守田です。(20110827 09:00)
東北の旅の続きを書きたいと思います。20~22日の自転車配りの旅を
終えて、一関のアビス亭にお世話になった僕は、翌日23日に宮城県仙台市
太白区、24日に宮城県角田市を訪れ、それぞれ有機栽培農家さんに泊めて
いただきました。どちらも5月に知り合った方たちです。
今回の訪問は、この二つの地域で、市民による放射能の測定室が立ちあが
ることの取材をすることが目的でした。それぞれの詳しい案内は、また後
日、行いますが、これはこの地域で有機農業をされている方たちが、今後
いかに歩むのかを考え抜いた現段階での一つの結論としてあります。
その内容を紹介する前に、僕はみなさんに一つの提言をしたいと思います。
放射線内部被曝の恐怖から逃れるために、どうすれば私たちはより安全な
食べ物を得られるかです。あるいはどのように考えて行動することが、
私たちにとって一番安全な道になるのかです。
結論から言います。心ある生産者を守ること!このことにつきると僕は
思っています。心ある生産者とは、現在のお金儲けに傾いた産業のあり
方、その反映としての化学物質などをたくさん使った食料生産のあり方に
背をむけ、安全な食べものを作ろうとしてこられた方たちのことです。
講演会などで、よくどこの何を買えばよいのかという質問がでてきます。
肉は、魚はどこの地域のものを買えばよいのか。何を避けて、何を大丈夫
だと思えばいいのか。みなさん、切実な思いで質問されます。それに対し
て、お答えできる情報がある場合もあれば、ない場合もあります。
しかし僕はこうしたお答えをすることにそれほど意義を感じません。なぜ
かといえば、こうした考え方にはまっていくと、消費者の側が市場に振り
回されるだけになってしまうと思えるからです。安全な食べ物を得たいと
いうニーズは、それ自身があこぎなお金儲けの対象にもなりえるからです。
例えば今日、秋に収穫されるコメは大丈夫なのかという不安が広がってい
ます。ある有機農家さんは、コメの汚染は「基準値」を大きくは上回らない
のではないか、多くが流通に回るのではないかと推論していました。基準
値がかなり甘いためです。いや流通できるように考えられたのかもしれない。
これを見込んで始まっているのが、被災地以外のコメの買い占めです。
ネットを見ると、危機感を感じた消費者が、買い占めているかのように書
かれていますが、僕は個人が消費のためにコメを備蓄することは悪いこと
だとは思いません。しかし本当にそれが主軸なのだろうか。
むしろこの状況下で、転売のためのお米の買い占めが進んでいるのではな
いだろうか。コメの流通について、詳しくないので情報をつかみきれていま
せんが、そうだとすれば人道的に許されないことだと思います。しかし法
的には許されているので買い占めは進んでしまうのではないか。
そうなると、汚染されていないコメを得たいという人々の気持ちが、コメの
値段をあげていくことになり、不安を材料にしたあこぎな商売が成立してし
まう。それは他の食料についても同じことです。そうすると総体として、
安全な食料はより入手しにくくなっていく。
どこが安全かというのも同じ面がある。どこが安全かという情報は、すぐに
販売をする側にも伝わります。そうなると安全でないとされた産品が安く
買いたたかれ、それが加工食品の形で、産地が分からずに売りだされること
にもなる。これに盛んに行われている産地偽装も重なっていく。
つまり、どこどこが危険だ、どこどこが安全だという情報そのものが、被曝
が続くこの社会情勢の中で、人々の不安を利用して稼ごうとする人々にとっ
て、商売のネタになるわけです。だから例えばこうした論議がネット
でなされれば、それがチェックされ、対応がなされていくでしょう。
もちろん情報操作もなされやすくなります。ある程度、ストックした商品を
「これこそが安全だ」という情報を流しながら売ろうとするとか、対抗商品
を貶めるために、被曝情報を使うこともなされる可能性があります。そうし
たことが容認されているのが現在の市場だからです。
すでにはじまっていますが、放射能除去に効くとか、これを食べれば安心と
かいう商品も氾濫していくことでしょう。これまでもそうだったように、
その中に多くの出鱈目なものが混在しますが、公的なチェックがおいつかず、
市場に「放射能除去商品」が溢れていく可能性があります。
結局、こうした情報戦においては、消費者の側の方が不利なのです。そのた
め、これまでよりもお金を余計につかいながら、なおかつ安全なものを入手
できず、むしろより悪いものをつかまされたりする可能性もある。こうした
ことから消費者は身を守る必要があります。
ではどうすればいいのか。発想の転換が必要です。より安全なもの、また
