守田です。(20110825 22:30)
東北の旅を終えて、ようやく京都に帰ってきました。旅の荷を解
き、一息ついたところですが、少し日にちを遡って、旅の報告の
続編を書きたいと思います。まずは22日に陸前高田に続き、気仙
沼高校に自転車を届けて以降のことです。
この日、すべての自転車配りを終えた私たちは、アビスさんの車
の先導で、気仙沼の津波被災地を訪れました。僕にとっては2度目
の訪問でしたが、前回は封鎖されていて入れなかった地域もあり
ます。安全性が確保できていなかった場所です。
その地域に入って、一番に思ったのは、「まだこのような状況なの
か・・・」ということでした。このような状態というのは、津波で
大被害を受けた建物の多くが、まだ被害を受けたときのままの姿で
残っていることです。
とくに目立つのは大きく損壊した水産物加工工場です。だいたい3階
建て、4階建てぐらいの建物が多いのですが、外壁が壊れ、鉄骨も
グニャグニャになったままの姿でまだまだたくさん残っている。
5ヶ月と10日が経ったにもかかわらずです。
僕は1995年に起こった阪神・淡路大震災の時も、ボランティアとして
繰り返し現地に訪れましたが、少なくとも5ヶ月経った頃には、倒壊
したビルの多くが解体されていました。更地になり、まだ次のもの
は立てられていなかったけれども、残骸はあまりなかった。
ところが気仙沼では今も多くの残骸がそのままに残されています。
解体工事をしているところもたくさんありましたが、まだまだ解体
を待っている建物が多いのです。水産物を入れる発泡スチロールの
箱が、ビルの中から外に崩れ出したままになっている所もある。
さらに印象的なのは、陸地に乗り上げてしまった船がまだ何隻か残っ
ていることです。さすがに海に近い所の船は姿をけしていましたが、
旧気仙沼駅前にドンと鎮座して、何度も報道された数百トンの船は、
今もそのままに鎮座している。。
ここは5月の訪問の時に、仙台で泊めていただいた、”さおちゃん”
の実家があった場所。前回も訪れたところだったので、津波から5ヶ月、
前回訪問から3ヶ月経ってもあまりに変わっていないことに、何か
痛々しい感じがしました。
「これは大変なことだ」と思いました。今回の震災は、阪神・淡路
大震災よりはるかに大きく広範な規模を持っており、それだけに
復興のための資源を、一都市に集中することができない。そのため
津波で壊れた建物を撤去するだけでまだまだかかってしまうのです。
こうした現実は、あまり報道されなくなっているのではないでしょう
か。今なお、津波直後の状況と、あまり変わらない状態の場所がたく
さんある。復興への努力を報道することも大切ですが、僕はこのまだ
まだ変わらない姿も、もっときちんと伝えられなければと思います。
行政は、復興の目安を「避難所」の縮小、解消におきたがります。
みんな「仮設住宅」に移って、やれやれという自治体も多い。しかし
「仮設住宅」とて言葉を変えれば「避難者住宅」です。団地型避難
所に変わったに過ぎないことを私たちは知っておく必要がある。
「復興」は、旧来の地区の建物が解体・撤去され、再び家々が建てら
れて、はじめてなされていきます。ところが今回の場合、津波の被災
地に、再度、家々を建てるのか否かという大問題も横たわっています。
その判断にやっとこれから入っていかねばならないのです。
その意味で地域によっては、「復興」は不可能であり、新しい町の
創造が求められるところもあるでしょう。気仙沼の海岸地区もそれに
入るのではないか。そもそも海岸線の多くの場所が、液状化などによ
る地盤沈下で、土地そのものがなくなってしまってもいます。
アビスさんは、この海に沈んでしまった土地の姿をみると絶望的な
気持ちに襲われると語っていました。仮に再度の津波被害の可能性を
しりつつ復興を試みようと思ったとしても、その場自身がなくなって
しまっているからです。
復興、ないし、あらたな町の創造には、まだまだ本当に長い時間が
かかるし、たくさんの資源が必要です。被災していない地域の側は、
この現実をこそ直視し、今後もさまざまな形で、被災地への援助を
続ける必要があります。
僕自身はそれは一つの人間的義務だと思います。被災した人々を
助けるというよりも、私たちすべてがまだまだ被災状態の中にいる
と自覚することが大切だと思うのです。その上で、今後の有効な
市民的援助の方途も考えていく必要がある。
さらに大変深刻なのは、こうした事態の上に、放射線被曝の現実が
覆いかぶさっていることです。まだまだたくさんの地域からの避難
を進める必要があるし、「学童疎開」も必須です。それらにも多大
な力を投入する必要がある。
・・・今回の大災害に対して、もう一度腹をくくり直し、立ち向かっ
ていかねばならない。そんな思いを新たにした気仙沼再訪でした。
