tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

安倍政権はそんなにカジノが欲しいのか

2016年12月02日 11時08分55秒 | 社会
安倍政権はそんなにカジノが欲しいのか
 安倍政権は、今日にもカジノ法案(IR法案)の衆院通過を強行したいようです。そのために嫌がる公明党も巻き込もうと努力し、公明党も与党という地位に固執するせいか、結局賛成に回るようです。

 日本では賭博は昔からご法度です。賭博は人間を堕落させ、不公平を助長し、多くの場合犯罪の温床になります。
 賭場のシーンはTVの時代劇にもよく出てきますが、誰もがこれは悪いことだと思ってみています。

 ですから、今日の現実の世界で、スポーツ選手などがギャンブルに手を出し、永久追放になっても、誰も異議を唱える人はいません。
 これを政府公認の場でやろうというのがカジノでしょう。政府もやっぱり「間が悪い」のでしょう、IR(integrated resort)推進法案などと中身の良く解らない名前にしています。

 推進論の論拠は、これによって、観光客を大幅に増やすことが可能になるというもののようです。
  すでに書きましたように(「カジノで観光客を…?」2014.8.3)政府がもし、海外からの観光客を増やしたいのであれば、それは、日本といういう国が、「訪れるに足る国」という海外からの認識を基本に置くべきで、それを支えるのは、日本の文化、日本の文化遺産、日本独特のの景観、日本人のおもてなしの心といった要素でしょう。

 カジノがあるから日本に行くという観光客がどの位いるのか分かりませんが、そういう客は、日本でなくても、カジノがあればどこでもいいのでしょう。異文化への接触、文化の相互理解といった高次な観光の目的とは関係ない低次元の問題です。

 カジノの存在意義の源、ギャンブルでもなんでも、カネさえ入れば手段は何でもいいといった風潮は、今日のマネー資本主義を生み、世界経済の健全な成長を阻害し、格差の拡大を齎し、今日の世界の経済。社会の不安定の原因を生み出しています。

 繰り返して書いていますように、日本人は昔から、「額に汗したカネ」と「あぶく銭」とを識別する「お金の由来」についての 道徳的に鋭敏な識別感覚を持っています。
 その日本で、「儲かるなら手段は何でもいい」といった考え方を、政府が率先して「やろう」というのは「日本の伝統文化の冒涜」ではないでしょうか。

 一方で、IR推進法案反対の立場からも、「ギャンブル依存症を増やす」などという低次元の反論しか出ていないというのも、何とも嘆かわしいことです。

 政治家たるもの、日本が素晴らしい国であることを目指すならば、日本文化、日本人の伝統的意識の中での優れた面を大事にすることにもっと関心を持ってもいいのではないでしょうか。

ツイッターと言語文化

2016年08月04日 10時44分33秒 | 社会
ツイッターと言語文化
 日本人は、その固有の文化として「ことば」を大切にしてきたと思います。
 言葉は「言霊」とも言われ、言葉自身に魂が宿るという意味でしょう。
 聖書にも「はじめに言葉ありき、・・・言葉は神なりき」と書いてあります。

 言葉がないと人間はきちんと考えることが出来ないということですから、洋の東西を問わず「ことば」の大切さは認識されているのでしょう。

 ところで、日本の場合は、そうした言葉本来の基本的な役割に加えて、日本人の感覚の繊細さが言葉の多様性を著しく広げているように思います。自分を表す言葉がいくつあるのでしょうか「自分」「私」「僕」「俺」「吾輩」「余」「それがし」「己」・・・(男のみ)。
 「吾輩は猫である」は “I am a cat” でいいのでしょうか。猫を飼っている人は「うちの猫は自分が一番偉いと思っている」とよく言いますが、漱石は同じ意識でこの題名にしたのではないでしょうか。

 ところでこのところ気になっていますのがネット上の言葉です。絵文字などがどんどん増えて、その意味で、感覚の繊細さは発展しているのかもしれませんが、言葉については、何か単純化が進んでいるような気がしてなりません。

 ツイッターのようなごく短い言葉の発信が多くなったからかもしれませんが、「死ね」をはじめ極端な言葉が多用され、日本文化特有の繊細さが消えてくのではないかと危惧されます。

 かつて「マクルーハン」が『メディアはメッセージである』という名言を吐きましたが、ラジオからテレビへ、そしてネットと、メディアは進化を続けています。
 テレビは言葉を映像に変え、偶像を茶の間に連れて来ました。

 ネットはどうでしょうか。伝播の「速度」の瞬時性と「範囲」の驚異的な拡大、匿名性という社会の要請も受け、「繊細さ」は失われ、「強烈さ」が目立ちます。
 メディアが言葉を変え、文化を変えていくとすれば、まさにメディアそのものがメッセージとなるようです。

