守田です。(20111110 23:30)
足立力也さんの福島再訪レポート2を転載します。圧巻です。
足立さんは僕よりもかなり線量の高いところに入って取材しています。
前にも訪れて、毎時500μSという飛んでもない値を計測した飯舘村長泥
地区で、前より下がっていたものの、「余裕で150μS超え」だったと
いいます。
なんと言えばいいのか・・・。正直、「危ないよ、足立さん」とも思い
ました。厳重防備でのぞまないと、その値を出している物質を体の中に
取り込みかねないからです。
しかしこうした物質が現にまだ大量にあること、それは風で今後も拡散
してしまう可能性があることを読み取っておくことが大事だと思います。
今回痛感したことですが、風は街道に沿って流れやすい。街道が谷間な
どを走っているからです。人が行き来するところほど、放射線物質も
また飛びやすいと言えると思います。
またなんとも胸が痛いのは、郡山市の郡山教組会館で行われた一こまです。
ここは足立さんの迫真のレポートを引用します。
***
その後の質疑応答は、郡山市民ならでは、
かつ放射能に関する意識の高い人ならではのものばかりだった。
ひとつ心を打ったのは、「チェルノブイリハート」
日本初症例ではないかという新生児を持つ父親の言葉だった。
10月に生まれたばかりの赤ちゃんには、心室と心房に
それぞれ1か所ずつ穴があいているというのだ。
これはまさにチェルノブイリハートと全く同じ症状だ。
しかし、医者に言っても、放射能との因果関係ははっきりしない。
そりゃそうだ。
放射線は、証拠を残さず人を殺していく「完全犯罪者」だ。
プルトニウムの内部被曝ですら、「証拠」を掴めるようになったのは
ごくごくつい最近の話。
***
ちなみにあるところで、この話を紹介したところ、僕もその心臓の傷害と、
福島第一原発事故の因果性がはっきりしないので、チェルノブイリハートの
ようだというのはおかしいという批判を事後に受けました。
確かに。足立さんも書いているように、因果関係が即座に示せないのが
放射線被害の特徴であり、このケースも事故との関連がない可能性もあると
思います。でも今は関連がある可能性があれば、それを前に出す必要がある
のではないでしょうか。その意味で僕は、そのお子さんのお父さんの勇気ある
発言と、それを紹介している足立さんのレポートにとても共感しました。
ともあれみなさま、足立さんのレポートをお読みください!
***************************
福島再訪レポートその2
2011年11月5日
10月30日、朝10時に郡山を出発。
まずは東へ向かい、20km圏内ぎりぎりを目指す。
田村市に入り、福島第一原発から25kmあたりで、
歩道を高圧洗浄機で「除染」していたグループを発見。
車を止め、話を聞いてみることに。
応じてくれたのは、郡山からボランティアで駆け付けた人だった。
除染前の周囲の環境線量は0.8μSvくらい。
歩道だけ水で流しているのだが、たかが歩道だけと甘く見ていたら
とんでもなく時間がかかっていて手間取っているという。
そりゃそうだろ。
しかも洗浄前が0.8μSv、洗浄後0.7μSv。
我々が示した線量計の数字を見て、ちょっとがっくりしていた。
さらには、歩道のすぐ脇にある側溝と土手では、2.6μSv。
なんぼ水で洗い流しても、風が吹き、雨が降れば元の黙阿弥。
徒労感だけが増していくといった状態で、とても「除染」とは言えない。
「除染」とは通常、放射線管理区域に指定されるような場所で
放射性物質を漏洩させた場合、一時間当たりでいうと最低でも
0.6μSv/h以下に徹底的に放射性物質をはぎ取り、
それを厳重に管理した上で処分し、上司に始末書を書いて
「すんませんでしたー!!!」と頭を下げるような大変な事態なのだが、
今言われてる「除染」というのはあまりにもお手軽でお粗末にも
ほどがあるものだ。
実際、田村市なんかで「除染」活動をやっている人たちにも、
徒労感があふれていた。
やってもやっても追い付かないし、一雨降れば、一風吹けば
また汚染される。
そうでなくてもフクイチからは新たにフレッシュな放射性物質が
飛んできて、何度も同じ作業を繰り返さないといけなくなる。
しかも、実際にやれることは限られている。
本来なら、新たに放射性物質が飛んでこないことを前提に、
ジェルなどではぎ取らないと無意味なのだ。
やっている人たちも、それを全く知らないわけではない。
が、やらずにはおれないのだ。
つまり、どちらかというと心理的空虚感を埋める作業と言っていい。
田村市では、組ごとに「除染」作業をするかどうかを決め、
すると決めたところがそれぞれ何らかの活動をしているそうだ。
やらないと決めたところは何もしない。
やると決めたところでも、無意味ないたちごっこだということは
先刻承知でやっている。
なんというむなしさと労力の浪費だろうか。
これは、「除染」という概念を誤って(意図的に)垂れ流した
政府、東電、マスコミに負うところが非常に大きいだろう。
被災者を余計疲弊させてどうすんだ?
