明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(237)停電を越えて、岩手県釜石へ

2011年08月20日 07時00分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110820 07:00)

続いて昨日、19日のことをご報告します。

この日は朝10時半にホテルを出て、友部駅から水戸線に乗って栃木県の
小山へ。そこから新幹線に乗り、宇都宮で列車を乗り変え、大阪・京都
からやってきた森拓哉さん、大槻隆雄さんと車内で合流しました。さあ
みんなで岩手に行くぞと勢い込んでいるときに突然、車内の灯りが消え
てしまった。「あれ、どうしたかな?」と思っていると列車が停止。

車内放送がありました。東北地方で地震が発生し、停電したたため、列
車が止まったというのです!「えーっ」と動揺が広がる車内。これから
福島県を通過することになるので、放射線値を計測しようと、窓際にガ
イガーカウンタ―を置いたばかりだったのですが、列車は宇都宮と那須
塩原の間で止まったまま。空調も止まり、息苦しくなっていきます。

被害は出てないのだろうか。原発は大丈夫なのだろうか・・・と思いつ
つ、でも東北ではこんな感じがしょっちゅうなのだよなとも思いました。
そういえば友部の夜でも、一度、ズシンという大きな揺れがありました。
これも311大地震の余震なのでしょう。気仙沼のアビスさんの家で「大き
な」揺れに、「こんなの大きくない」と笑われたことを思い出しました。

やがて電気が回復。空調も働きだしてほっとしましたが、列車はなかな
か動かない。結局1時間たって動き出しましたが、かなりの減速運転で
走って行きます。那須塩原を通過し、郡山駅につきましたが、そこで再
び長い停車。前の列車が郡山から仙台の先の古川まで、徐行をしている
のだそうです。結局数十分たって、郡山駅を出発。

ちなみに放射線値ですが、那須塩原駅直前で毎時0.37マイクロシーベルト
を計測。郡山駅では0.2マイクロシーベルトでした。7月に仕事で古川ま
できたときには、郡山―福島間の二本松付近で0.5マイクロシーベルトま
であがったのですが、この日はこの区間でほとんど値の上昇はありません
でした。福島駅は0.2、直後に0.37になりましたがすぐに0.2に落ちました。

以降、放射線値が高くなることもなく、列車がゆっくりと進行。車内で
あれやこれやと話しながら、結局、目的地の岩手県北上駅についたのは
午後7時10分。2時間30分遅れでした。駅で交渉すると特急料金が払い戻
しになった。経費節約になりましたが、しかし2時間30分の遅延は疲れ
ました。・・・そのぐらいどうということもないかもしれませんが。

その後、レンタカーを借り出しました。自転車を現場で運ぶための2トン
トラックロングボティーです。平ボティー車といって、箱のついていない
もの。これに3人で乗って、今宵の宿である釜石に向けて出発。運転は
僕です。実は昔、トラック運転手をしていたことがあって、4トンロング
に毎日乗っていたのです。2トンなんて軽い軽い!

北上山地を越えて走ることになりますが、まずは遠野市に到着。ここに
お世話になるパレスチナ子どもキャンペーンの現地本部があります。挨
拶と大槌町のある建物のカギを借りるために二人のスタッフの方に近く
まで来てもらいました。若くて爽やかな二人の男性がやってきてくれま
した。カギを受け取ってさらに一路釜石市へ。

結局、釜石に入ったのは午後10時過ぎでした。それまで山間を走っていて
釜石市に入ると、暗くてみえにくいものの、市内のいたるところにまだ
まだ津波の爪痕が残っていることが分かりました。多くの信号が消えた
ままついていない。また信号ぐらいの高さにある看板が損傷している。
波がそこまで来たのでしょう・・・。

そんな姿をみながら宿を探し、結局、到着したのは10時半過ぎでした。
宿はインターネットができるところということで選んだのですが、つい
てみると無線ランしか使えない。ケーブル施設は波でやられてしまった
ので、無線ランしかいれてないと言われました。幸い、森さんのパソコ
ンが無線ラン対応なので、さっそく森さんがOHANA通信を執筆。僕は
自分のパソコンで文章を打って、USBメモリーで森さんのパソコンに
コピーし、そこから送信することにしました。

・・・ということで今朝は二つの通信を発信します。いよいよこれから
大槌の町に向かい、京都から運送会社の大型トラックでやってくる自転車
とドッキングして、仮設住宅へと向かいます。どんな出会いがあるので
しょうか。今回はカメラ、ビデオも持ってきたので、ばっちり取材し、
映像も配信しようと思います。次の配信は今日の夜の予定です!

以下、森さんの昨夜発信の通信をお届けします。

******************************

OHANA通信 Vol8 8月19日 釜石市に到着しました。

こんばんは。京都OHANAプロジェクトの森拓哉です。

今日は、いよいよ自転車の出発、朝9時半に10tトラックへの詰め込みを開始です。
かっこいいトラックが来てくれました!