 ツイッターのようなごく短い言葉(文章)の中に、高度な思想、哲学、感覚、思いなどを詰め込むためには、それなりの思考と技術が必須のように思います。
 バーナードショウの「警句」が語り継がれるのも「寸鉄人を刺す」含意のせいでしょうし、ベンジャミン・フランクリンの名言集が読まれるのも、わずか半行の中に人生の真実が垣間見えるからでしょう。

 日本には、宇宙の神羅万象、抒情、叙景を「五・七・五」、「みそひともじ」納める文化があります。都々逸や川柳には、往々鋭い社会批評が込められます。
 ツイッターの中にも、時にこれを受け継いだのでしょうか「ハッ」とさせられるようなものもあります。

 ネット文化は多くのものを即時化し単純化し合理化するのかもしれません。しかし、ごく短いツイートの中にも、繊細な日本の言語文化が生きていればいいな、などと思っています。

参院選の結果が今の民意・・・

2016年07月11日 09時18分49秒 | 社会
 参院選の結果が出ました。
  
 与党の大勝という感じでしょうか。参議院では自民党単独過半数に1人足りませんでしたが、与党に改憲政党・議員も加えれば3分の2を超えるというのが解説です。

 与党は 改憲を争点にしませんでした。一方、野党は積極的に争点にしました。そして、結果は与党の勝利でした。野党は争点隠しと主張し、改憲を最大争点の訴えましたが敗れています。

 安倍政権にとっては、野党が改憲を最大の争点に掲げたにもかかわらず敗れたことで、民意は改憲にありとの主張も可能になりそうです。

 一方、経済を争点にし、アベノミクスの成果を主張した与党は、今後の経済運営にかなり苦しむのではないでしょうか。40円幅の円安で不況を脱した日本経済ですが、この手法では格差の拡大は進む一方ですから、豊かになった日本経済の中で、困窮世帯が増加ということになりかねません。
 そのうえ、40円幅の円安のうち、20円は現状ではハゲ落ち、今後、日本の円安政策はかなり難しくなりそうです。

 経済政策が容易でない中で、安倍政権は、改憲問題に軸足を移す可能性もあるでしょう。国民投票までにはそれなりの時間のかかる問題でしょうが、3分の2という数を頼む政権が、これからまた、安保法制の時のような国会運営をするのを見たいとは、誰も思わないでしょう。


 アメリカの大統領選がどうなるかわかりませんが、イギリスの国民投票を見ても、今や、先進国の良識ある落ち着きや長期見通しに立つ安定性が、経済・社会の劣化にの中で、極めて短期的、短絡的な感覚を強め、近視眼的な感情に左右されるポピュリズムに引きずられるような事態が現実に見えています。
 そのような「近頃は、成熟国も未発達国に堕したのか」などと揶揄されるような状態だけは、「日本としては」避けたいと思うところです。

 縄文以来の日本の 「争わない」という伝統文化、物事は出来るだけ 長期的に考え、 人間の融和を最上の価値とする日本人の源流である的な精神構造を「ブレることのない」思考や判断の基盤として、日本人一人一人が熟慮していかなけらばならに時代が来たように思われます。

「リーダー」と「諺」と「ロールモデル」

2016年06月10日 10時55分17秒 | 社会
「リーダー」と「諺」と「ロールモデル」
 今回もあまり書きたくないことを書いています。ここでのリーダーは勿論 Lのリーダーです。

 リーダーは フォロワーがその人柄や言葉や行動に感銘を受け、ついていこうという気になる人でなければなりません。
 そこで、フォロワーの立場からの判断基準として2つのものを挙げたいと思います。表題の「諺」と「ロールモデル」です。

 かつて諺は大事だと書きました。人類何千年の知恵が詰まっているからです。今回の東京都知事の問題に関わりそうな諺の例を挙げれば、

 ・瓜田に靴を納(い)れず。李下に冠を正さず。
 ・分を識り、足るを知る、己に克って礼に復(かえ)る。
 ・倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。
などでしょう。

 フランスで勉強された都知事は「ノブレス・オブリージュ」という言葉(諺)も良くご存じだと思います。

 今、東京都民は、意識するしないに関わらず、こうした基準で今回の問題の推移を判断しているのではないでしょうか。

もう1つの判断ですが、「ロールモデル」という言葉があります。組織行動学や人材開発の分野でよく使われます。ロールは役割、モデルはその形・模範(考え方、言葉、行動など)です。

 組織の中で行動する人は意識、無意識に自分が模範にしたいような人を見つけ、その人のように行動しようと考えるものだというのです。

 「あの人の髪型がいい」、「あの人の着こなしを真似したい」、「あの人の説明は解り易い」、「あの人のようにカッコよく活動したい」、「将来はあの人のようになりたい」・・・・・。

 組織の中で、人間はこうして成長のプロセスを進んでいくのだそうです。言われてみれば「そうかな」ですが、場合によっては「あの人のようにはなりたくない」という反面教師もいるようです。

