レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

キルキャウォーズ

2017-11-19 05:00:00 | 日記
レイキャビクでは先週の後半に雪が降りました。「十月に来る『通り雪』?が少し遅れてきたのだろうから、またすぐに暖かくなろう」と考えて、シャツも半袖のままで通したました。

ところが丸一週間経ったもいまだ雪は消えていません。時々チラチラして新雪を盛ったりさえしています。気温も零度あたりに落ち着いてしまったので、仕方なく半袖を長袖に替えました。実際、土曜の朝の週間天気予報では、今日からの一週間はず〜〜〜っと気温が0度以下になるそうです。なんというのでしょうか、「真冬週」?

シャツを長袖に替えたとは言っても、タンスの奥に置いてあった長袖シャツを手前に置き換え、半袖を奥にリバースしただけですが。アイスランドでは、外は冷えても屋内は暖かいことが多いので、下は半袖、上は冬物アノラック、というのがかなり有効なのです。一年中半袖、というのも決しておかしくはないでしょう。

ところで政治の方ですが、先の選挙の結果を受けての連立政権作りの交渉が進んでいます。私の予想よりはスムースに行っているようで。今回は緑の党を主犯政党にして、独立党、進歩党(という名前の保守党)の三党連立が現実のものとなりつつあります。

緑の党内部では、特に独立党との連立に反対する声もかなり上がっています。ですがカトリーン·ヤコブスドティールという、緑の党のカリスマ的な女性党首が首相になるのを望む声が世間では圧倒的に強く、この連立を後押ししています。この件ははっきりしてからまた。

さて今回はまたまた教会についてです。まあ、私にとっては「業界ネタ」ですので、書くことに不足しないというか、言いたいことがたくさんあるというか。

今回書くのは、先々週の末から先週半ばまでKirkjuthingiキルキュシンキという教会の会議が開かれていたことに関連します。Kirkja「キルキャ」というのが教会、thingi「シンキ」というのが何かを審議して決める会議を意味します。

国会のことをAlthingiと言いますが、Al「アル」はすべて、という意味なので、国のこと全般を審議するのがアルシンキ、国会であるわけです。キルキュシンキはその教会版です。




今回のキルキュシンキの舞台 Vidalinskirkja
Myndin er ur Kirkjukort.is


アイスランドの国民教会は、ジリジリと対総人口比率が下がっているとはいえ、それでも約70%の国民を有していますし、文字通り「全国規模」で展開しています。

ですから、何かを決議するにもそうそう週ごとに簡単に会って決める、ということはできません。そこで、毎年「何月の何日から何日まで」というように期間を定めて代表が集まり、集中して議論し決議するわけです。

代表は地域ごとにきちんと選挙で選ばれます。牧師のグループから14人、普通の信徒のグループから15人、計29人が「教会議会議員」となります。これに3人いる監督(ビショップ)らが加わって会議が開かれます。議長は信徒から選ばれます。

毎年十一月くらいにメインの会議が開かれ、年明けや春先に補完の会議が召集されます。先週はメインの会議であったわけです。...ですが、紛糾し、予定を一日はやめて閉会、年明けまで延期されました。

皆さんはキリスト教の教会というものについて、どのようなイメージをお持ちでしょうか? 牧師や神父のイメージと同じく、テレビや映画からの影響が強いのではないかと推測します。おそらくは「静かで、清く聖なる場所、集まり」といったものではないでしょうか?

それはそれで確かにそうだと思いますし、少なくとも、教会に集まる方々はそのようなものを求めていらっしゃると思います。そして実際にそのようになります、いつもではないとしても。

ただその反面で、というか、そのような「プラスの在り方」に並存して、教会には絶えず問題、紛糾、争いがあります。私の経験から言いますと、これは日本の教会、アイスランドの教会のどちらにも言えることです。

で、そのこと自体は、私は別に恥じることでも、後ろめたく感じることでもないと考えています。人が集まれば、問題も生じるのはごく自然なことでしょう。

教会というのは、まず、いの一番に「罪人(つみびと)」の集まりですからね。常に問題を抱えているのは、ある意味前提条件のようなものかもしれません。

ただ、それでも「教会」と言えるのは、その集まりが問題に飲み込まれてしまうことなく、和解と赦しを勝ち得て、あるべき姿に達しようと願い求めるところにあります。そしてそのようになることもあります。これは確かにあります。