放射能汚染されていたとしても、より濃度の少ないものを得るためには、
何より、それが私たちに供給される絶対条件である、より安全な食材の生産
者を守る必要があるということです。
この場合の生産者は、農の営みであれば、有機農業などで市場競争に背を向け、
常に安全なものを供給しようと志してきた生産者のことです。また必ずしも
有機農業ではなくても、より危険性を低減したものを供給しようとしてきた方
たちもそうで、線引きが難しい面もあります。
むしろ、現在の放射線被曝の現状の中で、できるだけ放射能汚染された食材の
出荷を避け、安全なものを供給しようとしてくれている方たちと考えた方が
いいし、そうしたことが採算的に成り立つようにし、そうした方たち自身が
増えやすいようにと考える必要があります。
大事なことは、今、こうした方たち、とくに福島原発に近く、自分の農場や
漁場などが汚染されてしまった方たちが、もの凄く悩み、傷つき、苦しんでい
るという事実です。より安全なものをと考える方たちこそ悩みが深い。取り
あえず出荷を断念して、腕を組んでうなっている方たちも多くいます。
ところがそのことで生じていると考えられるのは、現状でもより安全性の高
い食材から流通しなくなり、より化学薬品や抗生物質などが多いものが多
くなりはじめている可能性があるということです。非常に皮肉な状態です。
安全を心掛けた方たちが、真っ先に出荷をストップしているからです。
またそこまで徹底して考えてはこなくても、あこぎな儲けなどは考えずに、
真面目に働いてきた生産者の中にも、深い動揺や不安が広がっているように
思われます。何より出荷できるかどうかは、死活問題に直結してしまいます。
しかしあまりに緩い基準でいいのかという悩みも深くあると僕には思えます。
さらに深刻なのは、こうした状態の中で、生産者の間での亀裂が生じたり、
ぶつかりも生じかねないことです。例えばある有機農家が、自らの農場の
放射能汚染をつぶさに明らかにしたとする。するとその周辺の農家も営農が
苦しくなりかねない状況があります。
こうした状況を打開していくために必要なことは、まず何よりも、放射性物質
で汚染された地域の生産者すべてが被災者であり被害者であることをはっき
りとさせること、少なくとも私たちの中で、そうした認識を強め、深めていく
ことです。
ある有機農家さんが次のように語っていました。放射能汚染が基準値を越えた
ら補償があるが、越えななければ補償がないというのは、生産者として、あま
りに釈然としない。自分たちは畑に毒を撒かれた。少ないか多いかではなく、
毒を撒かれたこと自体が被害なのだ。
ところが自分たちに断りもなく「基準」を決めて、それ以下だったら売ればい
いから補償しないとされている。これはどう考えてもおかしい。人の家に毒の
あるゴミを撒いたら、まずそれだけで謝るべきことではないか。できるかどう
かに関わらず、ゴミの撤去は義務ではないか。そこがあまりに納得できないと。
・・・非常にまとをえていると思いました。出荷のための基準は、同時に補償
のための基準にもなっているのです。だから生産者の側は、出荷しないと生活
が成り立たない状況におかれている。それでも出荷を断念する方たちもいるわ
けですが、この構造自体に深い矛盾がある。
今、必要なのは、生産者と消費者の直接的な結びつきを強め、総体としてこの
国の中の食糧生産の安全性を高めるための努力を強めていくことだと思えます。
一体、この現状をどう打開していくのか、そのこと自身を一緒になって考えて
いく。その意味で営農や、漁業の行く末を消費者自身が考える必要があります。
もちろんこのように言うと、あまりに課題が広く、深く、雲をつかむような話に
感じられてしまいます。それで僕が考えたのが、こうした課題に取りくむ一つ
の糸口として、今、仙台市と角田市で生産者の側から始まった、放射能測定室
の立ち上げを取材し、それと消費者ないし市民の結びつきを促進することです。
放射線被曝の現状の中で、いかに食の安全を守っていくのか、そのために必要
なことの一つは、行政に頼らずに、生産者と消費者を含む市民の側で、まずは
食料汚染の実態、農場や漁場の汚染の現実をつかんでいくことです。その行為
を共にする中から次の展望を一緒に考えることが大事だと思えます。
今回の仙台市と角田市への旅は、そんな展望を抱いてのもので、実際に二軒の
農家を訪問し、またそこに集って下さったたくさんの方たちとお話をして、大
変有意義な情報を得て来ることができました。今後、そのことを何回かに分けて
報告させていただきます。
私たちの安全を守るためには、安全を守ってくれる人を守ることが一番の近道。
そのために今、生産者も消費者も何をなすべきなのか。どうかみなさん、この
ことをわがこととして一緒に考えていきましょう。
