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中 の 棚 の シネツィンまで

2012-06-26 | まいにち

  おととい、妻と一緒に映画を観に行きました。新しい電気屋さんがオープンしたせいか、八丁堀周辺は人も多く食べるお店も待っている人が並んでいる…開店初日は白島の女学院高校のところまで列が並んだそうです。いつも読ませていただいている広島の女性医師のブログでも「500円の扇風機を買った」なんて書いておられたから…。

  タクシーの運転手さんに「中の棚のシネツィンへ」と言ったら「懐かしい」と言われました。最近では新天地「中の棚」という人はほとんどいないそうです。

1. 「中の棚」の誕生は
 
安土桃山時代の 天正17年(1589年)4月に毛利輝元公により広島城が着工しました。この年に魚市場として誕生し、通称「うおのたな(店・棚)」と云われていました。西側(現在の相生通り立町電停から本通に向かう南北の道路で新生銀行やグランドパーキング21等が並んでいる通り)には、八百屋・うどんや等々食材の店が多くありました。この通りを「たて町」(立町・竪町)と呼んでいました。  
     
 
広島城着工時に、築城資材運搬など平時には水運として、戦時には城堀のため“中の棚”の東側(現在の金座街から並木通り)に平田屋川(堀川)が切り開かれました。また現在の鯉城通りにも同様の目的で西堂川が作られました。因みに相生通りは外堀でした。  
     
 
広島城築城と平行して城下町の建設が進められ京の町に似せた町割を実施したようです。この城下町建設に参画した出雲出身の平田屋惣右衛門の名をとって、平田屋川や平田屋町(現在の本通2丁目付近)が付けられましたが、毛利時代の町名はほとんど明らかではありません。  
     
 
島正則時代には、中の棚の地名は「東魚屋町」その西側の南北の通りを「たて(立・竪)」その西側(国際ホテル付近)を「東研屋町」その西を「研屋町」そして「紙屋町と続きます。
 福島時代は商業重視政策で武家屋敷を八丁堀に縮小し町屋敷を拡大しています。「八丁堀」は城東の外堀の長さが八丁(約880m)あったことから八丁堀と呼ばれました。現在の相生通りにあった外堀の長さは、約140mくらいで3ケ所に門がありました。
 

2. 「中の棚」の名の由来は
 
正式な地名は「東魚屋町」と定め、通称「うおのたな(店・棚)」と呼ばれていましたが、元和5年(1619年)の浅野長晟公入城の時に西魚屋町(現在の袋町付近)と京橋町(現在の南区)に魚市場が設けられ、3ケ所の魚市場のまん中に位置していることから“うおの店”転じてまん中の店と云う意味で「中の(店・棚)」 と呼ばれるようになりました。  
     
 
店(たな)も棚(たな)もいづれも店(みせ)の意味ですが、「中の棚」と漢字で表現されたのは、平田屋川に架けた橋が南から富士見橋・竹屋橋・平田屋橋(現在のパルコ付近)・「中の棚橋」と名付けられたことから『中の棚』となりました。  
     
 
江戸時代の中の棚には、一面に幅30cm・長さ90cmの赤御影石が敷き詰められ、石と石の間に水が溜まり月が映り独特の情緒があったようです。

 

  似島はドイツの中でも手話地名などを取り上げています。およみください。

似島はドイツ―手話で歩くヒロシマの街

 

 

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