これ以上罪を重ねてどうすんだ?
彼らには「あまり無理せず、ともかく高汚染度のところは
だいたいパターンが決まっているので、そこには近づかないように」
とだけ注意を促して、その場を離れた。
やがて20km圏が近づいたが、21kmくらいの場所で
「道路陥没のため通行禁止」という看板が立ち、
警察車両が止まっていた。
看板曰く、「これ以上侵入すると罰せられます」だと。
なんか論点がずれてる。
しょうがないので、そのあたりの線量を測ってみるが、
やはり0.8μSvくらいで、25km圏と大して変わらない。
そのちょっと手前、23km付近で、「ムシムシランド」という
カブトムシを集めたプチテーマパークみたいなものを発見。
きっと通常なら子どもたちを集める場所なのだろうが、
こんなところに子どもたちを連れていけるわけがない。
一抹のさみしさを感じる看板だった。
さて、こうしていてもしょうがないので、そこから北上する。
葛尾村に入った頃から、ぐんぐん線量が上昇し、
車内でも3μSvを超える。
さらに峠を越えると、5μ、6μと値が急激に上がっていく。
ある峠を越えたところで、「飯舘村」という石の標識を発見。
今となっては墓標にしか見えない。
坂を下って、さらにひとつ峠を越えると、高線量地域の
長泥地区に到着。
以前500μSv/hを超える数値を叩きだした恐怖のホットスポット再訪だ。
周囲の空間線量は12μSv/h。
十字路にある掲示板には、今でも毎日モニタリングポストで計測された
数値が1日1回更新されている。
今日は11μSv/h、5月に訪れた時とほとんど変わりがない。
で、件のスーパーホットスポットへ。
今回も同じように測ってみると、大分数値は下がっていた。
それでも余裕で150μSv超え。
いつでも死ねる、異常値もいいところだ。
何しろ、1年間で100mSvいくんだから。
この状態で、長泥地区の人たちは、避難する6月まで暮らしていた。
どんなに少なくとも、30mSvは外部被曝している。
それに加えて内部被曝がある。
彼らはどう考えてもヤバい。
同じ飯舘村で「まげねど!飯舘」などのプロジェクトを
主導しているIさんも、5月に案内してくれた時は、
それを知ってて、半ばやけっぱちで我々をホットスポットに
連れていってた。
さて、雨どいの下という状況が放射性物質を集積させているのだが、
そのほかの雨どいの下や雨が流れて集まるところを探してみると、
出るわ出るわ、50、60は当たり前、100超えも数か所見つかった。
あまりにも危険すぎる。
アンティエがぽそっともらした。
「プリピャチよりひどいわ」
プリピャチとは、チェルノブイリの労働者のためにつくられた、
当時人口5万人を誇ったニュータウンである。
事故当時の町の平均年齢は28歳、毎年1000人が生まれる
若くて活気に満ちあふれた街だった。
チェルノブイリからわずか3キロの地点にあり、
文字通り「原発によって栄えた町」だった。
それが一日にしてゴーストタウンと化し、16年の街の歴史が
突如として終わりを告げてしまったのだ。
長泥は、そこよりひどいというのである。
汚染物質がたまりやすい杉山に囲まれたこの地は、
恐らく最低でも数十年に渡って住むことができないだろう。
さて、今回のドイツ緑の党調査団の目的のひとつは、
土壌サンプルを持ち帰ること。どこがどれだけ汚染されているかという
より、どういった核種が出ているかを見ることにある。
というわけで、ホットスポット周辺の土壌サンプルを採取していると、
軽ワゴンが一台、ゆっくりと近づいてきた。
我々の目の前で停車すると、運転席からゆっくり出てきたのは、
初老の女性。
いかにも地元のおばちゃんといった風体の人だった。
さすがは地元のおばちゃん、福岡の人間である私には
何を言っているのか、8割は理解不能。
ドイツ語のほうがまだ分かるかも(笑)。
が、とりあえず夫の命日だったので線香を上げるために
自宅に帰ってきたこと、水が不安なので水の線量を
測ってくれないかということを言っていることだけは
かろうじて理解した。
マルクスに頼んで、彼女の家に案内してもらう。