東北の旅の続きを書きたいと思います。20~22日の自転車配りの旅を
終えて、一関のアビス亭にお世話になった僕は、翌日23日に宮城県仙台市
太白区、24日に宮城県角田市を訪れ、それぞれ有機栽培農家さんに泊めて
いただきました。どちらも5月に知り合った方たちです。
今回の訪問は、この二つの地域で、市民による放射能の測定室が立ちあが
ることの取材をすることが目的でした。それぞれの詳しい案内は、また後
日、行いますが、これはこの地域で有機農業をされている方たちが、今後
いかに歩むのかを考え抜いた現段階での一つの結論としてあります。
その内容を紹介する前に、僕はみなさんに一つの提言をしたいと思います。
放射線内部被曝の恐怖から逃れるために、どうすれば私たちはより安全な
食べ物を得られるかです。あるいはどのように考えて行動することが、
私たちにとって一番安全な道になるのかです。
結論から言います。心ある生産者を守ること!このことにつきると僕は
思っています。心ある生産者とは、現在のお金儲けに傾いた産業のあり
方、その反映としての化学物質などをたくさん使った食料生産のあり方に
背をむけ、安全な食べものを作ろうとしてこられた方たちのことです。
講演会などで、よくどこの何を買えばよいのかという質問がでてきます。
肉は、魚はどこの地域のものを買えばよいのか。何を避けて、何を大丈夫
だと思えばいいのか。みなさん、切実な思いで質問されます。それに対し
て、お答えできる情報がある場合もあれば、ない場合もあります。
しかし僕はこうしたお答えをすることにそれほど意義を感じません。なぜ
かといえば、こうした考え方にはまっていくと、消費者の側が市場に振り
回されるだけになってしまうと思えるからです。安全な食べ物を得たいと
いうニーズは、それ自身があこぎなお金儲けの対象にもなりえるからです。
例えば今日、秋に収穫されるコメは大丈夫なのかという不安が広がってい
ます。ある有機農家さんは、コメの汚染は「基準値」を大きくは上回らない
のではないか、多くが流通に回るのではないかと推論していました。基準
値がかなり甘いためです。いや流通できるように考えられたのかもしれない。
これを見込んで始まっているのが、被災地以外のコメの買い占めです。
ネットを見ると、危機感を感じた消費者が、買い占めているかのように書
かれていますが、僕は個人が消費のためにコメを備蓄することは悪いこと
だとは思いません。しかし本当にそれが主軸なのだろうか。
むしろこの状況下で、転売のためのお米の買い占めが進んでいるのではな
いだろうか。コメの流通について、詳しくないので情報をつかみきれていま
せんが、そうだとすれば人道的に許されないことだと思います。しかし法
的には許されているので買い占めは進んでしまうのではないか。
そうなると、汚染されていないコメを得たいという人々の気持ちが、コメの
値段をあげていくことになり、不安を材料にしたあこぎな商売が成立してし
まう。それは他の食料についても同じことです。そうすると総体として、
安全な食料はより入手しにくくなっていく。
どこが安全かというのも同じ面がある。どこが安全かという情報は、すぐに
販売をする側にも伝わります。そうなると安全でないとされた産品が安く
買いたたかれ、それが加工食品の形で、産地が分からずに売りだされること
にもなる。これに盛んに行われている産地偽装も重なっていく。
つまり、どこどこが危険だ、どこどこが安全だという情報そのものが、被曝
が続くこの社会情勢の中で、人々の不安を利用して稼ごうとする人々にとっ
て、商売のネタになるわけです。だから例えばこうした論議がネット
でなされれば、それがチェックされ、対応がなされていくでしょう。
もちろん情報操作もなされやすくなります。ある程度、ストックした商品を
「これこそが安全だ」という情報を流しながら売ろうとするとか、対抗商品
を貶めるために、被曝情報を使うこともなされる可能性があります。そうし
たことが容認されているのが現在の市場だからです。
すでにはじまっていますが、放射能除去に効くとか、これを食べれば安心と
かいう商品も氾濫していくことでしょう。これまでもそうだったように、
その中に多くの出鱈目なものが混在しますが、公的なチェックがおいつかず、
市場に「放射能除去商品」が溢れていく可能性があります。
結局、こうした情報戦においては、消費者の側の方が不利なのです。そのた
め、これまでよりもお金を余計につかいながら、なおかつ安全なものを入手
できず、むしろより悪いものをつかまされたりする可能性もある。こうした
ことから消費者は身を守る必要があります。
ではどうすればいいのか。発想の転換が必要です。より安全なもの、また