私と大槻さんはトラックへの詰め込みを確認する前に、朝10時の新幹線で京都駅へ。
片道約6時間の予定でしたが、大雨と地震の影響で、新幹線が何度も止まり、10時間
近く電車にのり、途中守田さんと合流して、北上駅からレンタカー、先ほど夜10時半
ごろ、無事に旅館に到着しました。

新幹線の駅から、釜石市の近辺まで震災の傷跡はほとんど感じられなかったのですが、
町に入ったとたん、様子が一変しています。なんとコメントしていいのか言葉に困り
ますが、とにもかくにも、明日からしっかり自転車を配ってきますね!

<一言コメント>
守田さん 初めて釜石市に入りました。入ったとたんに津波の跡を感じました。明日は、
自転車を一生懸命に配りたいと思います。

大槻さん 夜の風景しか見てないですが、同じ日本だとは思えない光景が広がってい
ます。明日の朝見る風景が少し不安です。ただ、皆の想いを背負っているので、みんな
の分もがんばります!

8月20日(土)~21日(日) 大槌町の仮設住宅で自転車の配布
8月22日(月)       気仙沼訪問の後 京都へ

ホームページ : http://ohana-kyoto.net/blog/
★中国在住で活躍中の松本ひでちゃんが、一気にパワーアップしてくれました。
ご覧下さい。

みんなの千羽鶴プロジェクト : 一口1,000円のプロジェクト支援。
http://www.success-running.com/news/2011/07/senba.pdf
クレジットカード決済に対応しました♪ ⇒ http://p.tl/N0-j

フェイスブック : http://www.facebook.com/kyotoohana
★タイムリーに情報をお届けしていきます。ユーザの方は、「いいね!」
お願いします。

*************************

なお繰り返して恐縮ですが、すでにたくさんの方にご協力いただいているのですが、
残念ながらまだ活動資金が足りていないようです。可能な方はお力をお貸しください。
よろしくお願いします。

京都銀行 上桂支店(カミカツラ支店)

普通 4041989 京都OHANA プロジェクト大槻祥子

(この「明日に向けて」を読んで振り込んで下さる方は、振り込む際に名前の前に、
311という番号を入れてください。「311モリタトシヤ」という具合です。整理のためです)



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明日に向けて(236)茨城県笠間市を訪れて

2011年08月20日 06時30分00秒 | 明日に向けて8月1~31日
守田です。(20110820 06:30)

岩手県釜石市のホテルからの送信です。

一昨日、訪問した茨城県笠間市友部のことについて書きたいと思います。
僕がこの日、友部駅についたのは、午前11時36分。上野から特急フレッシュ
日立で1時間の距離でした。会場に行く前に、少し放射線測定をしようという
ことで、二人のお母さんたちが待っていてくださり、一緒に北川根小学校に
向かいました。

この小学校はすぐ隣に北川根ふれあい公園があります。その駐車場に車を
止めて、公園の中を歩きだしました。ママさんの一人が買ったばかりの
ガイガーカウンターを取り出します。僕も持参のもの(京都ママパパの会の
方にお借りしているものです)を取りだし、さっそく計測開始。すると公園
の中にある植え込みの周りのベンチの上で、ママさんの計測値が毎時0.26
マイクロシーベルトを計測。しかし僕の方は数値があがらず、0.10から0.14
マイクロシーベルトあたりしかしめさない。

暫く周辺をいろいろと測ってみました。概ね0.2台の数値が出ていましたが、
学校の校門付近ではママさんのものが0.37を記録。しかしそれでも僕のもの
はそれほど数値が上がらない。「あれ、壊れたのかなあ。調子が悪いのかな
な」といぶかっていました。

さらに学校のフェンス沿いにある桜の木の下の落ち葉を計測。ここで同じく
0.30前後の値が出ています。「落ち葉を取り払った方がいいですよねえ」と
ママさん。「そうですね。でも焼いたらダメですね。」と僕。「ではどうし
たら」「とりあえずは密閉して近くに置くしかないですね。東電に連絡して
持って行ってくれと言った方がいいですね」と僕。

再度、公園の中に戻りました。そのときになって目についたのが、小さな
噴水とそこから流れて来る水路。タイルのような石がはってあって、いか
にも子どもたちが喜びそうな場所です。今は水が流れていない。でも雨が
降るとここを水が流れているといいます。その一番端に行くと、水が入っ
ていくアクリルのパイプが顔を見せていて、その前に泥が溜まっている。