よく、何か悲しい事件やいまいましい出来事があると「神様がいるなら、なんでこんなことが起こるんだ?」という声を聞くことがありますが、私の意見ではこれはまったくお門違いです。

問題があり、悲惨で厳しい世の中であるからこそ、私たちは神の助けを必要とし、かつキリストの赦しに救いを見出していく必要があるのです。「問題のある現実」というのは、私たちが生きていかねばならない生活の所与の条件だ、と受け入れなければいけばいでしょう。

さて今回、キルキュシンキが紛糾したのには、いくつかの問題があったのですが、その中のひとつが、ある牧師による教会内での「セクハラ」問題でした。最近ハリウッドから始まって、この「セクハラ告発」がブーム?のように北欧でも盛んになっています。アイスランドも例外ではありません。

とは言っても、今教会で告発されているセクハラは、もう随分前、夏の始めになされていたものでした。五人の教会内のスタッフが、ある同一男性牧師の立ち振る舞いを「セクハラ」と感じ、訴えたのです。

誤解を得ないよう、もう少しだけ詳しく伝えますが、これは女性の皆さんに性交渉を迫ったとか、乱暴しようとしたというセクハラではなく、一般的に挨拶の際にする「ほっぺにチュ」のキスが、この牧師の場合には行き過ぎた「ブチュ」になっていたようなのです。その際に「羽交い締めのようなハグ」もあったとか。

この告発自体は、もちろん真摯に扱われていますし、きちんとプロの有識者の手続きを経て吟味されています。問題となったのは、その部分ではなく、当該牧師が監督によって、捜査というか吟味期間中の「謹慎処分」とされたことにあります。

その牧師がこの処分を不満として、弁護士を通してマスコミに、処分を監督による「いじめ」として告発したのです。加えて「これはセクハラなどではなくて、単なる挨拶上の親しみの表現だ」と。複数の女性が不愉快に感じている事実は素通りのようです。私の個人的な意見では、あまり賢くないですね、この時点でこういう展開に持って行くのは。弁護の余地を自分で無くしている感があります。

加えて、そういう告発がなされたとなると、その内容いかんに関わらず。それを政治的目的で監督非難の餌として使い、自分の権益を求める輩が出てきます。そういうのが、残念ながら教会にも、教会議会内にもいるのです。

これらの輩の一派は狡猾で、スターウォーズに出てくる暗黒卿のシスの一派を思い浮かべていただいても構わないと思います。もちろん自分なりの「大義」はあるのでしょうけどね。「大義」は誰にでもあり得ますから。泣いても、激昂してもしょうがない。そういう面倒臭いのに対峙するのも民主主義の一部であると共に、キリスト信仰の一部なのです。トホッ...




新任牧師の按手式 先週の日曜日


先々週の日曜日、キルキュシンキが始まった翌日だったのですが、市内のカセドラルの教会でふたりの若い女性が、新たに按手を受け(任命式のようなもの)、牧師となりました。

そのうちのひとりが、私が関わっている「難民と共にする祈りの会」にも参加していたので、私も初めて按手式に証人牧師として参加させてもらいました。

長い間、勉強し、訓練を受け、願い望んできたことなので、当然のことながらふたりとも感激し、高揚していました。よくわかります。私も三十年弱前、そうでしたから。

もちろん、このふたりとも、教会が晴天の下のお花畑ではないことをよく承知しています。高揚が治まったら、さっそく教会版スターウォーズの世界に出向いていくことになるでしょう。

願わくは彼女らがずっとジェダイの側にいてくれますよう。始めはみんなジェダイの側なんですよ。そこから人間の弱みや欲に引きずられて、シスの虜になってしまう輩がでてきてしまうのです。さっき「大義」という言葉を使いましたが、「自分は正当に評価されていない」と感じたら、それも道を踏み外させる「大義」となり得ますからね。

確かにスターウォーズはあります、教会にも。というよりひとりひとりの心の中かな? Lord be with us.


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Home Page: www.toma.is


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