守田です。(20110806 09:30)
みなさま。本日は、広島原爆投下から66年目の日です。あの悲惨で、許しが
たい原爆投下、もの凄くたくさんの命が奪われていったあの日から、66年も
経った今日、私たちは未だに収束しない福島原発事故の前に立っています。
断腸の思いがあります。
しかし悔んでばかりはいられない。この66年間、塗炭の苦しみを嘗めながら
も、自ら立ち上がり、「にんげんをかえせ」と叫んで、尊厳を取り戻すため
に歩んできた被爆者の方々の努力と思いを、しっかりとわが胸に刻み、もう
一度、核と戦争のない世の中をめざしていかなければならないと思います。
ちなみに英語で核兵器はnuclear weapon 原子力発電所はnuclear power plant
です。原発は本当は核発電所と書くべきものなのです。その核発電所が私た
ちの国には54基もあり、そのうちの4基(福島第一原発1~4)は、今なお、
もの凄く危険な状態にあって、放射能漏れを続けています。
さらに66年間も経っているのに、アメリカは未だに原爆投下は正しかったと
言い続けています。原爆投下は、日本軍がおこなった南京虐殺などと同じく、
最も悪辣な戦争犯罪です。アメリカは謝罪をしなければなりません。もうこれ
以上、原爆投下を正義とすることを許してはなりません。
本日、広島で平和式典が行われ、2011年平和宣言が読み上げられました。
以下にその文章を掲載します。評価はさまざまにあると思いますが、まずは
8月6日に、多くのみなさまと、平和への思い、核のない世の中への願いと
決意を共有したいと思います。どうかお読みください。
*********************************
2011年平和宣言
66年前、あの時を迎えるまで、戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに
生活していました。かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の
地にも、多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。当時13歳だった男性は、
打ち明けます。――「8月5日は、中学2年生の私にとっては久しぶりに一日
ゆっくり休める日曜日でした。仲良しだった同級生を誘って、近くの川で時
間の経つのも忘れて夕方まで、砂場でたわむれ、泳いだのですが、真夏の
暑いその日が彼との出会いの最後だったのです。」
ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、一発の原子爆弾でそれまでの生活が
根底から破壊されてしまいます。当時16歳だった女性の言葉です。――
「体重40キロの私の体は、爆風に7メートル吹き飛ばされ意識を失った。意識
が戻ったとき、辺りは真っ暗で、音の無い、静かな世界に、私一人、この世
に取り残されたように思った。私は、腰のところにボロ布をまとっているだ
けの裸体で、左腕の皮膚が5センチ間隔で破れクルクルッと巻いていた。右腕
は白っぽくなっていた。顔に手をやると、右頬はガサガサしていて、左頬は
ねっとりしていた。」
原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、人々は、とまどい、傷つき
ながらもお互いに助け合おうとしました。――「突然、『助けて!』『おか
あちゃん助けて!』泣き叫ぶたくさんの声が聞こえてきた。私は近くから聞
こえる声に『助けてあげる』と呼びかけ、その方へ歩み寄ろうとしたが、体
が重く、何とか動いて一人の幼い子供を助けた。両手の皮膚が無い私は、
もう助けることはできない。…『ごめんなさい』…。」
それは、この平和記念公園の地のみならず、広島のいたるところに見られた
情景です。助けようにも助けられなかった、あるいは、身内で自分一人だけ
生き残ったことへの罪の意識をいまだに持ち続けている人も少なくありません。
被爆者は、様々な体験を通じて、原爆で犠牲となった方々の声や思いを胸に、
核兵器のない世界を願い、毎日を懸命に生き抜いてきました。そして、被爆者
をはじめとする広島市民は、国内外から心温まる多くの支援を受け、この街を
蘇らせました。
その被爆者は、平均年齢77歳を超えながらも、今もって、街を蘇生させた力を
振り絞り、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けています。このままで良い
のでしょうか。決してそうではありません。今こそ私たちが、すべての被爆者
からその体験や平和への思いをしっかり学び、次世代に、そして世界に伝えて
