりに日本的な?

2017年04月05日 13時03分16秒 | 社会
組織風土と忖度、あまりに日本的な?
 最近「忖度」などという難しい言葉がマスコミにも結構頻繁に登場し、日本人の国語力の向上に貢献したなどといわれます。

 この言葉が使われた事件そのものが良く解らない事が多く、この言葉も何か後ろ暗いイメージで使われているようです。
 然し、本来「忖度」は日本人に特有な人間関係(人間と組織の関係)の在り方を表すもので、他者の思いを理解する意味を持つ美しい言葉ではなかったでしょうか。

 忖度を、和英辞書で引けば surmise と出てきます。推測、推量するといった程度の意味で、忖度の意味の深さとは些か違うように思われます。

 忖度とは「他者(通常は目上の人)の気持ちを密かにおもんぱかって(慮って)、人間関係(人間と組織との関係)の平穏や安定を維持しようとする意識(行動)」とでもいう事でしょうか。
 勿論、他者との個人的な関係がもともとですが、所属する組織に関わる問題になると忖度の度合いが一層強くなるのが、よく見られることのように思われます。

 人事管理の教科書に、経営者が「うちは従業員に不満があるといけないからと苦情処理委員会を作ったが、苦情などは全く無いんだよ」と言ったら、どう判断するか?というのがあります。
 答えは「苦情はあるけれども、経営者や上司の意向を忖度して、言えない雰囲気の企業です」といったことになっています。

  今春闘で、 クロネコヤマトでは、労働組合が、経営権に関わるようなことまで要求として発言し、経営側はまともにそれに応えています。過度の忖度は必要なかったようです。
 組織の健全性、風通しの良さにこのブログも感銘して取り上げたところです。

 解っていても、内部からなかなか声があげられない雰囲気、酷ければ「強圧」の世界、ソフトなら「忖度」の世界という事でしょう。
 忖度は、日本人にとっては、本来「美徳」としての意味を持っていたように思います。しかし、忖度が美徳から外れる境目は曖昧で往々行き過ぎるようです。

 コンセンサス社会と言われる日本の中では、個人と組織の関係は、欧米などより組織に重心が偏る気配があります。メンバーがいろいろと忖度してくれれば、リーダーはやり易いことは明らかです。
 しかしそれに安住しすぎると「権力の横暴・腐敗」が始まります。

 そうならないためには、リーダーが、メンバーの意見を常によく聞くことが大事なのでしょう。
 聖徳太子の十七条の憲法の 第十七条に見ますように、昔から、智者・賢人はそれに気付いています。

 「忖度」という言葉が、何か卑しい(いやらしい)感じで受け取られず、本来の「美徳」としての意味で受け取られるような組織や社会にしたいものです。

「教育勅語」昔と今

2017年03月18日 17時39分32秒 | 社会
「教育勅語」昔と今
 森友学園の幼稚園での教育勅語暗唱の様子をTVで見ました。
 私の時代は幼稚園では教わりませんでしたが、小学生の6年間を通して、いろいろな式の度に校長先生が恭しく読む「教育勅語」を、頭を垂れ、周りの生徒(自分も含め)の鼻水をすする音とともに聞き、いつの間にか暗唱できるようになっていました。
 今考えてみれば、「朕惟うに我が皇祖皇宗国を肇むること・・」という出だしは、神話から取ったものだという事は誰でも知っています。

 本当の日本は縄文時代の1万何千年で日本列島に閉じ込められた多様なDNAが混血から純血化し、日本人の原型が作られ、その後中国大陸や朝鮮半島などからの移民の流入があり、「倭国大乱」などという戦いの時代を経て、千数百年前に大和朝廷が誕生するというのが日本の起源だと皆知っています。
 
 現人神であった天皇が、人間宣言をされ、国民の統合の象徴になられ、神話に立脚した日本の歴史や国家観は、合理的なものに置き替わりました。
 教育勅語でよく問題になる「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」も「天壌無窮の皇運」が適切でないという事になったのでしょう。

 勿論「富国強兵」の明治の時代でも(明治23年発布)「教育に関する勅語」ですから、良いことがたくさん書いてあります。 「父母に孝に、兄弟に友に、夫婦愛和し、朋友相信じ、恭倹己を持し・・」誰も文句はつけられないでしょう。