ペットボトルに水を入れてもらい、そちらにセンサーを近づけて
測ってみるが、環境放射線量があまりにも高すぎて
(5~6μSv)、自らどれくらい出ているか、全く分からない。
試しに屋内に入って同じようにやってみると、
3.7μSvくらい。
家の中の環境の数値もそれくらい。
結局、水の数値は分からなかった。
10m以上掘った井戸水だというから、もしかしたらこの水は
大丈夫かもしれない。
しかし、環境放射線から隔離された状態で測らなければ
本当の数値は分からないため、正直に「この状態では分かりません。
汚染されているかもしれません。もしかしたら、地表の水が
井戸の水脈に落ちてくるまでは安全かもしれませんが、
ともかく水を測れる機関に依頼しないと分かりませんね」
と答えるしかなかった。
6月、着の身着のままで避難したそのおばちゃんの家は、
今でも人が住んでいるかのような生活感を漂わせていた。
机の上には果物が並び、洗濯物もそこかしこに放り出したまま。
避難まで時間があったにも関わらず、それまでは普段通りの
生活をしていたことがうかがえる。
なだけに、かえって心配が募る。
彼女は小さな農園を持っているが、そこの作物の心配もしていた。
正直、環境にこれだけ出ているくらいだから、
どこもかしこも放射性物質で汚染されていることは間違いない。
ましてや、そこの作物など、口に入れられるようなものではない。
このあたりは、初期はヨウ素、その後セシウムなどで汚染され、
ストロンチウムや、はてはプルトニウムまで発見されたところだ。
とてもじゃないが農業とか言っているような場合ではない。
それどころか、いくら命日でも、数時間滞在しただけで
何らかの危険性を伴う行為にもなりかねない。
ともかくこのおばちゃんが心配だ。
しかし、彼らからすると、そうも言っていられない。
これから雪が降る季節になる。
ほうっておくと、家がつぶれてしまうので、降雪対策を
しなければならない。
ということは、高濃度に汚染されている屋根の上にあがったり、
放射性物質が集積する、雨がしたたりおちる場所での作業を
余儀なくされてしまうのだ。
基本的に、そういった作業をできるような環境とは程遠い。
それは文字通り「命がけの作業」になってしまうのだ。
降雪対策をしないと家がつぶれるという切迫性は理解できるが、
かといって放射能対策を全くなしにやるのもまた自殺行為。
私たちにはどうしたらいいか分からなかったので、
彼女の家の周りにある、とりあえず雨どいの下などの
ホットスポットの数値を見せ、100μを超えていることを
我が目で見て確認してもらい、警戒感だけは植え付けた。
「そうは言っても…」と思うかもしれないが、
我々の警告を後になって思い出すかもしれない。
いや、思い出してほしい。
そのために、出来る限りの忠告はしておいた。
偶然の出会いだったが、心温まる、かつ寂しい出会いでもあった。
ここでこの日は時間切れ。
5時から、マルクス・アンティエさんと郡山市民との
集会が予定されていたからだ。
3時半に郡山のホテルに戻り、少し休んでから郡山教組会館へ。
意外と集まりはよく、50人近くの人が集まっていた。
彼らのプレゼンは、チェルノブイリで何が起こったか、
周辺の町はどのような変化を強いられたかが中心だった。
それに、昨日・今日見聞きしたエッセンスを加え、
講演は1時間で終了した。
その後の質疑応答は、郡山市民ならでは、
かつ放射能に関する意識の高い人ならではのものばかりだった。
ひとつ心を打ったのは、「チェルノブイリハート」
日本初症例ではないかという新生児を持つ父親の言葉だった。
10月に生まれたばかりの赤ちゃんには、心室と心房に
それぞれ1か所ずつ穴があいているというのだ。
これはまさにチェルノブイリハートと全く同じ症状だ。
しかし、医者に言っても、放射能との因果関係ははっきりしない。
そりゃそうだ。
放射線は、証拠を残さず人を殺していく「完全犯罪者」だ。
プルトニウムの内部被曝ですら、「証拠」を掴めるようになったのは
ごくごくつい最近の話。
内部被曝の核種がなんぼあるか考えただけで頭が痛くなる。