「こういうところは高そうですね」と、カウンターをあてるとどんどん数値
があがっていく。このときは僕のカウンターも数値がどんどん上がりだしま
した。結局、二つとも2.0マイクロシーベルトを計測、その辺で数値が安定
しました。やはり泥に放射性物質が溜まっていたのです。「ここは子どもさ
んを遊ばしてはならないと通告して、はやく泥を除いてもらうといいです。
今日の記録、計測器の種類、測った人の名前、可能なら公園の見取り図を
添えて、行政に提出して下さい」と僕。ママさんたちもうなずいていました。

続けて会場の友部公民館に向かいました。公民館では大きな和室の部屋、二
つをおさえておいて下さいました。そこに早くから人が集まりだします。50人
の部屋ということで、それより少ないぐらいの人数を予想していたのですが、
どんどん人が増えていって、最終的には子どもさんを合わせて100人ぐらいに
なりました。朝日新聞からも取材の記者さんが参加。いよいよ講演の始まり
です。

「友部は田舎で問題意識を持っている人が多くはない」と聞いていたのです
が少なくとも会場の雰囲気はそうではない。前の方には首からガイガーカウ
ンターをぶら下げた女性もいます。何人かの方が先にあいさつをして下さい
ました。京都に避難しているお母さんのお連れ合いが司会をしてくれ、僕を
迎えてくださったママさんが挨拶をして僕の話になりました。

僕が話したのは、福島原発事故要因が津波ではなく地震であること、外部
被曝と内部被曝の違いと内部被曝の危険性、被爆した場合には、腹を決めて
開き直って、覚悟を決めて立ち向かうべきこと、免疫力を精一杯上げて放射線
の害と立ち向かっていくことが大切なこと。そして正常性バイアスの問題と
放射性廃棄物から考えた原発の問題などなどでした・・・。

僕から見ている限り、参加者の中のけっこうたくさんの人が相槌を打ちながら
聞いてくれました。さらにその後の質疑応答でも結構、いろいろな質問がでて
きた。中には演説をする人も。それで概ね2時間ほどで終わったのですが、その
後も次々と質問に来てくれる人がいて、全部で20人近くの人とお話しをし、さら
にそのまま居残った人とその場で2時間ぐらい話を続けました。


・・・こう書くと、とにかく盛り上がったということになるのですが、後で
主催者の方たちに聞くと、「原発事故を忘れかけている地元のママさんたちが
どう感じたか分からなくて不安だ。受け入れにくかったのではないか」とのこと
でした。「そうかあ。それは申し訳ないことをしたかもしれない」と僕は思いま
した。

今からとらえ返すと、今回の講演会のことは、主催者の方の思いも越えて、
周辺地域の方たちにも広がっていたように思えます。例えば東海村の近くにいて、
原発の問題を深く考えている女性が二人きていて、最後まで残っていろいろと意見
交換をして帰られた。実はJCO事故以降、小学生や中学生の葬式が幾つかあって、
地元の医師やお坊さんが、もう耐えられないと言っていることなどが話されてい
ました。

とくに一人の方は化学者でもあり、かなり深い知識を持たれていました。
この方が首からガイガーカウンターをぶら下げておられたのですが、例えば玉子の
調理をするために割った途端に数値が高くなり、あわてて調理したものを捨てた
経験などもお持ちで、一つ一つの話に放射線の強い地域ならではのリアリティ
がありました。なおこのお二人は別々にこられて、その場で深く交流されて帰って
いきましたが、この化学者が強い危機感で書かれた日記の中の記載を送って下さっ
たので、いずれこの場で紹介しようと思っています。

また他にも、「私の周りには相談できる人がいません。周りは誰も心配しない。
でも私はこのままではいけないと思うのです」という女性が、それぞれ別々に
数人こられていました。僕はぜひ、主催者の方たちとつながって下さいと提案し
ました。他には有機農業をされていて、悩んだ末に、営農を諦めたという方も
いました。その意味では、かなり問題意識を持っておられるからがたくさん
会場に来られていた。

印象的だった話がたくさんありましたが、例えばある女性は、現代社会の汚染
や食料問題を考えあぐねた末に、自分で大きな家庭菜園を築き、農薬や化学物質
を一切排除した野菜を作って、家族に食べてもらっていたそうです。お母さんの
作る野菜は、ムシが食べてもいるけれども、本当に安全でおいしい野菜だと、
誇りを持って家族にだしてきたとか。

ところがそこに毒が撒かれてしまった。悲しくて悲しくてならない。畑も見る気
になれない。そのうちに草がはびこってしまった。私は一体、どうすればいいの
でしょうと、涙をいっぱいためて語られるのです。僕はまずは土地の汚染度を
測ってみてはといいましたが、悲しそうに首を振られる。商売をしているのでない
ので余裕はないし、そもそも度合いよりも汚染されたことそのものが悲しいのです。

