広島県手話通訳問題研究会の「通信」8月号に原稿を送りました。
『暑い夏に
26年前の1997年11月13日から15日の3日間で手話班を中心とする11名が沖縄へ旅行した。事前にYMCAの一(はじめ)さんや、沖縄県人会の太田さんから学ぶ会を重ねての旅行だった。この企画には広通研の事務局で長年頑張ってくださった亀高さんのご尽力も大きかったと思う。初日に佐喜眞美術館の佐喜真道夫館長の案内で丸木夫妻の沖縄戦の図を見学した後、ろうあ協会の安里さんと普久原さんたちにひめゆりの塔や首里城、沖縄平和祈念資料館を連れて回っていただいた。。糸数アブ(深い縦の洞窟)チラ(崖)ガマ(洞窟)では全員が懐中電灯を消したが、真っ暗な闇の中でぽとぽとと落ちる雫の音だけの一分間はとても長い時間に感じた。そしてこの壕へは普久原さんは「私は入らない」と言われたが、当時真っ暗な豪や墓の中で聾者は何を感じていたのだろうか?
翌年98年2月11日には広島へこのお二人をお迎えし159人の学習会を開いた。。この時に彼女が語ってくださったDVDが通研に残っている。
那覇に生まれ住んでいた彼女の家の近くの学校の半分が兵士の宿舎になり、彼女の家の井戸の水が使われた。戦況が激しくなって親族15人が知念に逃れていくのだが、途中泣く小さな子どもは親たちの手によって殺され、離れ離れになり、最後には7人ほどになってしまっていたと彼女は語っている。また米軍の空爆を語る手話はその激しさと酷さを語ってくれる。
でも彼女も安里さんも米軍の捕虜になったおかげで生き残ることができたのだ。
多くの道路を交通規制し、平和公園や宇品港を封鎖する中で開かれたG7は核廃絶を一言も言えず、サーロー節子さんは「希望は完全に打ち砕かれた。核の傘のもとで戦争を煽るような会議だった」と評した。
これまで原爆慰霊碑文の英訳は過ちをevil=悪・邪悪と表してきているが、G7で日本政府はなんとmistakeと訳した。
資料館をきちんと見せることをしなかったことは、カナダのトルドー首相が一人でもう一度見学し直されたことでも明らか。
今、新聞に載る本当に小さな記事を読むと琉球の島々に自衛隊のミサイル基地が作られている。再び沖縄をいくさば(戦場)にしてはいけない。この8月をそのために動く月としたい。』
沖縄平和の礎を訪れた時、僕は初めて亀高さんのお父さんがこの地で亡くなられていたことを知った。