しかも、内部被曝によるガンや内臓疾患の医学的関連性を
証明するには、まだそれだけでは足りない。
途方に暮れるしかないというのが実情なのである。
そんな中でついに起きた、新生児の心疾患。
症例が出たのがあまりにも早すぎたため、彼らは補償などでは
このままだと必ずはじき出されてしまうだろう。
こうやって、弱い者がより弱い立場に追い込まれるのが
原発震災の構造であり、そもそも原発自体の構造なのである。
我々が変えなければならないのはエネルギー源ではなく
(いや、それも変えなければならないのだが)、その構造にある。
それを変えないことには、たとえ脱原発が成功したとしても、
違う問題で全く同じ構図がまた弱者をさらにいじめるだろう。
線量に関して高い意識を持つ人たちは、郡山市内の線量を
詳しく調べていた。
それを見て驚いたのだが、市内中心部でも60万ベクレルを
超える値が出ているのだ。
その数値は、ウクライナなら強制避難区域に相当する。
それ以外でもかなり高い数値がでていて、これもウクライナなら
避難権利区域、つまりいるのは構わないが、もし出ていくのなら
避難する権利を保障しますよという区域だ。
ところが今の郡山の一般的な状況はどうだ。
逃げる人はもうとっくの昔に逃げてしまい、
今残っている人は、放射能の被害は分かっているが
残ってなんとか頑張りたいという人か、
そんなの関係ねえとばかりに開き直っている人か、
本当に何も考えていない、もしくは知らない人だけである。
そんな中で、なんとか頑張りたいという人たちは、
農家だったり、医者だったり、それぞれの立場で何ができるか
必死に模索している。
自分たちで情報を探し、食品の検査をし、医者としての助言を与える。
国や自治体は何もしないから、自分たちでやるしかないのだ。
実に皮肉な形で、自治や民主主義が郡山に芽生えつつある。
郡山ですらこの状況だ。
朝、ホテルでTVを付けると、バラエティ番組の下で
各地の放射線量が流れていた。
それを見て驚いた。
郡山市役所の空間線量が1μSv/hと出ていたのだ。
これってすぐ逃げなきゃってくらいの値。
いや、ちょろっとその場にいるくらいだったら大したことないかもだが、
少なくとも恒常的に住んでいいような値じゃない。
しかし、その数字の意味を分かって住んでいる人が
いったいどれくらいいるのだろうか。
分からないからこそ、こういう数字が無味乾燥に流れているのでは
ないだろうか。
そう思わざるを得ないほどの線量だ。
そして多くの人たちが、その中で「日常的に生きる」ことを
積極的に、もしくは消極的に選んでいる、または選ばざるを得ない。
前日、全ての仕事を終えたマルクスとアンティエと
(ドイツ人だから(笑))ビールをひっかけに行く場所を探しに行って
駅前の居酒屋が数軒入っているビルに入った時、
最初に行った店では満席だというので入店を断られた。
週末の夜だったので皆飲みに出てきていたのだろう。
それはまさしく、「日常」そのものだった。
この線量下でこの日常というのが、私にはものすごい違和感を感じさせた。
結局、地震も津波も原発も、全くその被害は終わりを見せていない。
原発に至っては、いまだに大量の放射性物質を吐き出しているし、
それどころか核分裂反応さえまだ続いていることが判明した。
この期に及んで、ロクに補償すらせず、汚染された地域に
住まざるを得ない状況を作り上げているのは、未必の故意による
被曝者の大量生産に他ならない。
一刻も早い、強制避難区域の拡大と避難権利区域の創設、
移転・移住保障が必要だ。
それが、今回の福島訪問で私が出した結論だ。
---
以上で、今回の福島訪問記のレポートは終わりです。
最後に、マルクスが質疑応答で答えた一言。
質問「脱原発は可能か不可能かという議論ではなく、
やるかやらないかという話だと思うんですけど」
マルクス「それも違います。脱原発と再生可能エネルギーへの
転換はもう既定路線であり、逃れることができません。
問題はやるかやらないかという次元を既に超えており、
今の問題意識はそれをいつ始めるかということです」
その通り!