  リーダーは、フォロワーにとって「魅力」がなければ誰もついて来ないでしょう。誰もついて来ない組織は、組織としての機能は何分の1かに落ちるでしょう。
 
 現に、都政運営の重要課題を論議すべき都議会が、都知事本人の資質などの問題で何日もの時間を費やすような事態が起きていることが、都議会の生産性を大幅に低下させていることは否定できません。生産性低下は必然的にコスト高を齎します。

 都民としては、「早く」何とかなってほしいと願うばかりです。

合計特殊出生率上昇続く

2016年05月24日 11時14分42秒 | 社会
合計特殊出生率上昇続く
 国際情勢、国内の社会・経済、問題ばかり多い状況ですが、昨日は我が国の将来にとって大変明るいニュースが飛び込んできました。
 合計特殊出生率の上昇が続き、2015年は、前年の1.42を0.04上回る1.46に上昇したというニュースです。

 ご承知のように、合計特殊出所率が2.0であれば、1人の女性が生涯に2人の子供を産むわけですから人口は静止状態という計算ですが、幼児死亡率等を考慮すれば、2.07が必要とのことです。

 日本は、1974年(2.05)迄ほぼ2.0を超えていましたが、その後じりじりと下がり続け、2005年には、いわゆる「1.26ショック」と言われた水準まで低下しましたが、その後上昇に転じています。

 出生率の変化は、学問的にも説明困難なもののようですが、今の社会では、人間が産むか生まないかを決めるのですから、その時の社会が如何なる状況や文化的様相のもとにあるかに影響されることは明らかでしょう。

 世界共通に見られることは、所得水準が上がってくると出生率は下がる傾向があるようです。子育てより自分の仕事に意義を見出す人が増えるからでしょうか。
 しかし、人間も動物の中の1つの種ですから、いつまでも減り続けることはないようで、どこかで種の保存の本能は生きているようです。

 社会そのものが出生率低下には(本能的に?)危機感を持ち、仕事に自己実現を感じつつも子育ても出来る社会の仕組みを工夫することも出生率回復を援助するようです。
 しかし、今でこそ出生率が2.0近傍に回復したフランスやスウェーデンでもそれには、紆余曲折、長い年月がかかっています。

 日本社会も基本的には同じプロセスをたどりつつあるようですが、未だもう少し頑張る時間が必要でしょうか。
 
 こうした大きな動きと同時に、子供を持つ親たちの住む時代が、将来に明るい豊かな希望を持てると感じられるかといった問題も、ある程度の影響力を持つように感じられます。
 スウェーデンやフランスの経済社会の動き、日本ではジャパンアズナンバーワンと言われた時代の合計特殊出生率などに見られるところです。

 何にしても、今回の合計特殊出生率の上昇継続のニュースは、日本人にとって誠に喜ばしいニュースです。
 2006年から続くこの動きは、多分これからも続くでしょう。その動きを一層促進するためにも、日本らしい子育て支援の在り方、日本経済社会の将来への明るい展望を、国民が本気で感じられるような政府の知恵と政策が期待されます。

リーダーとフォロワー

2016年04月13日 10時51分45秒 | 社会
リーダーとフォロワー
 人間社会をカオス(混沌)状態ではなく、まとまった人間集団、あるいは組織として、何らかの目標を定め、その目標に向かって進もうという場合には必然的に「リーダー」が必要になります。
 
 半分冗談を言いますと、国会で官僚の書いたものを読むのは「reader」で「leader」ではありません。日本人は先天的にLとRが聞き分けられないので、私は通常「Lのリーダー」と「Rのリーダー」と言って区別することにしています。

 さて、目的を持った組織の運営や活動のために必要になるのは「Lのリーダー」です。以下リーダーといったら「Lのリーダー」のことです。

 民主主義社会ではリーダーは選挙で選ばれ、後の人はフォロワーになります。リーダーは「リーダーシップ」を持ち、それを発揮しなければなりません。またフォロワーは「フォロワーシップ」しっかり持たなければなりません。

 ここで特に強調しておきたいのは、リーダーシップは重要ですが、場合によっては、それと同じか、あるいはそれ以上にフォロワーシップが重要だということです。

 我々にも身近な例を挙げてみますと、札幌農学校に、アメリカからクラーク先生が来ました。
Boys, be ambitious! (like this old man.)という言葉は、あまりにも有名で、クラーク先生の教えを学んだ生徒からは、皆様ご承知のように優れた人々が輩出しました。
 クラーク先生は、アメリカに帰ってからも立派なリーダーだったかどうかはネットで検索して頂ければわかります。

 序にもう1つ。 アメリカは第二次大戦後日本を占領し、富国強兵、軍国主義だった日本を、そのリーダーシップによって、世界に冠たる平和国家に作り替えました。
 アメリカはその実績を自ら高く評価し、戦いに勝つだけではなく、その国を平和主義で、世界経済に貢献できるような国に作り替える能力を持っていると自負したようです。