 しかし世の中は往々教えの通りには行きません。総理と籠池氏は「朋友相信じ」かと思ったら、全く違うようですし、籠池氏はどう見ても「恭倹己を持し」ていないようです。
 どう見ても信奉する教育勅語が人格や行動に繋がっていないように見えます。

 1948年に、排除・失効が確認された「教育勅語」が、亡霊のように現れ、今日の政治的混乱の一因となっているのはなぜなのでしょうか。
 亡霊というのは、あくまで亡き者を、人間が意識の中に作り上げているものでしょう。亡霊が恐ろしいのではなく、問題は亡霊を作り出している人間にあることは明らかです。

 宗教の源には、それぞれに神話があるのでしょう。神話は神話でそれなりの意味を持つことは誰も認めるでしょう。しかし、神話を現世に持出すのは、何らかの「意図」があることが多いようです。
 人類が積み上げてきた現代の知識と知恵を、より信頼することの方が、より良い明日を創ることにつながるようです。

「言葉」の重さを考える

2017年03月11日 11時49分41秒 | 社会
「言葉」の重さを考える
 最近、公人を含めていろいろなところで嘘がつかれることが多くなってきているような気がしています。
 アメリカのトランプ大統領は、繰り返しマスコミの報道をFAKE(捏造・嘘)だと言いますが、大統領就任式の聴衆が少なかったというマスコミに対して、過去最大だったという自分たちの数字を alternative fact (互換性のある事実・もう一つの事実)だといったのは「物は言いよう」と面白おかしく取り上げられました。

 トランプさんも、選挙戦最中から今まで、いう事が随分変わってきているようですが、良い方に変わってきているようなので、アメリカの多少安心しつつあるのではないでしょうか。

 日本の場合もいろいろあります。
 安倍総理がオリンピック誘致の際、福島原発の汚染水は湾内で完全にコントロールされている、と発言した時、そこまで言ってもいいのかと、何か言いようのない違和感を感じましたが、その後もいろいろあって、気になり続けています。

 国会審議については、強行採決など一度もしたことはない、という発言もありました。今回の森友学園に関わる発言では、同学園に関する発言の内容やトーンも事件の進展とともに評価から批判に大きく変わってきています。

 アメリカ発の現象が、忽ち日本に入ってくることはよくありますが、この件はそういう事ではないようです。
 日本社会自体の中で、発言がコロコロ変わることが何となく見過ごされてしまう風潮が強くなってきているように感じられて仕方がありません。

 第三者から見れば嘘としか言えないようなことが、本人の頭の中では正当化されているという事は往々あるようですが、いろいろ正当化を考えているうちに、「嘘を言うことは恥ずかしいこと」といった日本の貴重な伝統文化が希薄化していくように感じるのは私だけではないようです。

 「言葉」は、往々その人の本質を表します。法律では、口頭で言ったことはあまり意味がないようですが、それは法律の限界でしょう。
 人間同士の信頼関係がなければ、まともの世の中は成り立ちません。まさに「信なくば立たず」です。法律は「最低限」を規定するものです。

 公人が、「法に触れるようなことはしておりません」などと言うのを聞きます。日本の社会・文化はそこまで落ちたのでしょうか。時は春ですが、何か寒々としてくる世の中です。

クロネコヤマト料金改定の意味するもの

2017年03月08日 11時21分42秒 | 社会
クロネコヤマト料金改定の意味するもの
 過日、ヤマト運輸の労働組合が、今春闘で、 荷受けの抑制を要求するという報道から、これはネット通販時代の社会インフラに関わる重要問題という気持ちを書きました。

 春闘で、労組が経営の在り方にたいして発言をするのは異例かもしれませんが、日本的労使関係の中では、状況に応じてあって然るべきと考えています。
 一方、ヤマト運輸の方も、現状の社会情勢に鑑み、自社の経営・労使関係も十分に考慮したのでしょう、早速に料金改定も含む、対応策を打ち出したことは、評価されるべきでしょう。

 消費者・利用者の方も、それなりに納得するところがあるのでしょうか、極めて冷静に受け止めています。
 業界の巨大リーダーのこうした動向は、業界全体としても、等しく歓迎する所のようです。
 序に言えば、パナソニックが、家庭用宅配ボックスを開発するなど、宅配システムの高度化・先進化を支援するといった動きなど、多面的な前進の兆しがあります。