足立力也
**********
その1を掲載したアドレスを記しておきます。
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/6f44ef5804a680e50ee9451fe1943ea9
足立力也さんの福島再訪レポート2を転載します。圧巻です。
足立さんは僕よりもかなり線量の高いところに入って取材しています。
前にも訪れて、毎時500μSという飛んでもない値を計測した飯舘村長泥
地区で、前より下がっていたものの、「余裕で150μS超え」だったと
いいます。
なんと言えばいいのか・・・。正直、「危ないよ、足立さん」とも思い
ました。厳重防備でのぞまないと、その値を出している物質を体の中に
取り込みかねないからです。
しかしこうした物質が現にまだ大量にあること、それは風で今後も拡散
してしまう可能性があることを読み取っておくことが大事だと思います。
今回痛感したことですが、風は街道に沿って流れやすい。街道が谷間な
どを走っているからです。人が行き来するところほど、放射線物質も
また飛びやすいと言えると思います。
またなんとも胸が痛いのは、郡山市の郡山教組会館で行われた一こまです。
ここは足立さんの迫真のレポートを引用します。
***
その後の質疑応答は、郡山市民ならでは、
かつ放射能に関する意識の高い人ならではのものばかりだった。
ひとつ心を打ったのは、「チェルノブイリハート」
日本初症例ではないかという新生児を持つ父親の言葉だった。
10月に生まれたばかりの赤ちゃんには、心室と心房に
それぞれ1か所ずつ穴があいているというのだ。
これはまさにチェルノブイリハートと全く同じ症状だ。
しかし、医者に言っても、放射能との因果関係ははっきりしない。
そりゃそうだ。
放射線は、証拠を残さず人を殺していく「完全犯罪者」だ。
プルトニウムの内部被曝ですら、「証拠」を掴めるようになったのは
ごくごくつい最近の話。
***
ちなみにあるところで、この話を紹介したところ、僕もその心臓の傷害と、
福島第一原発事故の因果性がはっきりしないので、チェルノブイリハートの
ようだというのはおかしいという批判を事後に受けました。
確かに。足立さんも書いているように、因果関係が即座に示せないのが
放射線被害の特徴であり、このケースも事故との関連がない可能性もあると
思います。でも今は関連がある可能性があれば、それを前に出す必要がある
のではないでしょうか。その意味で僕は、そのお子さんのお父さんの勇気ある
発言と、それを紹介している足立さんのレポートにとても共感しました。
ともあれみなさま、足立さんのレポートをお読みください!
***************************
福島再訪レポートその2
2011年11月5日
10月30日、朝10時に郡山を出発。
まずは東へ向かい、20km圏内ぎりぎりを目指す。
田村市に入り、福島第一原発から25kmあたりで、
歩道を高圧洗浄機で「除染」していたグループを発見。
車を止め、話を聞いてみることに。
応じてくれたのは、郡山からボランティアで駆け付けた人だった。
除染前の周囲の環境線量は0.8μSvくらい。
歩道だけ水で流しているのだが、たかが歩道だけと甘く見ていたら
とんでもなく時間がかかっていて手間取っているという。
そりゃそうだろ。
しかも洗浄前が0.8μSv、洗浄後0.7μSv。
我々が示した線量計の数字を見て、ちょっとがっくりしていた。
さらには、歩道のすぐ脇にある側溝と土手では、2.6μSv。
なんぼ水で洗い流しても、風が吹き、雨が降れば元の黙阿弥。
徒労感だけが増していくといった状態で、とても「除染」とは言えない。
「除染」とは通常、放射線管理区域に指定されるような場所で
放射性物質を漏洩させた場合、一時間当たりでいうと最低でも
0.6μSv/h以下に徹底的に放射性物質をはぎ取り、
それを厳重に管理した上で処分し、上司に始末書を書いて
「すんませんでしたー!!!」と頭を下げるような大変な事態なのだが、
今言われてる「除染」というのはあまりにもお手軽でお粗末にも
ほどがあるものだ。
実際、田村市なんかで「除染」活動をやっている人たちにも、
徒労感があふれていた。
やってもやっても追い付かないし、一雨降れば、一風吹けば
また汚染される。
そうでなくてもフクイチからは新たにフレッシュな放射性物質が
飛んできて、何度も同じ作業を繰り返さないといけなくなる。
しかも、実際にやれることは限られている。
本来なら、新たに放射性物質が飛んでこないことを前提に、
ジェルなどではぎ取らないと無意味なのだ。
やっている人たちも、それを全く知らないわけではない。
が、やらずにはおれないのだ。
つまり、どちらかというと心理的空虚感を埋める作業と言っていい。
田村市では、組ごとに「除染」作業をするかどうかを決め、
すると決めたところがそれぞれ何らかの活動をしているそうだ。
やらないと決めたところは何もしない。
やると決めたところでも、無意味ないたちごっこだということは
先刻承知でやっている。
なんというむなしさと労力の浪費だろうか。
これは、「除染」という概念を誤って(意図的に)垂れ流した
政府、東電、マスコミに負うところが非常に大きいだろう。
被災者を余計疲弊させてどうすんだ?