 アメリカはその実績を再度、今度はイラクで実践しようとしました。しかし今度は大変な失敗に終わってしまいました。

 何が違うのか考えてみますと、リーダーもさることながら、フォロワーがしっかりしたフォロワーシップを持っていないと、リーダーのリーダーシップも発揮されないというのが現実の世界だということが分かります。

 札幌農学校の生徒には素晴らしい人たちがいたからこそ、クラーク先生は素晴らしい実績を上げることが出来たのでしょう。
 日本人が素晴らしい資質を持ち、「ヨクミキキシワカリ、ソシテワスレズ(宮沢賢治『アメニモマケズ』より)、新しい国家の理念を理解して、新たな国づくりに勤勉に励んだからこそ、アメリカの成功はあったのでしょう。

 リーダーが成功できるかどうかはフォロワー次第のようです。フォロワーが確りしていないとリーダーは、往々専制的になったり独裁者になったりして、結果は「こと志と違う」ことになりがちです。

 上述の例も含め、日本人は素晴らしいフォロワーのようです。リーダーにとっては大変幸運なことです。日本のリーダーはそれを弁えなければなりません。
 日本の場合、リーダーは自分の力に頼るより、国民の資質・能力を活用するというリーダーシップを選択する方がいいように感じるのですが如何でしょうか。

3月11日を過ぎて:「あの街を思い出す・・・」

2016年03月16日 09時56分38秒 | 社会
3月11日を過ぎて:「あの街を思い出す・・・」
 先週はいろいろなメディアで「東日本大震災から5年」の特集が組まれました。「花は咲く」の美しくも哀愁を帯び、そして希望を感じさせる歌声が何度も聞かれました。
 わたくしども、戦中派の多くは「あの街を思い出す」のフレーズにその世代なりの仄かな共感を呼び起こされるのです。

 空襲で一夜にして灰燼となった故郷の街並みの記憶です。その明治、大正の名残もあるしっとりとした風景は、近所の家々のつくりまで含めて、今でも思い出すことが出来ます。
 あの破壊は人間の愚かさが起こした「戦争」という行為の結果でした。

 東日本大震災でも沢山の人の故郷の街並みは一日にして失われました。原因は巨大な地震と津波です。これは日本人が古くから知る自然災害でした。しかし、残念なことに、人間の行為による災害がそれに重なったのです。原発のメルトダウンによる放射能汚染です。

 戦争は人間の愚かさが起こしたものですが、原発はどうでしょうか。我々は原発は人間の英知の結集と教えられてきました。客観的な正確な情報は与えられませんでした
 しかし今、原発は人間の英知の結集と考える人は多くないでしょう。

 東日本大震災が自然災害だけであれば、日本社会は完璧に整然とした対応をしたのではないでしょうか。大震災直後の日本人の整然とした行動は、世界から驚嘆の目で見られました。
 日本人は古来多くの自然災害を経験し、自然災害への対応の仕方を自らの海馬の中に刻み込んできているのです。

 しかし原発事故は違いました。これは人為が起こしたものです。しかも、意図的と今では評される「安全神話」が流布されていた中での出来事でした。
 核燃料の最終処理の見通しのないまま(トイレのないマンションに例えられた)の建設稼働と安全神話の流布、これはやはり人間の英知ではなく、携わる人間の愚かな思い上がりの齎したものなのでしょう。

 汚染水は海に流さないとしていますが、日本の原発は全て海に面した所に建設されています。何故でしょうか?
 放射能問題のない核融合エネルギーの実験は内陸部で行われています。 

 核分裂でエネルギーを作ることは、超長期にわたる放射能の管理を必要とすることは専門家なら解っていたはずです。もし今後日本がこの問題で世界に貢献できるとすれば、原子崩壊の連鎖による放射能問題のより良い解決策を徹底研究し、今後必要になるであろう廃炉を含めた原発撤退作戦に英知を結集することでしょう。

 人間の愚かさの暴走を少しでも防止することが、「平和を旨とする日本」の最も心掛けることではないでしょうか。戦争でも、原発でも、過ちは人間が起こすのです。
 日本はその2つをつなぐ『原爆』の唯一の被爆国でもあるのです。

格差問題に深い洞察を

2016年02月28日 10時45分31秒 | 社会
格差問題に深い洞察を
 ちょうど1年ほど前、「格差の拡大:マルクスの時代、ピケティの時代」を書きましたが、やはり格差の問題は、世界のあらゆるところで深刻な問題を起こしているように感じます。
 
 資本主義と社会主義・共産主義が対立軸になっていた時代、まだマルクス経済学がサバイバルをしていた時代、人の心の中には、何か格差の拡大に対する違和感や警戒感があったような気もします。

 ベルリンの壁が崩壊し、共産主義が自壊し、地球上を資本主義が覆うようになってから、改めて人類社会に対して「格差の拡大」という問題が大手を振って新たな挑戦を仕掛けてきたような感じがして仕方ありません。

