明日は資源ごみの日、周りに急かされて書類を整理していたら私が手話を学び始めた頃、1971年6月の呉ろうあ協会の会報第5号が出てきました。
住吉会長がご健在で、会の活動方針などを述べておられます。
また、始まった(前年10月から始まっています)ばかりの手話講習会の受講者として私の名前も出ています。なんと23才・・・
(以降、追加)
この号の一面記事の下には、呉市まごころ銀行や増岡組の広告と合わせて鳥好の広告も載っています。倉橋の(近くの島やったんかなあ)出身の店主が始められたお店で、毎週のように手話講習会が終わった後、住吉さんや平岡さんたちに連れられてここで飲んでました。手話は講習会というよりもここで学んだ感じ。当時はこのお店の視点が広島の服屋の側にもあってこちらへも寄せてもらってました。
呉市議の小笠原好雄さんの広告もあります。この方は傷痍軍人会の会長で呉の身障協会長やった。当時身障協会は手話では左手指の3本を右手でスッと一緒にしてた。肢体(傷痍軍人さんが主)盲、聾の三つが集まってたから・・
聾唖協会の総会や身障協会の会議でご挨拶させていただいた程度ですが。
ただ、呉市の聾唖協会は随分とお世話になったと思います。