これ以上罪を重ねてどうすんだ?
彼らには「あまり無理せず、ともかく高汚染度のところは
だいたいパターンが決まっているので、そこには近づかないように」
とだけ注意を促して、その場を離れた。
やがて20km圏が近づいたが、21kmくらいの場所で
「道路陥没のため通行禁止」という看板が立ち、
警察車両が止まっていた。
看板曰く、「これ以上侵入すると罰せられます」だと。
なんか論点がずれてる。
しょうがないので、そのあたりの線量を測ってみるが、
やはり0.8μSvくらいで、25km圏と大して変わらない。
そのちょっと手前、23km付近で、「ムシムシランド」という
カブトムシを集めたプチテーマパークみたいなものを発見。
きっと通常なら子どもたちを集める場所なのだろうが、
こんなところに子どもたちを連れていけるわけがない。
一抹のさみしさを感じる看板だった。
さて、こうしていてもしょうがないので、そこから北上する。
葛尾村に入った頃から、ぐんぐん線量が上昇し、
車内でも3μSvを超える。
さらに峠を越えると、5μ、6μと値が急激に上がっていく。
ある峠を越えたところで、「飯舘村」という石の標識を発見。
今となっては墓標にしか見えない。
坂を下って、さらにひとつ峠を越えると、高線量地域の
長泥地区に到着。
以前500μSv/hを超える数値を叩きだした恐怖のホットスポット再訪だ。
周囲の空間線量は12μSv/h。
十字路にある掲示板には、今でも毎日モニタリングポストで計測された
数値が1日1回更新されている。
今日は11μSv/h、5月に訪れた時とほとんど変わりがない。
で、件のスーパーホットスポットへ。
今回も同じように測ってみると、大分数値は下がっていた。
それでも余裕で150μSv超え。
いつでも死ねる、異常値もいいところだ。
何しろ、1年間で100mSvいくんだから。
この状態で、長泥地区の人たちは、避難する6月まで暮らしていた。
どんなに少なくとも、30mSvは外部被曝している。
それに加えて内部被曝がある。
彼らはどう考えてもヤバい。
同じ飯舘村で「まげねど!飯舘」などのプロジェクトを
主導しているIさんも、5月に案内してくれた時は、
それを知ってて、半ばやけっぱちで我々をホットスポットに
連れていってた。
さて、雨どいの下という状況が放射性物質を集積させているのだが、
そのほかの雨どいの下や雨が流れて集まるところを探してみると、
出るわ出るわ、50、60は当たり前、100超えも数か所見つかった。
あまりにも危険すぎる。
アンティエがぽそっともらした。
「プリピャチよりひどいわ」
プリピャチとは、チェルノブイリの労働者のためにつくられた、
当時人口5万人を誇ったニュータウンである。
事故当時の町の平均年齢は28歳、毎年1000人が生まれる
若くて活気に満ちあふれた街だった。
チェルノブイリからわずか3キロの地点にあり、
文字通り「原発によって栄えた町」だった。
それが一日にしてゴーストタウンと化し、16年の街の歴史が
突如として終わりを告げてしまったのだ。
長泥は、そこよりひどいというのである。
汚染物質がたまりやすい杉山に囲まれたこの地は、
恐らく最低でも数十年に渡って住むことができないだろう。
さて、今回のドイツ緑の党調査団の目的のひとつは、
土壌サンプルを持ち帰ること。どこがどれだけ汚染されているかという
より、どういった核種が出ているかを見ることにある。
というわけで、ホットスポット周辺の土壌サンプルを採取していると、
軽ワゴンが一台、ゆっくりと近づいてきた。
我々の目の前で停車すると、運転席からゆっくり出てきたのは、
初老の女性。
いかにも地元のおばちゃんといった風体の人だった。
さすがは地元のおばちゃん、福岡の人間である私には
何を言っているのか、8割は理解不能。
ドイツ語のほうがまだ分かるかも(笑)。
が、とりあえず夫の命日だったので線香を上げるために
自宅に帰ってきたこと、水が不安なので水の線量を
測ってくれないかということを言っていることだけは
かろうじて理解した。
マルクスに頼んで、彼女の家に案内してもらう。
ペットボトルに水を入れてもらい、そちらにセンサーを近づけて