 自動車や電子・電気機器などの生産に比べ、宅配といった仕事は簡単に生産性は上がりません。残念ながら日本の道は、特に都市の住宅地域では狭いところが多く、駐停車などの規制もますます厳しくなり、利用者の私から見ても、担当者の仕事は激務です。

 担当者の仕事と利用者の利便とは相反の関係にあります。特に宅配の場合は、顧客満足は、担当者の仕事の仕方や態度、その努力にかかっています。相反する関係の解決には双方の折り合いが必要です。

 「お客様は神様」など言われたりしますが、お客様も、担当者も実は同じ人間です。社会全体の持続可能なシステムの在り方を考えれば、矢張り全体システムの最適化を考えなければなりません。

 幸いなことに、日本人、日本社会はそうした思考方法に 大変優れているのです。自分の都合とともに相手の都合も考える「おもいやり」、結果も考えて行動する「先見性」、日本人の行動が往々世界から注目称賛される原因もそこにあります。

 料金改定、配送時間帯の合理化についても、ほとんど異論は聞こえてきません、両方の折り合いをつけやすくする技術革新(宅配box?)なども進化するでしょう。
 行政が自家用車と宅配車両の駐停車規制に差を設けても多分世論は納得するでしょう。

 高速道路も新幹線も大事ですが、宅配便も、考え方によっては、さらに重要な社会インフラになりつつあるのではないでしょうか。
 社会全体の利便性を考えつつ、この問題の今後の進展に注目しましょう。

「人口減少をプラスに!」労使がともに主張:2017春闘

2017年01月31日 10時38分40秒 | 社会
「人口減少をプラスに!」労使がともに主張:2017春闘
 先日、「 ジャパンシンドロームは消えたか?」を書きました。確かに一時の深刻さより改善したように感じています。合計特殊出生率も上昇してきました。街に出ても、ベビーカーと若いお母さんが目立つような気がします。
 
 待機児童問題はいまだに深刻で、保育士の不足も指摘されています。政策が目指す政策が現実になって出生率が上がってきているのですから、何をおいても早急な対策を取ることが中央・地方政府の当然の義務でしょう。何せ出生率という問題は、国の在り方の基本に関わる問題ですから。

 勿論、合計特殊出生率が最低を記録した2005年の1.25人に台から2015年に1.45人に上がっても、人口維持のために必要な2.07にはまだまだですが、この10年で0.2人上昇したという事は、かなりのスピードです。人口問題研究所の中位推計も、数字を改訂して上げてきています。

 まだ当分人口減少、労働力人口の減少は続くとしても、そのスピードは鈍るでしょうし、深刻の度も弱まり、対策も容易になるでしょう。
 「人口減少よりGDP成長が大きければ」1人当たりの豊かさは増えるわけで、その程度の事は日本経済でも十分できるわけで、住宅も余って来るし、満員電車も、交通渋滞の緩和される方向で、悪いことばかりではないと先日は書きました。

 ところで、今春闘に向けての労使の白書「連合白書」(連合)と「経労委報告」(経団連)を見ますと。奇しくも「人口減少をプラスに生かそう」という意向が「共に」出されています。
 人口動態というのは、30年50年のスパンで変化するものだから、人口減少を嘆いてみてもどうなるものでもない。「ここは逆転の発想で突破口を開こう」という事なのでしょう。

 経団連の「経労委報告」は ズバリ副題で「人口減少を好機に変える人材の活躍推進と生産性の向上」」と書き、榊原会長は序文で「飛躍的生産性向上を実現する絶好の機会」と人口減少を前向きにと捉えるのがリーダーシップと経営者の気概を強調しています。

 一方「連合白書」では、冒頭の「春闘の役割と問題意識」の第一項で「超少子高齢化、人口減少が日本社会にもたらす課題」で、先ず人口減少そしてより急激な労働力人口の減少を指摘しています。
 そして現在の雇用の在り方や社会保障制度の問題点を挙げつつも、それに対して「イノベーションがもたらす挑戦」として、AI、IoTを含めたあらゆるイノベーションで挑戦すべきとし、これは労使共通の課題であることを指摘しています。