僕は悩んだ末に、「今は休まれたらどうでしょうか。毒を撒かれて心がとても
傷つかれていると思います。まずはそれを癒していただきたいです。草を取る
必要はあるかもしれませんが、とりあえず今期は野菜を諦めて、少し休まれると
良いのではないでしょうか。そしてこれまでしてきたこと自身はとても素晴らし
いことだったことを考えて、それでまたできるときがきたら始められたらどうで
しょうか。」と語りました。

横で営農を諦めた有機農家の方が聞いて下さって、「その気持ちはとてもよく
分かる。毒を撒かれたことが本当に悲しい。でも今は毒はなくならない。だから
僕も休んで心をいやされるといいと思いますよ」と言ってくださり、僕もちょっと
ほっとする思いがありました。ともあれそんな相談や話が講演会後に次々と
重ねられました。


しかし一方で、会場には、主催した笠間市友部のお母さんたちが一生懸命に誘って
下さったママさんたちもたくさん来て下さっていたのでした。中には放射線の問題
はもう終わったように感じているけれども、強く説得してくれるのできたママさん
たちもいた。でもそういうママさんたちには、僕の話の内容も、質疑応答も、
ちょっとピンとこない面があったようです。その意味で僕の話は丁寧さを欠いていた
面があった。もっとワイドレンジで、つまり問題意識を強く持っている人にも、
そうではない人にも共有できる話をしなくてはいけなかったと反省しています。

ただ同時に、僕はこれは笠間のことだけではなく、日本社会のいたるところの縮図で
あるようにも感じました。結構、たくさんの方たちが、被曝の問題に危機意識を持ち、
繰り返し情報収集を行い、勉強を重ねてかなりの知識も蓄積している。でもそうした
多くの方たちが、身近に仲間を見いだせなくて、なんとも言えない孤立感を持っている。

他方、より多数の人々は、放射能は怖いなと思いながらも、周りは普通に暮らして
いるし、行政も大丈夫だと言っているし、それほど考えなくてもいいのかなとも
思っている。だから自分から情報収集をすることはあまりないし、しようにも話が
どんどん進んで、何をみてどう考えてたらいいか良く分からない。・・・そのため、
考えている人と、それほど考えてない人の距離が結構、大きくなってしまっている。

この間をどう埋めたらいいのでしょうか。ある意味で僕はそれを埋めるために
呼ばれてきたのですが、残念ながら一回で埋めることはできませんでした。
先にも述べたように僕の配慮が足りなかったことがいけなかったし、僕自身は
もっとワイドレンジで話ができるようにならなければいけないと強く思っています。

しかし、大きな構造の中では、アクションが必要なのだと思えました。例えば
放射線計測会を行う。放射線の出ている現実の前に、みんなで一緒にいって、計測を
共にして、それからその除染を行政に要望することにできるだけたくさんの人に
関わってもらう。そういうことが必要なのではないか。

その点で、僕は次に笠間に行くときには、できるだけ多くの方と一緒に、放射線
計測をしてみてはどうかと思っています。同時に京都精華大学の細川弘明さんなどが
開発している除染方法をここに持ち込み、それを一緒に行っていきたいと思ってい
ます。その上で、もっと放射線の問題についてはじめて知る方の立場に立ち切った
学習会や講演などを行えたらと思うのです。

同時にここに、もう一度、強い問題意識を持って、笠間市の周辺から集まって来られた
方たちにも来ていただいて、何かを一緒にすることで、けして自分たちは孤立している
わけでもないこと、憂いを共にし、その中での展望を求めている仲間が確かにいること
を感じて欲しい。そしてそこから、これらの方たちに、今の時点で放射能は怖いとは
思っても、何から学び始めればいいか分からないし、何を見ればよいか分からないと
思っている方たちのガイドになっていただければと思います。うまくは言えませんが、
そのためのある種のノウハウのようなものを提供するといいのかななどと思いました。


それやこれやを含めて、あらためて振り返ってみて思うことは、僕の講演内容につい
ては反省することが多いけれども、それでも何よりも、笠間市友部での講演会に
100人もの方が来たこと、また非常に強い問題意識を持っている方が、周辺から
たくさん来ていたこと。一方で地域のママさんたちもたくさん来ていたことの中に
大きな可能性や展望があるのではないかということです。

笠間のママさんたちの活動は、思ったよりもより多くの方に注目されていたのだと
思います。そうでなければ僕の講演会で、地方の一地域の講演会に100人が来る
ことはない。ママさんたちが本当に手探りでやってきたことが、多くの人々を揺り
動かしつつあるのではないでしょうか。これはとても大事なことだと思います。

僕は今後も、ぜひこの活動に参加させていただき、協力させていただきたいと思って
います。必ずまた来て、みなさんと一緒に子どもたちを守る輪を広げていきたいです。
それを取りあえずの、報告に変えたいと思います。






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