 このブログでは。資本主義が生き延びたのは、ミクロの世界、企業経営においてはいわゆる経営者革命で資本家が後退、経営はプロフェッショナルとしての「経営者」に委ねられるようになったこと、マクロの世界では、「社会保障、福祉国家の概念」が国レベルで具体的な進展を見たことの2つが主要の理由ではないかと考えてきました。

 しかし、「資本」の逆襲はすでに始まっていたようです。その主要な担い手は「金融資本主義」の旗手たちです。
 もともと「資本」そのものには意思はありません。しかし、マルクスの時代と同じように、人間は金(資本)を握ると「強欲」になるようです。
 資本を持った人間が「強欲」になり、さらに巨大な資本を得ようとする。金は使うためにあるのではなく、「規模の巨大さ」を競うためのものになるのです。

 金融資本主義の旗手たちには、それ以外に競い合うメルクマールがないということなのでしょうか。しかしそれは、実体経済の担い手である実業の経営者にも影響を与え、「時価総額」が企業の価値の評価に使われるような現実すら起きています。

 こうした動きを加速するための社会的環境も作られてきているように思われます。政治は金に弱いのでしょうか、より大きな資本蓄積に有利な政策や制度が進められてきているようです。

 アメリカではいわゆるレーガノミックスによって、所得税制の累進が積極的に緩和されました。日本でも累進税率は大幅に緩められてきたことはご承知の通りです。
 マネー資本主義活躍の舞台であるキャピタルゲイン税制は、アメリカは0-20パーセント、日本20パーセント(分離課税)です。

 もちろん格差社会化は、税制だけによるものではありません。雇用構造や賃金制度に大きく影響されます。日本ではこのところ、この問題が大きな課題です。

 問題は、こうした格差社会化が、一国経済、さらには世界経済にいかなる影響を与えるかです。そして、今最も心配されているのは「社会の不安定化」「消費需要の縮小」です。
 格差社会化の進行と、社会の不安定化、消費需要の縮小、経済成長の停滞・・・、こうした問題の根底に何があるのか、深い洞察が、いま、必要なようです。

2015年出生数増加

2016年01月02日 09時27分48秒 | 社会
2015年出生数増加
 新年早々明るいニュースが飛び込んできました。人口動態統計の速報で、2015年の出生数が前年を4000人ほど上回るという推計値の発表です。

 2014年の出生数は100万3500人余で、100万人割れが危惧されていましたが、2015年に至って4000人の増加に転じたのは日本にとっての朗報でしょう。
 
 このブログでは、以前から、合計特殊出生率の上昇を指摘してきましたが、それが出生数の増加に結び付いたのは、一歩前進ということではないでしょうか。

 大都市圏で出生が増えたということですが、人口も多く、若い人も多い大都市圏の合計特殊出生率が東京をはじめ最も低位に低迷していたところですから、そこで増えたということは、やはり何か変化の兆しのように感じられます。

 確かにこの3年来の円安転換で、日本経済は様変わりになりました。企業業績や株価が出生数に関係あるとは思いませんが、労働市場の改善、求人倍率の高位安定、学卒求人の青田買いの様相といった、雇用環境の変化、そしてそれが今後も続きそうな状況は、就職氷河期に比べて、国民の多くに生活の安定への希望を持たせたことは明らかでしょう。

 若い人々の将来の生活への安定感が出生数の上昇につながることは、人間の心の自然だと思います。人間も地球上に生きる生命体の中の一つなのです。

 繰り返し指摘していますように、この雇用環境の変化が、格差社会化の阻止に繋がり、下流老人とか子供の貧困とか言われる状況が、今後改善されていけば、出生数、合計特殊出生率も改善を続ける可能性は予見可能なのではないでしょうか。

 政府、地方自治体、企業、経営者がそうした日本の将来を、今日の得票数や今期の利益の増大に増して大切にする『長期的視点』持ち、それを現実の行政や経営の中で実践していけば、かつて「 ジャパンシンドローム」などと言われた日本の問題は雲散霧消していくでしょう。

 今日は1月2日『初夢』でしょう。そんな夢を見たいものです。

介護問題の本質;生産性の視点から

2015年12月15日 10時57分05秒 | 社会
介護問題の本質;生産性の視点から
 安倍政権の「一億層活躍社会」の中で「介護離職ゼロ」という目標が掲げられています。何か違和感を感じるのは私だけでしょうか。
 身内の介護のために離職する、つまり職を離れると、もう活躍していないということになるようです。活躍とはいったい何でしょうか。

 確かに家事労働はGDPになりません。介護をしても子育てをしても自分でやる限りただです。家事はお手伝いさんを頼み、子育ては保育所、介護は専門機関に任せ、自分は外で働けば、それぞれ給料が払われ、GDPが増えます。活躍というのは、GDPにカウントされるということのようです。

 それはそれとして、勿論、介護問題を取り上げてくれるのは結構なことです。介護は特に問題という意見も少なくないし、多くの識者が「介護の仕事は大変なのに」、「介護士の待遇が低いから」と介護職自体の離職の多い原因、介護の人材不足を指摘しています。その通りでしょう。

