宮地神仙道

「邪しき道に惑うなく わが墾道を直登双手
または 水位先生の御膝にかけて祈り奉れ。つとめよや。」(清水宗徳)

(道東の男たち)

2010年02月22日 | Weblog




♪A・r・i・e・s
http://www.youtube.com/watch?v=GY2s9LOMW6M


東遊 盗法の罪に身をやいて
東遊 「神祇師仙も 恐くない」

本部を手のひらで 転がすようにして
もてあそぶ 総務は 魔性の人格

私に言わせれば 表の顔なんか
偽りの装いで 魔性の仮面
虚言癖や 怪しさを
見破る道士は誰でしょう
誰が 誰が 誰が 誰が


東遊 売法の罪に身をやいて
東遊 「神集岳も 恐くない」

奪えば 冤罪して
売れば 儲けて
秘伝への情熱は 魔性の遊戯

神宝返還こそ 一番近道と
知りながら 遠ざかる 魔性の教祖

冒涜が燃える 激しさを
鎮める道士は 誰でしょう
誰が 誰が 誰が 誰が

東遊 偽証の罪に身をやいて
東遊 「請求いれば 恐くない」

東遊 搾取の罪に身をやいて
東遊 「蓄財すれば 恐くない」

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「私の内的な旅の記録Ⅴ」

2010年02月22日 | Weblog





前回からの続きです。

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【最後の審判】

モーツアルトは、「ドン・ジョバンニ」を通して、我々が内的平和に至るまでの
プロセスである、「神秘的な死」を伝えている。

では、物理的な肉体の死について、モーツアルトはどのように考えていたのだろうか。
それは、彼が父親宛の手紙で述べている、次のような言葉によって、知る事が出来る。

「死は、(厳密に捉えれば)僕らの生の最終目標なのですから……(中略)
僕は、死が我々を真の幸福への鍵である事を知る機会を与えてくれた事で、
神に感謝しています。」(モーツアルトの手紙 吉田秀和編訳)

この言葉から窺えるように、彼は肉体の死後も、我々の本質である霊魂は生き続け、
真実の世界へ帰っていくことを、知っていたと思う。

このような死生観は、このオペラの最後の審判の場面において、明確に示されている。
それは、悪人ドン・ジョバンニの霊的世界における裁きである。


まず、彼の手によって殺された騎士長が、霊的世界の法を司る審判官として、
ドン・ジョバンニの所にやって来る。
そして、未だ生きている彼を、死の審判へと招くのだ。
招きに応じた彼は、悔い改めるように忠告されるが、最後の最後まで拒み続ける。

そこで騎士長は消え、入れ替わるように悪魔達が現れる。
そして彼を、犯した罪にふさわしい、地獄の業火の中へと、引きずり込んでいくのだ。

この場面は、映画「アマデウス」においても紹介されていたが、モーツアルトの作品としては、
異常なほどの緊迫感で満ちた音楽が、物語のクライマックスを形作っている。


この裁きの少し前には、「もう飛ぶまいぞ、この蝶々は」の旋律が演奏される。
蝶々は、我々の解放された霊を象徴するのだが、ドン・ジョバンニと結びつける事によって、
一層、彼の霊魂は、もう救われない事が暗示されている。

そして、裁きが行われるのは、晩餐の時である。
豪華な食事をしているドン・ジョバンニの前に現れた騎士長は、次のように言う。


「天上の食物をとる者は、
地上の食物をとる必要はない」

天上の食物とは、魂の糧である。

すなわち彼は、物質的欲望を満たす事のみに専念して、精神的なものを培う事には、
何一つ興味を抱く事もなかたのだ。

石のように頑なになった彼の心は、悔い改めよという最後の警告さえも、受け入れる事が
出来ない。


「ドン・ジョバンニ」は、ダンテの「神曲」を参考にしたとも言われている。
「神曲」で示された死後の世界を描いた画家は大変多く、ミケランジェロの「最後の審判」も、
その一つで、地獄に落ちた人々の叫びが伝わってくるような情景がある。


そして、ドン・ジョバンニの地獄落ちの場面の音楽は、「最後の審判」を音で表現したような、
恐ろしいほどの迫力をもって、我々の心に訴えかける。

(アマデウスのドン・ジョバンニのシーン)
http://www.youtube.com/watch?v=Ph5WAsfinTY


この場面の音楽を聞く時、私は惰性に過ごしている生活を悔い、心から改めようと決意せずには
いられない。
それは私の、この世的な欲望を粉々に打ち砕き、ダンテが「神曲」で描いた世界を、身近に
感じさせてくれるからだ。


【少数の理解者】

こうしてドン・ジョバンニが葬られると、平和がやって来る。
そして最後に、次のように歌われて、このオペラは幕を閉じる。

「これが悪事の果て!
罪深い者たちの死はいつも、
彼らの生命に、同じ報いを受けるのだ」


モーツアルトは、このオペラ「ドン・ジョバンニ」を、少数の友人と、自分の為に書いた、と
言っている。
なぜなら、「性の神秘」は、その当時、一般には明かされない教えだったので、モーツアルトは
象徴的な表現を用いなければならなかったからだ。
ふしだらな貴族、ドン・ジョバンニの伝説は、そのメッセージを伝えるには、格好の題材だったの
だろう。


モーツアルトは、音楽によって、我々に真実を伝えたのだ。
その偉大な仕事の数々も、彼にとっては、きっと永遠なる世界へ向けての旅支度だったのかも
しれない。

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「私の内的な旅の記録」は、これで完結です。


以下、ノーシスの「プラクティカル・マジック」からです。

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【メンタル体の病】

メンタル体は、一つの体の作りであり、オカルト的な超自然性を持つ有機体である。

このマントラは、メンタル体の病を治療するためのものである。

「スー・ムー・ホーン(S M HON)」

「S」は、耳につんざく歯擦音で発音され、圧縮空気のブレーキが出す音に似ており、このようである。
「スーーーーーーーーー(SSSSSSSSSSSSSS)」

「M」は、雄牛の鳴き声を真似して発音される。
「ムーーーーーーー(MMMMMMMMMMM)」

「H」は、深いため息のようであり、「ON」は、「O」の音を伸ばして、このように発音される。
「オーーーーーーンーーーーーー(OOOOOOONNNNNNNN)」

 

このマントラは、毎日一時間、発声しなければならない。
学徒は毎日、大天使ラファエルと、ヘルメス・トリスメギストスを呼び求め、
メンタル体の癒しを彼らに願うのである。

メンタル体の病が肉体の脳で結晶化する時、その結果が狂気である。

我々は、賢明な世界の中で、人間の内側の体の作りと生理学を学ぶ。

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