いかなければなりません。
私は、この平和宣言により、被爆者の体験や平和への思いを、この世界に生き
る一人一人に伝えたいと考えています。そして、人々が集まる世界の都市が
2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、長崎市とともに平和市長会議の輪を
広げることに力を注ぎます。さらに、各国、とりわけ臨界前核実験などを繰り
返す米国を含めすべての核保有国には、核兵器廃絶に向けた取組を強力に
進めてほしいのです。そのため、世界の為政者たちが広島の地に集い核不拡散
体制を議論するための国際会議の開催を目指します。
今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿
を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。震災により亡くなられた
多くの方々の御冥福を心からお祈りします。そして、広島は、一日も早い復興
を願い、被災地の皆さんを応援しています。
また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放
射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対す
る国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、「核と人類は共存で
きない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層
の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られる
よう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです。
また、被爆者の高齢化は年々進んでいます。日本政府には、「黒い雨降雨
地域」を早期に拡大するとともに、国の内外を問わず、きめ細かく温かい
援護策を充実するよう強く求めます。
私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「原爆は
二度とごめんだ」、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という
思いを新たにし、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、
ここに誓います。
平成23年(2011年)8月6日
広島市長 松 井 一 實
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/declaration/Japanese/2011/index.html
みなさま。本日は、広島原爆投下から66年目の日です。あの悲惨で、許しが
たい原爆投下、もの凄くたくさんの命が奪われていったあの日から、66年も
経った今日、私たちは未だに収束しない福島原発事故の前に立っています。
断腸の思いがあります。
しかし悔んでばかりはいられない。この66年間、塗炭の苦しみを嘗めながら
も、自ら立ち上がり、「にんげんをかえせ」と叫んで、尊厳を取り戻すため
に歩んできた被爆者の方々の努力と思いを、しっかりとわが胸に刻み、もう
一度、核と戦争のない世の中をめざしていかなければならないと思います。
ちなみに英語で核兵器はnuclear weapon 原子力発電所はnuclear power plant
です。原発は本当は核発電所と書くべきものなのです。その核発電所が私た
ちの国には54基もあり、そのうちの4基(福島第一原発1~4)は、今なお、
もの凄く危険な状態にあって、放射能漏れを続けています。
さらに66年間も経っているのに、アメリカは未だに原爆投下は正しかったと
言い続けています。原爆投下は、日本軍がおこなった南京虐殺などと同じく、
最も悪辣な戦争犯罪です。アメリカは謝罪をしなければなりません。もうこれ
以上、原爆投下を正義とすることを許してはなりません。
本日、広島で平和式典が行われ、2011年平和宣言が読み上げられました。
以下にその文章を掲載します。評価はさまざまにあると思いますが、まずは
8月6日に、多くのみなさまと、平和への思い、核のない世の中への願いと
決意を共有したいと思います。どうかお読みください。
*********************************
2011年平和宣言
66年前、あの時を迎えるまで、戦時中とはいえ、広島の市民はいつも通りに
生活していました。かつて市内有数の繁華街であった、ここ平和記念公園の