測ってみるが、環境放射線量があまりにも高すぎて
(5~6μSv)、自らどれくらい出ているか、全く分からない。
試しに屋内に入って同じようにやってみると、
3.7μSvくらい。
家の中の環境の数値もそれくらい。
結局、水の数値は分からなかった。
10m以上掘った井戸水だというから、もしかしたらこの水は
大丈夫かもしれない。
しかし、環境放射線から隔離された状態で測らなければ
本当の数値は分からないため、正直に「この状態では分かりません。
汚染されているかもしれません。もしかしたら、地表の水が
井戸の水脈に落ちてくるまでは安全かもしれませんが、
ともかく水を測れる機関に依頼しないと分かりませんね」
と答えるしかなかった。
6月、着の身着のままで避難したそのおばちゃんの家は、
今でも人が住んでいるかのような生活感を漂わせていた。
机の上には果物が並び、洗濯物もそこかしこに放り出したまま。
避難まで時間があったにも関わらず、それまでは普段通りの
生活をしていたことがうかがえる。
なだけに、かえって心配が募る。
彼女は小さな農園を持っているが、そこの作物の心配もしていた。
正直、環境にこれだけ出ているくらいだから、
どこもかしこも放射性物質で汚染されていることは間違いない。
ましてや、そこの作物など、口に入れられるようなものではない。
このあたりは、初期はヨウ素、その後セシウムなどで汚染され、
ストロンチウムや、はてはプルトニウムまで発見されたところだ。
とてもじゃないが農業とか言っているような場合ではない。
それどころか、いくら命日でも、数時間滞在しただけで
何らかの危険性を伴う行為にもなりかねない。
ともかくこのおばちゃんが心配だ。
しかし、彼らからすると、そうも言っていられない。
これから雪が降る季節になる。
ほうっておくと、家がつぶれてしまうので、降雪対策を
しなければならない。
ということは、高濃度に汚染されている屋根の上にあがったり、
放射性物質が集積する、雨がしたたりおちる場所での作業を
余儀なくされてしまうのだ。
基本的に、そういった作業をできるような環境とは程遠い。
それは文字通り「命がけの作業」になってしまうのだ。
降雪対策をしないと家がつぶれるという切迫性は理解できるが、
かといって放射能対策を全くなしにやるのもまた自殺行為。
私たちにはどうしたらいいか分からなかったので、
彼女の家の周りにある、とりあえず雨どいの下などの
ホットスポットの数値を見せ、100μを超えていることを
我が目で見て確認してもらい、警戒感だけは植え付けた。
「そうは言っても…」と思うかもしれないが、
我々の警告を後になって思い出すかもしれない。
いや、思い出してほしい。
そのために、出来る限りの忠告はしておいた。
偶然の出会いだったが、心温まる、かつ寂しい出会いでもあった。
ここでこの日は時間切れ。
5時から、マルクス・アンティエさんと郡山市民との
集会が予定されていたからだ。
3時半に郡山のホテルに戻り、少し休んでから郡山教組会館へ。
意外と集まりはよく、50人近くの人が集まっていた。
彼らのプレゼンは、チェルノブイリで何が起こったか、
周辺の町はどのような変化を強いられたかが中心だった。
それに、昨日・今日見聞きしたエッセンスを加え、
講演は1時間で終了した。
その後の質疑応答は、郡山市民ならでは、
かつ放射能に関する意識の高い人ならではのものばかりだった。
ひとつ心を打ったのは、「チェルノブイリハート」
日本初症例ではないかという新生児を持つ父親の言葉だった。
10月に生まれたばかりの赤ちゃんには、心室と心房に
それぞれ1か所ずつ穴があいているというのだ。
これはまさにチェルノブイリハートと全く同じ症状だ。
しかし、医者に言っても、放射能との因果関係ははっきりしない。
そりゃそうだ。
放射線は、証拠を残さず人を殺していく「完全犯罪者」だ。
プルトニウムの内部被曝ですら、「証拠」を掴めるようになったのは
ごくごくつい最近の話。
内部被曝の核種がなんぼあるか考えただけで頭が痛くなる。
しかも、内部被曝によるガンや内臓疾患の医学的関連性を
証明するには、まだそれだけでは足りない。
途方に暮れるしかないというのが実情なのである。