 問題は介護だけを目玉的に取り上げていて「それでいいのか」という問題です。
 というのは、こうしたことは、介護だけでなく、医療・看護でも、保育でも、家事手伝いでも、外食産業でも、さらに広げれば、理髪やタクシー、マッサージや整体などにも、つまり、1対1に近い対個人サービスに共通の問題なのです。

 問題の本質は、1対1に近い対個人サービスは「生産性が上がらない」ということにあります。賃金は生産性向上の結果上がるわけですから、その原則を適用すれば、対個人サービスに従事する人の賃金は上がらないことになります。

 しかしこうした対個人サービスに従事する人の所得も、当然その国の経済・社会全体の生産性向上に合わせて上がらなければなりません。
 市場メカニズムを入れれば解決するという意見もあります。しかし、社会保障分野の多くの問題は、市場メカニズムだけでは対応できないのです。

 市場メカニズムに任せれば、今のマネーマーケットのように必然的に格差が拡大します。これを阻止し、格差の少ない社会を実現し、資本主義(名前を変えたほう良い)の健全な発展を図るのには、政府の手による「適切」な所得など富の再分配システムが必須です。
 資本主義が生き延びたのは、社会保障を取り入れたからだとかつて書きました。

 経済社会安定のためには、生産性の上がり易い部分の成果の一部を生産性の上がりにくい部分に振り替えて配分し、格差の少ない社会を安定的に維持することが必要になるのです。
 医療では、生産性の上がりやすい医薬の部分の単価を引き下げ、生産性の上げにくい医療の部分の単価を上げましたが、配分の合理化の例でしょう。

  代々の政権が「税と社会保障」の一体改革といいます。必要なのはまさに「一体改革」の構想で、今度は介護、次は保育、こちらは医療、あちらは授業料・・・、と個別のつぎはぎ対策に追われて、モグラ叩きを繰り返さないことのような気がしています。

多様性の「共生」を認め合う社会を

2015年08月15日 07時53分21秒 | 社会
多様性の「共生」を認め合う社会を

 今年も8月15日が来ました。戦後70年です。日本中が晴れて暑かったあの日を思い出します。国民学校の6年生の夏休みでした。住んでいた甲府市は7月6日夜の空襲で焼け野原、先生も生徒も散り散りになり、そのまま夏休みに入っていました。

 突然に住む所を失い、親の実家、現在の笛吹市に疎開、生活の再建に親子4人で取り組んでいる最中でした。雑音混じりの玉音放送の中の辛うじて聞き取れた個所から、戦争が終わった、日本は負けたと理解し、これからどうなるのかと思ったことを覚えています。

 今年も8月15日を前に、連日TVで戦争の悲惨さ、戦争の不条理さが報道されていますが、古来、人間は、どうして、こうも懲りずに戦争を繰りかえすのでしょうか。
 ユネスコ憲章の前文にあるように「戦争は人の心の中で始まるものであるから、平和の砦は人の心の中に築かなければならない」と解っていながら戦争を繰り返すのです。

 そうした中で、戦後70年、日本は戦争をしませんでした。これは貴重だという意見が聞かれ、その通りだと思う方も多いでしょう。
 さらに言えば、日本列島では、縄文時代の1万年以上の間、戦争がなかったと考えられています。征服、被征服が無く、奴隷制もなかったというのが研究結果のようです。

 日本人は、世界でも最も多様なDNAを含むというのが定説で、北からも南からも西からも、いろいろな人々が来て極東の日本列島に吹き溜まったようです。
 そしてその人たちは、一万年以上の長い時間をかけて狭い列島の中で、均質といわれる日本人を形成し、争いを好まない文化を作り上げて行ったのでしょう。
 これはある意味では、人類の歴史の中で、多様性の平和共存という生き方の典型の一つではないでしょうか。

 こうした日本人、日本文化の源流の認識に立てば、ここ70年の戦わない日本は、今後何万年かの戦わない日本の新たな出発点なのかもしれません。
 
 その日本人も、弥生時代、明治以降、外来文化を積極的に取り入れ、それを進歩・発展の原動力にする中で、優れた先進文化とともに、戦争も取り入れてしまいました。
 
 これからの日本は、外国から戦争という悪い文化を取り入れるのをやめ、逆に、多様性の平和共存・共生という日本伝統の文化、人間の生き方を輸出することに尽力すべきではないでしょうか。
         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(併せてご覧ください:「日本人と平和のルーツ」 同じ趣旨で6年前に書いたものです。

NHK会長国会論議の怪

2015年03月18日 09時41分28秒 | 社会
NHK会長国会論議の怪
 NHK会長の籾井さんが、国会に呼ばれた質問を受けていました。私用のゴルフに使った車の代金を後から支払ったといった問題のようでした。

