新町(洗馬橋)からスタートした街歩き。
次に向かうのは明八橋を渡って「古町エリア」です。
青物市場・魚市場
明八橋近くの川岸に青物市場と魚市場があった。野菜類は南は本庄、春竹、宇土方面から、北は島崎、花園、芳野村、河内から集まって来た。魚市場には島原、天草、筑後からは米、酒、薪炭を積んだ船が、高橋、小島、塩屋など河内海岸や宇土半島の網田、赤瀬からは魚を積んだ船が坪井川を遡ってきた。因みにこの市場は昭和38年に魚市場、同39年に青物市場が田崎市場へ移転した。
この日は10月だというのに真夏のような暑さで、結構体力消耗してきました。日陰日陰を選んで歩きます。
明八橋の上で記念撮影。
こうやって4人で街歩きしたのですが、洗馬橋電停前の文林堂のところで父の説明を聞いていた時に、ちょうど信号待ちしていた方がなんとなく父の説明に耳を傾けている気配。
「何の集まりですか?」と尋ねられました。
きっとこういう街歩きや歴史がお好きな方だったのではと思います。
きっとこういう街歩きや歴史がお好きな方だったのではと思います。
私もよく横浜で、ガイドさんについてぞろぞろと歩いている人たちと一緒になると、ついついガイドさんのお話に耳をすましたりしますもん。
3丁目御門(明八橋)
新町と古町をつなぐ橋で新町側に御門があつた。この門は柳御門或いは3丁目御門とよばれた。この門を潜ると熊本城内であるので門の管理は厳重であった。高麗門と同じく朝6時に開門夕方6時には閉門した。なお「明八橋」の由来は明治8年に眼鏡橋に架け替えられたことによる。橋の工作者は石工橋本勘五郞である。
全景の写真を撮るのを忘れたのですが、下の写真の右上に写っている丸い街灯は、大正時代の写真と同じデザインでした。
西唐人町
幕末から明治、大正にかけて清永家の全盛期。この町は清永家の町と言ってよいほど清永一族の商店が軒を並べていた。清永家の当主は代々板屋猪太郎を名乗る名字帯刀の家柄で、幕末ペリーが来たとき熊本藩は横浜本牧の警固を命じられるが、その軍用金3000両、5000 両を清永家の口利きで此の地の商人が用立てた。その証文が残っている。
景観形成建造物・町屋
明治期の建造物で市の指定を受けている。平成元年(1989 )市景観条例が制定され現在までに18 件が指定されている。
お昼ご飯は唐人町通の店を予約してました。
ここです。
築140年の町家を使ったレストラン「ピュアリィ」。
中はどうなってるんでしょう?
中はどうなってるんでしょう?
暖簾をくぐって、背戸やみたいなところを通り抜けていきます。
建物は2階建てで、通り側から入ったら、川に向かって一階分下りる形。
もとは米蔵だったという地下空間で食事しました。
なんとも味がありますね。
もとは米蔵だったという地下空間で食事しました。
なんとも味がありますね。
せっかくなので、川の方へ出てみました。
坪井川です。
むかしは舟運が盛んで、ここから荷物を出し入れしていたのですね。
先に見えるのが明治10年にかけられた「明十橋」。
先に見えるのが明治10年にかけられた「明十橋」。
明十橋から下流右岸には昔米の取引所があったのだそうです。
熊本米穀取引所跡
明治24年に熊本米穀取引所が開設され、昭和16年廃止されるまで相場師たちのいちかばちかの張り合いが展開されて活況を呈した。数十軒の取引仲買人の店舗が建ち並び、そこへ出入りする客を目当てに飲み屋、食い物屋が軒を並べて賑わった。
明治24年に熊本米穀取引所が開設され、昭和16年廃止されるまで相場師たちのいちかばちかの張り合いが展開されて活況を呈した。数十軒の取引仲買人の店舗が建ち並び、そこへ出入りする客を目当てに飲み屋、食い物屋が軒を並べて賑わった。
唐人町通りの中ほど、明十橋のところに立派な洋館が。
大正8年築の旧第一銀行熊本支店跡だそうです。
明十橋を新町側にわたったところからパチリ。
明十橋を新町側にわたったところからパチリ。
明十橋通り旧第1銀行跡大正8年第1帝国銀行熊本支店として開業、昭和47年熊本信用金庫唐人町支店となる。現在東京に本社のある空調機メーカーPS工業が空調機器の展示場及びイベント会場として活用している。
古川町・古庄本店
古荘財閥の母体は熊本市古川町の繊維問屋・古荘商店(現古荘本店)である。大正末から昭和の初めにかけて繊維事業に成功し、その勢いで銀丁百貨店、肥後無尽(のち肥後相互銀行)、大阿蘇観光道会社、熊本日産自動車、比島金貨メリヤス(マニラ)などを設立した。また、東京では日清生命保険、大分ではトキハ、小倉では井筒屋百貨店などを次々に傘下に収め、経営した。近代熊本の経済史を語るとき古庄商店の存在感は絶大なものがある。(松岡泰輔氏論文より一部引用)
鍛冶屋町通りは熊本一の高級商店街であった。久留米呉服店、油屋呉服店、森本襖表具店、小寺金物店、迫時計店、八木ラシャ店これらの商店は九州でも1,2 と言われる店構えであった。
鍛冶屋町通は唐人町通とは違うのかな?
お昼も食べて暑さもピーク。
そろそろ桜町バスターミナルに向かいます。
弾丸帰省なのでもう帰京しなくちゃなのです。
古川町にあったタクシー会社に荷馬車の車輪が飾ってありました。
このタクシーやさんも昔は馬車やさんだったのでしょうか?
電車通りをあるいて桜町まで来ると、
花畑広場ではちょうど「九州産交80周年」のイベントをやっていました。
ベンチで休憩していたら、大きなバスが到着してなかからセーラー服の女学生たちがわらわらと下りてきました。
「八代の白百合の制服じゃなかかな?」と父。
果たしてバスには「白百合女学園」の張り紙が。
すごいね、おとうさん。
楽器を運んだりしている様子、きっとこのイベントで演奏するのでしょう。
とおもっていたら、父がサッと女学生たちに話しかけています。
「何時からの出演ですか?」
もうすぐ次の出番のようです。
はつらつとした高校生がまぶしかったので、後姿をパチリ。
おまけ。
おまけ。
産交バス(回送)の行き先表示が80周年記念バージョンに。なってました。