東北の旅を終えて、ようやく京都に帰ってきました。旅の荷を解
き、一息ついたところですが、少し日にちを遡って、旅の報告の
続編を書きたいと思います。まずは22日に陸前高田に続き、気仙
沼高校に自転車を届けて以降のことです。
この日、すべての自転車配りを終えた私たちは、アビスさんの車
の先導で、気仙沼の津波被災地を訪れました。僕にとっては2度目
の訪問でしたが、前回は封鎖されていて入れなかった地域もあり
ます。安全性が確保できていなかった場所です。
その地域に入って、一番に思ったのは、「まだこのような状況なの
か・・・」ということでした。このような状態というのは、津波で
大被害を受けた建物の多くが、まだ被害を受けたときのままの姿で
残っていることです。
とくに目立つのは大きく損壊した水産物加工工場です。だいたい3階
建て、4階建てぐらいの建物が多いのですが、外壁が壊れ、鉄骨も
グニャグニャになったままの姿でまだまだたくさん残っている。
5ヶ月と10日が経ったにもかかわらずです。
僕は1995年に起こった阪神・淡路大震災の時も、ボランティアとして
繰り返し現地に訪れましたが、少なくとも5ヶ月経った頃には、倒壊
したビルの多くが解体されていました。更地になり、まだ次のもの
は立てられていなかったけれども、残骸はあまりなかった。
ところが気仙沼では今も多くの残骸がそのままに残されています。
解体工事をしているところもたくさんありましたが、まだまだ解体
を待っている建物が多いのです。水産物を入れる発泡スチロールの
箱が、ビルの中から外に崩れ出したままになっている所もある。
さらに印象的なのは、陸地に乗り上げてしまった船がまだ何隻か残っ
ていることです。さすがに海に近い所の船は姿をけしていましたが、
旧気仙沼駅前にドンと鎮座して、何度も報道された数百トンの船は、
今もそのままに鎮座している。。
ここは5月の訪問の時に、仙台で泊めていただいた、”さおちゃん”
の実家があった場所。前回も訪れたところだったので、津波から5ヶ月、
前回訪問から3ヶ月経ってもあまりに変わっていないことに、何か
痛々しい感じがしました。
「これは大変なことだ」と思いました。今回の震災は、阪神・淡路
大震災よりはるかに大きく広範な規模を持っており、それだけに
復興のための資源を、一都市に集中することができない。そのため
津波で壊れた建物を撤去するだけでまだまだかかってしまうのです。
こうした現実は、あまり報道されなくなっているのではないでしょう
か。今なお、津波直後の状況と、あまり変わらない状態の場所がたく
さんある。復興への努力を報道することも大切ですが、僕はこのまだ
まだ変わらない姿も、もっときちんと伝えられなければと思います。
行政は、復興の目安を「避難所」の縮小、解消におきたがります。
みんな「仮設住宅」に移って、やれやれという自治体も多い。しかし
「仮設住宅」とて言葉を変えれば「避難者住宅」です。団地型避難
所に変わったに過ぎないことを私たちは知っておく必要がある。
「復興」は、旧来の地区の建物が解体・撤去され、再び家々が建てら
れて、はじめてなされていきます。ところが今回の場合、津波の被災
地に、再度、家々を建てるのか否かという大問題も横たわっています。
その判断にやっとこれから入っていかねばならないのです。
その意味で地域によっては、「復興」は不可能であり、新しい町の
創造が求められるところもあるでしょう。気仙沼の海岸地区もそれに
入るのではないか。そもそも海岸線の多くの場所が、液状化などによ
る地盤沈下で、土地そのものがなくなってしまってもいます。
アビスさんは、この海に沈んでしまった土地の姿をみると絶望的な
気持ちに襲われると語っていました。仮に再度の津波被害の可能性を
しりつつ復興を試みようと思ったとしても、その場自身がなくなって
しまっているからです。
復興、ないし、あらたな町の創造には、まだまだ本当に長い時間が
かかるし、たくさんの資源が必要です。被災していない地域の側は、
この現実をこそ直視し、今後もさまざまな形で、被災地への援助を
続ける必要があります。
僕自身はそれは一つの人間的義務だと思います。被災した人々を
助けるというよりも、私たちすべてがまだまだ被災状態の中にいる
と自覚することが大切だと思うのです。その上で、今後の有効な
市民的援助の方途も考えていく必要がある。
さらに大変深刻なのは、こうした事態の上に、放射線被曝の現実が
覆いかぶさっていることです。まだまだたくさんの地域からの避難
を進める必要があるし、「学童疎開」も必須です。それらにも多大
な力を投入する必要がある。
・・・今回の大災害に対して、もう一度腹をくくり直し、立ち向かっ
ていかねばならない。そんな思いを新たにした気仙沼再訪でした。