そんな中でついに起きた、新生児の心疾患。
症例が出たのがあまりにも早すぎたため、彼らは補償などでは
このままだと必ずはじき出されてしまうだろう。
こうやって、弱い者がより弱い立場に追い込まれるのが
原発震災の構造であり、そもそも原発自体の構造なのである。
我々が変えなければならないのはエネルギー源ではなく
(いや、それも変えなければならないのだが)、その構造にある。
それを変えないことには、たとえ脱原発が成功したとしても、
違う問題で全く同じ構図がまた弱者をさらにいじめるだろう。
線量に関して高い意識を持つ人たちは、郡山市内の線量を
詳しく調べていた。
それを見て驚いたのだが、市内中心部でも60万ベクレルを
超える値が出ているのだ。
その数値は、ウクライナなら強制避難区域に相当する。
それ以外でもかなり高い数値がでていて、これもウクライナなら
避難権利区域、つまりいるのは構わないが、もし出ていくのなら
避難する権利を保障しますよという区域だ。
ところが今の郡山の一般的な状況はどうだ。
逃げる人はもうとっくの昔に逃げてしまい、
今残っている人は、放射能の被害は分かっているが
残ってなんとか頑張りたいという人か、
そんなの関係ねえとばかりに開き直っている人か、
本当に何も考えていない、もしくは知らない人だけである。
そんな中で、なんとか頑張りたいという人たちは、
農家だったり、医者だったり、それぞれの立場で何ができるか
必死に模索している。
自分たちで情報を探し、食品の検査をし、医者としての助言を与える。
国や自治体は何もしないから、自分たちでやるしかないのだ。
実に皮肉な形で、自治や民主主義が郡山に芽生えつつある。
郡山ですらこの状況だ。
朝、ホテルでTVを付けると、バラエティ番組の下で
各地の放射線量が流れていた。
それを見て驚いた。
郡山市役所の空間線量が1μSv/hと出ていたのだ。
これってすぐ逃げなきゃってくらいの値。
いや、ちょろっとその場にいるくらいだったら大したことないかもだが、
少なくとも恒常的に住んでいいような値じゃない。
しかし、その数字の意味を分かって住んでいる人が
いったいどれくらいいるのだろうか。
分からないからこそ、こういう数字が無味乾燥に流れているのでは
ないだろうか。
そう思わざるを得ないほどの線量だ。
そして多くの人たちが、その中で「日常的に生きる」ことを
積極的に、もしくは消極的に選んでいる、または選ばざるを得ない。
前日、全ての仕事を終えたマルクスとアンティエと
(ドイツ人だから(笑))ビールをひっかけに行く場所を探しに行って
駅前の居酒屋が数軒入っているビルに入った時、
最初に行った店では満席だというので入店を断られた。
週末の夜だったので皆飲みに出てきていたのだろう。
それはまさしく、「日常」そのものだった。
この線量下でこの日常というのが、私にはものすごい違和感を感じさせた。
結局、地震も津波も原発も、全くその被害は終わりを見せていない。
原発に至っては、いまだに大量の放射性物質を吐き出しているし、
それどころか核分裂反応さえまだ続いていることが判明した。
この期に及んで、ロクに補償すらせず、汚染された地域に
住まざるを得ない状況を作り上げているのは、未必の故意による
被曝者の大量生産に他ならない。
一刻も早い、強制避難区域の拡大と避難権利区域の創設、
移転・移住保障が必要だ。
それが、今回の福島訪問で私が出した結論だ。
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以上で、今回の福島訪問記のレポートは終わりです。
最後に、マルクスが質疑応答で答えた一言。
質問「脱原発は可能か不可能かという議論ではなく、
やるかやらないかという話だと思うんですけど」
マルクス「それも違います。脱原発と再生可能エネルギーへの
転換はもう既定路線であり、逃れることができません。
問題はやるかやらないかという次元を既に超えており、
今の問題意識はそれをいつ始めるかということです」
その通り!
足立力也
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