 こんな問題、書きたくないと言いながら書いてしまう自分、書かせる世の中、どちらも本当に嫌になりますが、矢張り書きます。

 「秘書を通じて頼んだから仕事の時の車が来た、あとから清算した」といったことのようでしたが、最近、政治献金でも、「わかったから後から返した」というのも多いようで、「法には触れてはいない」という言訳が常ですが、世の選良やリーダーたちが、法律に触れなければいいのだ」などというのを聞くと、心底情けなくなります。

 今回のNHK会長のケースも、あとで清算したからいいだろうという事のようですが、更に大きな問題が違う所にあるように思います。
 それは、私用のゴルフの車の配車を「秘書」に頼んだということです。これこそ公私混同な最たるものでしょう。

 しかし国会論議では、その点の追求はなかったようです。ハイヤーの料金がいくらだったか知りませんが、こんなことで毎度秘書の事務量が増えるのであれば、秘書の人件費の方がずっと高いのではないでしょうか。これも後から清算しますか。
 QCでは「何故を5回繰り返せ」といいますが、問いただせば問題はいくらでも出て来るようです。

 ある友人は、「私用なら秘書ではなくて、奥さんに頼めばいいじゃないか」と言い、それを聞いた他の友人が、我が家なら「自分のゴルフなんだから自分でお頼みなさい」と女房に言われるのが落ちだよと言っていました。

 いずれにしても、単純に金銭問題だけでない、こうした仕事上の公私混同の問題が、国会では全く素通りされてしまうというのは、まともな一般企業で働いた経験のある人や、特に、人事・労務担当を経験した人などには、大いに気になるところでしょう。

 コンプライアンスやCSR(企業の社会的責任)論議でも、法に触れさえしなければいいのだ、という立場が罷り通ることはないでしょう。
 書いているうちに、何かますます情けなくなってきてしまいました。

最近の国際情勢と折口信夫

2014年09月24日 10時23分01秒 | 社会
最近の国際情勢と折口信夫
 中沢新一氏の著作の中などで「別化性能」と「類化性能」という言葉が出てきます。折口信夫の造語だそうですが、一言で言えば、別化性能とは「違いに着目する思考方法」、類化性能とは共通点に着目する思考方向ということになるのでしょう。

 折口信夫自身は、「自分は類化性能がとても発達している」と言っているそうですが、同時に、類化性能は縄文時代から日本人の特徴的な思考方法ということでもあるようです。

 こんなことを思い出させたには今回のスコットランド独立運動です。
 以前イタリアに行った時ロンバルディアか北部同盟か忘れましたが、共通のシールをつけて、独立運動だと言っていたので、「なんですか」と聞きましたら、「いや、お祭りですよ」という答えが返ってきて、イタリアらしいなと思ったことがありました。

 ところが、今回のスコットランド独立のための住民投票は、お祭りではなく、全く本気だということで、私などは吃驚するより呆れました。
 300年も連れ添った、世界中から連合王国の一部と理解されているスコットランドが連合王国の一部であるという立場を捨てて、(多分に短期的な)北海油田の利権如きに目が眩んで(?)、独立しようという気持ちになるのは何故なのか、見当が付きません。

 しかし、これに刺激されて(という解説もありましたが)スペインではカタルーニャ独立の動きがあるというのでまたビックリ。スペインの債務と国の信用に絡んで、私などには良く解らない主張があるようですが、独立が必要になるような問題なのでしょうか。

 大体こうした問題は、国の中で被害者だという意識によることが多いのですが、スコットランドやカタルーニャが独立したくなるほどの被害者なのか、住んだことがないので解りませんが、不思議、不可解な感じです。

 ということで、ヨーロッパ人は「別化性能」が高く、何かあると違いを強調してしまうのではないかなどと感じた次第です。
 
 そういえば、日本では、神道も仏教も平和に共存し、習合、本地垂迹説なども生まれていますが、キリスト教では旧教と新教はあくまで別で、イスラム教では宗派の対立は日本人には理解できないレベルです。

 もちろんこうした問題は「類化性能」「別化性能」で割り切るといったものではないという意見もありましょう。
 しかし、狭い地球で人類が共存しなければならない今日、世界中に「類化性能」志向を流行らせることが、本気で必要ではないかなどと考えてしまいます。
 「信じる神が違う」と考えるより「同じ人間じゃないか」と考えた方がずっといいような気がするのは日本人だからでしょうか?

