
この呪を誦す事で 諸仏の加持を受ける事ができるとされます。
「ヤン・ラン・ナ・ナン・マン。」
この呪を誦す事で 舎利を結成できるとされます。
「ナモ・サンマンタ・バッセツラナン
バッセツラ・タンマクコン。」
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精神論、根性論は本当に最低
根性論者は「頑張れ」「諦めるな」と人に言うだけで
その助言の殆どが具体性が全く欠けてます。
彼らにそう言われている方はそもそも現状を良くするためには
「何をどう頑張ったら良いのかわからない」状態の人間が多いのです。
精神根性論を蔓延させておけば、
環境に不満を持つ人を減らせて、支配に便利だからだろ。
ちょっと頭使えば5の労力で済む事柄に、ただただ闇雲に猪突猛進で
10の労力を懸けることが、何か貴い事かのごとき思考をする馬鹿が多いんだよな。
(コンプレックスの裏返しから)理性・知性・思考を拒絶して、
苦労することが自己目的化した苦労を重ねたところで、人間が高められるどころか、
ただ単に意固地で柔軟性を欠いた嫌われ者の馬鹿老人になってくだけなのにね。
俺は努力根性は否定していない
しかし、一手段に過ぎない努力や根性を、
他の様々な手段よりもありがたがる精神論根性論は否定する。
例えば折角より効率よい方法を現場で採用しても、
バカ精神論者が、それは怠けているとかわけわかんない事を言い出す。
ようは変化するのが嫌で、精神論に安住していたいだけだ。
とりあえず自分はがんばったというエクスキューズが出来るからな。
旧日本軍で、現場からの提案をバカ指揮官が、
皇軍の精神にそぐわないという意味不明な理由却下し、
どんどん被害を拡大させたのとおんなじ。
んでもって自体の深刻さがようやくわかって慌てて採用したときには時すでに遅し。
努力、根性なんて言葉使うのは、自分の無知と発言の理不尽さを自覚できない痴呆。
あるいは遠まわしに相手の人格を否定、中傷するときに使う言葉。
仕事の質問をするとまず最初に怒鳴られる。
努力だ根性だと人に言う奴は、他人の人生を映画かドラマだかだと思ってるんだろう。
挫折したりもがき苦しむ人を見て、自分が満足したいだけ。
結局のところ、精神論・根性論を唱える人間は、
手段として精神論があるのではなく、目的として精神論を使ってしまっている。
精神論とか根性論は、ラーメンにかけるコショウのようなものだ。
自分のラーメンに少量かけるのなら、味が引き締まってうまくなる。
他人に向かって精神論、根性論を説くのは、人の食べているラーメンに
勝手にコショウをどばどばかけるようなものだ。
まずくてラーメンが食えなくなる。
「アレルギーが治らないのは努力が足りないからだ。
皆アレルギーなんて無い。お前だけアレルギーなのはおかしい」
→本人の意思の外の問題だろうが!遠まわしに中傷してるし。
自分に文句の言えない人には偉そうにする癖に、
自分より上の立場の人には、陰で愚痴る事しか出来ない。
弱みを持った人には、偉そうに無理な事を強いて、
その癖、自分は言われた事もろくに出来ない無能ぶり。
「お前に~が出来るか?」とか言って、
その立場では出来て当たり前な事をひけらかす。
日本館がスタートしたころ、日本のある茶道の家元で5年間内弟子をしたアメリカ人の方
が快くボランテアを引き受けてくださり、見事な指導で多くのアメリカ人の方に喜んでい
ただいたのですが、ある日一通の手紙が届きました。
その手紙の内容は、私たちの活動、
すなわち当時クラスを開いていた合気道はもちろん、お花,お茶、書道、日本語などすべ
てにおよび「アメリカ人にそう簡単に日本文化を安売りしては困る。
第一、いくらお茶の作法動作が出来ても日本人の精神は指導できない」という内容でした。
これなどは一見愛国主義的に装っているけれど、強い自民族中心主義(ethnocentrism)による拒絶反応に
過ぎません。
米国のすし店で日本人学生アルバイトの俄か板前よりはるかに良い仕事をするアメリカ人がすしを握っても、
それを認めない日本人は意外と多いのです。
1960年代、アメリカはブルースリーブーム。当時は街の角々に道場がありました。
日本の武道家も、個人で大きな野望を持って来た者、
あるいは正式に組織団体から派遣された者などが、「サムライ根性、大和魂、」と、
あたかも斬り込み隊のごとく押し寄せまし
た。「アメ公に日本人魂叩き込んでやる」。そんな言葉が飛び交いました。そして40年、
柔道はもう大和魂などと豪語できなくり、伝統空手は他国の選手にトロフィーを奪われ,
それどころか入門者不足から優秀な選手が育たず、加えて、日本人師範も高齢化が進み、
ますますの生徒離れが進んでいます。あれほどあった日本武道道場もだいぶ少なくなった
にもかかわらず、日本人指導者は「武道道場もだいぶ整理されて来た、これからは本物が
残る。良いことだ」と実に現状認識に乏しい解釈をしています。