 連合は、春闘をこうした挑戦への労使の話し合いの場としてとらえ、イノベーションを担うのは人であり、人への投資を課題として企業にその積極化を要請する姿勢です。

 高齢化、人口減少が我々日本人の将来に大きな不安をもたらし、消費の不振(消費性向の低下)に繋がり、それが、経済成長へのブレーキになっていることは明らかでしょう。
 この日本社会の漠然とした、しかし大きな不安に、今春闘では、労使がともに、積極的な挑戦を打ち出し、そこに日本経済・社会の発展の突破口を開こうと考えたことは素晴らしいと思います。

 春闘の中で労使が一致してそれを確認し、政府がそのための環境整備に動けば、高齢化問題も、ジャパンシンドロームも、確実に消えていくことになると確信して(多分、出生率の更なる向上にもつながるでしょう)、先ず労使による積極的な議論の展開、出来れば「労使の共同宣言」なども期待したいと思います。

ジャパンシンドロームは消えたか?

2017年01月14日 12時34分48秒 | 社会
ジャパンシンドロームは消えたか?
 2011年ごろでしたか「ジャパン・シンドローム」という言葉が流行りました。合計特殊出生率が1.26人まで下がり、将来日本の人口は半分以下になり、そこからさまざまな対応困難な問題が発生する、日本の将来は心配だといった内容でした。

 その後、合計特殊出生率の徐々に改善し2015年には1.46人に上昇、その後も強含みのようです。
 同時に、円レートの正常化で日本経済が元気を取り戻したことの効果の方が大きかったのでしょうか、一時の流行後も死語になりつつあります。

 しかし未だこの亡霊が残っている面があるようなのが、公的年金を中心にした漠然とした老後不安の問題です。
 先日触れました公的年金のマクロスライド問題などに代表されるのかもしれません。

 確かに年金問題は、支える人と支えられる人の比率が決定的に影響しますから過去の出生率低下の影響は避けられません。だからと言って、深刻度を増す老後不安で、景気が回復しても、貯蓄ばかり増えて、消費が増えず、経済成長の深刻なブレーキになるほどの事でしょうか。

 人口減少はそんなに大きな問題でしょうか。人口が増え続けなければ、経済成長は出来ないのでしょうか。
 そんなことはありません。人口減少率より経済成長率を高めれば、1人当たりの豊かさは増すのです。

 数字で言えば、人口減少はせいぜい年1パーセント以下です。それ以上の経済成長をすれば、国民一人一人の豊かさは増します。
 もっと身近の表現で言えば、働く人が工夫して生産性を2%上げれば、1%の人口減を支えてなお1%の豊かさの増加が手に出来ます。
 あとは、国民1人当たり増えた1%の豊かさの配分をどうするかです。

 人口減少は悪い面だけではありません。例えば、高度成長期のサラリーマンは住宅の確保に膨大な負担をしなければなりませんでした、次の世代は、その住宅の良さを引き継ぐことが出来、この点では1代前よりずっと楽に住宅確保が可能です。
 超満員だった通勤地獄や、道路事情も、1代、2代前よりずっと良くなります。

 便利なところは大いに活用し、足りない所はすこし頑張れば「平均的には」ジャパン・シンドロームは消えるはずです。

 これからの最も重要な問題は、国民1人当たり増えた豊かさを、如何に適切に配分するか(実はいつの世でも変わらない問題ですが)でしょう。
 これから起きてくる先行き不安、特に老後不安の問題は、決して豊かさの総体の大きさの不足ではなく、その配分の失敗、広く言えば格差社会化によるという事になるのでしょう。

 日本経済が曲がりなりにも成長経済を取り戻す中で、老後不安が深刻化する、あるいは子育て不安、教育負担が社会を不安にするような状態は、GDP,国民所得の配分を、社会保障、次世代の育成に、如何に配分すべきかについて、政府の考えと国民の考えがずれているところから発生するのではないでしょうか。

 「 コンセンサス社会の作法」でも書きましたが、日本人は、最も合理的な意見を理解し、コンセンサスができれば、協力して推進できる真面目さと能力を持っていると思っています。
 数の論理、強行採決頼みではなくそのための制度を、どう構築できるかでしょう。