放射能汚染されていたとしても、より濃度の少ないものを得るためには、
何より、それが私たちに供給される絶対条件である、より安全な食材の生産
者を守る必要があるということです。
この場合の生産者は、農の営みであれば、有機農業などで市場競争に背を向け、
常に安全なものを供給しようと志してきた生産者のことです。また必ずしも
有機農業ではなくても、より危険性を低減したものを供給しようとしてきた方
たちもそうで、線引きが難しい面もあります。
むしろ、現在の放射線被曝の現状の中で、できるだけ放射能汚染された食材の
出荷を避け、安全なものを供給しようとしてくれている方たちと考えた方が
いいし、そうしたことが採算的に成り立つようにし、そうした方たち自身が
増えやすいようにと考える必要があります。
大事なことは、今、こうした方たち、とくに福島原発に近く、自分の農場や
漁場などが汚染されてしまった方たちが、もの凄く悩み、傷つき、苦しんでい
るという事実です。より安全なものをと考える方たちこそ悩みが深い。取り
あえず出荷を断念して、腕を組んでうなっている方たちも多くいます。
ところがそのことで生じていると考えられるのは、現状でもより安全性の高
い食材から流通しなくなり、より化学薬品や抗生物質などが多いものが多
くなりはじめている可能性があるということです。非常に皮肉な状態です。
安全を心掛けた方たちが、真っ先に出荷をストップしているからです。
またそこまで徹底して考えてはこなくても、あこぎな儲けなどは考えずに、
真面目に働いてきた生産者の中にも、深い動揺や不安が広がっているように
思われます。何より出荷できるかどうかは、死活問題に直結してしまいます。
しかしあまりに緩い基準でいいのかという悩みも深くあると僕には思えます。
さらに深刻なのは、こうした状態の中で、生産者の間での亀裂が生じたり、
ぶつかりも生じかねないことです。例えばある有機農家が、自らの農場の
放射能汚染をつぶさに明らかにしたとする。するとその周辺の農家も営農が
苦しくなりかねない状況があります。
こうした状況を打開していくために必要なことは、まず何よりも、放射性物質
で汚染された地域の生産者すべてが被災者であり被害者であることをはっき
りとさせること、少なくとも私たちの中で、そうした認識を強め、深めていく
ことです。
ある有機農家さんが次のように語っていました。放射能汚染が基準値を越えた
ら補償があるが、越えななければ補償がないというのは、生産者として、あま
りに釈然としない。自分たちは畑に毒を撒かれた。少ないか多いかではなく、
毒を撒かれたこと自体が被害なのだ。
ところが自分たちに断りもなく「基準」を決めて、それ以下だったら売ればい
いから補償しないとされている。これはどう考えてもおかしい。人の家に毒の
あるゴミを撒いたら、まずそれだけで謝るべきことではないか。できるかどう
かに関わらず、ゴミの撤去は義務ではないか。そこがあまりに納得できないと。
・・・非常にまとをえていると思いました。出荷のための基準は、同時に補償
のための基準にもなっているのです。だから生産者の側は、出荷しないと生活
が成り立たない状況におかれている。それでも出荷を断念する方たちもいるわ
けですが、この構造自体に深い矛盾がある。
今、必要なのは、生産者と消費者の直接的な結びつきを強め、総体としてこの
国の中の食糧生産の安全性を高めるための努力を強めていくことだと思えます。
一体、この現状をどう打開していくのか、そのこと自身を一緒になって考えて
いく。その意味で営農や、漁業の行く末を消費者自身が考える必要があります。
もちろんこのように言うと、あまりに課題が広く、深く、雲をつかむような話に
感じられてしまいます。それで僕が考えたのが、こうした課題に取りくむ一つ
の糸口として、今、仙台市と角田市で生産者の側から始まった、放射能測定室
の立ち上げを取材し、それと消費者ないし市民の結びつきを促進することです。
放射線被曝の現状の中で、いかに食の安全を守っていくのか、そのために必要
なことの一つは、行政に頼らずに、生産者と消費者を含む市民の側で、まずは
食料汚染の実態、農場や漁場の汚染の現実をつかんでいくことです。その行為
を共にする中から次の展望を一緒に考えることが大事だと思えます。
今回の仙台市と角田市への旅は、そんな展望を抱いてのもので、実際に二軒の
農家を訪問し、またそこに集って下さったたくさんの方たちとお話をして、大
変有意義な情報を得て来ることができました。今後、そのことを何回かに分けて
報告させていただきます。
私たちの安全を守るためには、安全を守ってくれる人を守ることが一番の近道。
そのために今、生産者も消費者も何をなすべきなのか。どうかみなさん、この
ことをわがこととして一緒に考えていきましょう。