地にも、多くの家族が幸せに暮らす姿がありました。当時13歳だった男性は、
打ち明けます。――「8月5日は、中学2年生の私にとっては久しぶりに一日
ゆっくり休める日曜日でした。仲良しだった同級生を誘って、近くの川で時
間の経つのも忘れて夕方まで、砂場でたわむれ、泳いだのですが、真夏の
暑いその日が彼との出会いの最後だったのです。」
ところが、翌日の8月6日午前8時15分に、一発の原子爆弾でそれまでの生活が
根底から破壊されてしまいます。当時16歳だった女性の言葉です。――
「体重40キロの私の体は、爆風に7メートル吹き飛ばされ意識を失った。意識
が戻ったとき、辺りは真っ暗で、音の無い、静かな世界に、私一人、この世
に取り残されたように思った。私は、腰のところにボロ布をまとっているだ
けの裸体で、左腕の皮膚が5センチ間隔で破れクルクルッと巻いていた。右腕
は白っぽくなっていた。顔に手をやると、右頬はガサガサしていて、左頬は
ねっとりしていた。」
原爆により街と暮らしが破壊し尽くされた中で、人々は、とまどい、傷つき
ながらもお互いに助け合おうとしました。――「突然、『助けて!』『おか
あちゃん助けて!』泣き叫ぶたくさんの声が聞こえてきた。私は近くから聞
こえる声に『助けてあげる』と呼びかけ、その方へ歩み寄ろうとしたが、体
が重く、何とか動いて一人の幼い子供を助けた。両手の皮膚が無い私は、
もう助けることはできない。…『ごめんなさい』…。」
それは、この平和記念公園の地のみならず、広島のいたるところに見られた
情景です。助けようにも助けられなかった、あるいは、身内で自分一人だけ
生き残ったことへの罪の意識をいまだに持ち続けている人も少なくありません。
被爆者は、様々な体験を通じて、原爆で犠牲となった方々の声や思いを胸に、
核兵器のない世界を願い、毎日を懸命に生き抜いてきました。そして、被爆者
をはじめとする広島市民は、国内外から心温まる多くの支援を受け、この街を
蘇らせました。
その被爆者は、平均年齢77歳を超えながらも、今もって、街を蘇生させた力を
振り絞り、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求し続けています。このままで良い
のでしょうか。決してそうではありません。今こそ私たちが、すべての被爆者
からその体験や平和への思いをしっかり学び、次世代に、そして世界に伝えて
いかなければなりません。
私は、この平和宣言により、被爆者の体験や平和への思いを、この世界に生き
る一人一人に伝えたいと考えています。そして、人々が集まる世界の都市が
2020年までの核兵器廃絶を目指すよう、長崎市とともに平和市長会議の輪を
広げることに力を注ぎます。さらに、各国、とりわけ臨界前核実験などを繰り
返す米国を含めすべての核保有国には、核兵器廃絶に向けた取組を強力に
進めてほしいのです。そのため、世界の為政者たちが広島の地に集い核不拡散
体制を議論するための国際会議の開催を目指します。
今年3月11日に東日本大震災が発生しました。その惨状は、66年前の広島の姿
を彷彿させるものであり、とても心を痛めています。震災により亡くなられた
多くの方々の御冥福を心からお祈りします。そして、広島は、一日も早い復興
を願い、被災地の皆さんを応援しています。
また、東京電力福島第一原子力発電所の事故も起こり、今なお続いている放
射線の脅威は、被災者をはじめ多くの人々を不安に陥れ、原子力発電に対す
る国民の信頼を根底から崩してしまいました。そして、「核と人類は共存で
きない」との思いから脱原発を主張する人々、あるいは、原子力管理の一層
の厳格化とともに、再生可能エネルギーの活用を訴える人々がいます。
日本政府は、このような現状を真摯に受け止め、国民の理解と信頼を得られる
よう早急にエネルギー政策を見直し、具体的な対応策を講じていくべきです。
また、被爆者の高齢化は年々進んでいます。日本政府には、「黒い雨降雨
地域」を早期に拡大するとともに、国の内外を問わず、きめ細かく温かい
援護策を充実するよう強く求めます。
私たちは、原爆犠牲者の御霊に心から哀悼の誠を捧げるとともに、「原爆は
二度とごめんだ」、「こんな思いをほかの誰にもさせてはならない」という
思いを新たにし、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に全力を尽くすことを、
ここに誓います。
平成23年(2011年)8月6日
広島市長 松 井 一 實
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/declaration/Japanese/2011/index.html