 日本人は縄文時代から多様なDNAが共存し、自然と人間も共存、動植物も人間も、自然の一部としてお互いに自然の中で生かされているという共通の感覚を持ってきました。
 今の世の中、何か「類化性能」志向が必要な世の中になって来ているように思うのですが、どうなのでしょうか。

マグロ、ウナギ、クジラ(真面目な話と笑い話)

2014年09月23日 10時05分33秒 | 社会
マグロ、ウナギ、クジラ(真面目な話と笑い話)
 日本人は昔から、いろいろな海産物を食べるのが大好きで、日本の食文化を育ててきましたが、日本の食文化がこのところだんだん世界に知られたり広まったりして、いろいろ問題が起きています。

 昭和20年代の終わりから30年代の初めにかけて大学生でしたが、その頃のアメリカ人の先生が「生の魚を食べるのは日本人とエスキモーぐらい」などと言っていました。

 そのころはraw fishという表現でしたが、今はそんな言葉は使わず、SUSHIやSASHIMIという言葉でアメリカ人の大好物にもなっています。

 代表格はマグロのトロかもしれませんが、そのマグロ(クロマグロ)資源が減ってしまうということで、マグロの幼魚の漁獲の制限が決まったようです。

 ウナギの蒲焼も次第に外国でも好まれるようになって、それだけではなく、幼生の「シラス」を取って日本に輸出するビジネスも繁盛、シラスの漁獲制限も決まりました。

 いずれも美味しいものをいつまでも食べられるようにしようという、知恵の結果(成果)でしょう。
 日本ではさらに進んで、採卵・孵化から完全養殖しようという取り組みも進んでいます。やはり日本人の海産物に対する思い入れは、世界で最も強いのかもしれません。

 クジラの場合は少し違うようです。オーストラリアなどが「クジラ(イルカも)を食べる(殺す)こと自体が怪しからん」という考え方を持っていて、世界では結構同調者が多く、調査捕鯨でクジラの生態・生態系を調査するという日本に種々圧力がかかります。

 もともと「食べるべきでない」ものの資源調査をしても意味はないというのでしょうか。しかも調査で捕獲したクジラを食べているのは益々怪しからん、クジラを食べる日本人は異常だということのようです。

 先日自民党本部の食堂で、クジラ肉のカレーやステーキを始めたという報道記事があり、日本の食文化を内外に示すためという解説もありました。
 これではまさに、食文化の対決の様相です。
 「今の日本の南極海の調査捕鯨は認められない」という判決を出した国際司法裁判所が、今後問題がエスカレートしてきた場合、食文化の対立まで裁くのかどうか、法律に弱い私にも興味があります。

 経済問題のサイドから見てみますと、オーストラリアは日本に牛肉の輸出をしたがっています。経済的には、日本がクジラを食べなくなれば、牛肉輸入が増えるという理屈も成り立つわけですが、そんなことを言ったらオーストラリアは怒るでしょうね。

広島の豪雨災害に思う

2014年08月30日 09時44分22秒 | 社会
広島の豪雨災害に思う
 今回の広島の豪雨災害ではでは、被害は死亡、行方不明を含め70人を超える考えられない様な大惨事になってしまいました。
 亡くなった方々には謹んでご冥福をお祈りし、行方不明の方々には出来るだけ早く所在が判明することを願い、被災された皆様には公的支援も含め、早期に安定した日常が回復されることを望むばかりです。

 「今までに経験のなったような集中豪雨」とか「警報や避難指示の発令がもう少し早かったら」とか、直接の原因についての指摘はあります。
 しかし、現地の航空写真を見て、私が正直に驚いたのは、現地の地形であり、率直な感じとして、この災害の基本原因は、宅地開発の在り方にあったのではないかという点です。

 メインの川筋に沿って、ベッドタウンが開発され、しかもそのいく筋もの支流の両岸をさかのぼって宅地が造成され、背後は深い山、森林です。
 
 災害が発生してから、この地域は以前から土石流の発生があった所であるとか、全国には同じような状況の所が数多くあるとかといった指摘も聞こえたりします。

 思ったのは、1991年バブル崩壊以前の日本の土地政策、土地行政(核心は土地税制)です。土地神話を作り、土地の値上がりで経済を回し、そこから生まれる資金を活用して政権が政策を展開するといった構図ではなかったのでしょうか。

 銀行は土地融資に狂奔し、安易な土地造成が横行し、果ては原野商法とかで、過疎地帯の荒れ地まで投機の対象にするに至っています。
 おかげでジャパンマネーは世界を闊歩したかもしれませんが、その陰で泣いたのは、持ち家希望のサラリーマンでした。

 地価の上昇は、サラリーマンの賃金上昇をはるかに超えたものでしたから、サラリーマンの持ち家は年々困難になり、退職金まで当てにしてローンを組んでも、買える土地は不便で危険もありうる所に押し込まれていったと言えます。

 当時、通勤に便利な近郊の駅の周辺は空き地が目立ちました。高過ぎてまともなサラリーマンには手が出なかったからです。

 家族のためにと一生懸命ローンを組んだサラリーマンが、やっと手に入れた土地の価格はバブル崩壊で暴落、ローンだけは残るという痛手を負いました。しかし、既に住み慣れた所からは簡単には動けません。
 今、災害危険地域指定の問題を受けて、地価が下がるから反対という声が聞かれます。一生をかけて自宅を取得したサラリーマンの悲痛な叫びのように思われます。

 人間の生活にとって、絶対必要なもの「土地」。それを投機の対象にして経済を回し、土地バブルを演出した日本の政治、土地行政の結果が今回の災害に繋がっていると思われてなりません。