叔母から電話があったのは4日のお昼過ぎのことだった。
3日の午後に亡くなって、お通夜は4日。
連絡を受けて落ち着かない時間を過ごし、17時前に夫と共に斎場に向かった。
そして今日、5日。告別式には私だけが参列し、最期のお別れをした。
従弟、58歳。
本当に残念でならない。
叔母から電話があったのは4日のお昼過ぎのことだった。
3日の午後に亡くなって、お通夜は4日。
連絡を受けて落ち着かない時間を過ごし、17時前に夫と共に斎場に向かった。
そして今日、5日。告別式には私だけが参列し、最期のお別れをした。
従弟、58歳。
本当に残念でならない。
今朝はとても気持ちが重たかった。
原因はきっと昨日の叔母への電話
叔母には二人の息子がいる。長男は横浜に、そして次男は札幌に住んでいる。
連れ合いを亡くしてから、叔母は毎年GW前からお盆の頃まで、独身の長男のところで過ごすようになった。今年も25日の土曜日に発つと聞いていたので、その前にと思って電話したのだったが。
行くのは止めた と言う。
次男が病を得て治療中だというのは前に電話した時に聞いていた。その病状が思ったより悪いらしい。と言うか、もうダメらしい。
自分が行っても、もう言葉も出ない。話も出来ずに、辛そうな息子を見ているだけというのも切ない。お嫁さんが毎日行っているので、もうお嫁さんに任せるしかない。
そう話す叔母の憔悴した様子が目に見えるようで、でも私に出来る事は何も無い。
叔母は多分84歳。次男はまだ60歳になっていない。
私が相続した実家に息子家族が住むようになって2年が過ぎた。
このままいけばいずれは息子のものになる土地・家屋だが、相続時精算課税を使って息子に渡す事を考えた。その制度を使うには贈与者と受贈者の年齢条件があって、来年になるまでは条件が整わない。なので今年中に税務署に詳細を聞きに行きたいと思っていた。
急ぐ事ではないので延び延びになっていたが、雪の降る時季も近づいてきた。どうせ行くなら雪が降る前が良い。小春日和の今日だと思って行ってきた。
相続時精算課税は贈与になるのだ。ただ価格が2500万以下だと贈与税はかからない。
2500万を超えたら超えた分に対して贈与税がかかる。ただし、私が死亡して相続が開始された時、相続財産が基礎控除額内だったら先に支払った贈与税は返還される。
贈与になるので、当然私のものではなくなる。従って不動産の売買、住宅の建て替えは息子次第ということだ。
問題は、相続だと必要のない不動産取得税がかかるということ。
さらに、不動産の名義変更にかかる登録免許税がの制度を使った時と私が死亡後とでは違うはず。
税務署での相談を終えたあと、すぐ近くにある法務局へ登録免許税の金額がどのくらいになるか聞きに行った。
窓口の人の対応は親切で、私が持参した納税通知書を見てすぐ計算してくれたが・・・私が実家を相続した時に支払った金額よりずーっと多い。
登録免許税も、贈与と相続ではかなり税率が違うのだ。 なんと、相続時の5倍も多い。 こんなに違うとは思わなかった。
税務署では不動産取得税の額を計算してくれなかったので金額は分からない。私が計算したところ建物にかかる取得税は63,000円くらいと思われるが、土地の場合は固定資産税課税標準額と固定資産税評価額が違うらしいので土地の分の取得税は不明だ。それでも建物よりも大きい金額になるのは間違いないだろう。これは相続だったら必要のない金額なのだ。
それだけの金額を払って息子の名義にする必要はないだろうというのが私の結論だ。
25日、夫と共にお通夜に行ってきた。
その夜のお通夜は3組あって、駐車場は満杯。斎場建物の壁際に縦列駐車するようであった。警備員さんが「なるべく早く出るように協力して下さい」と言ったけれど、式が終わらなければどうしようもない。
駐車場に入る車の列が長く、時間がかかったので式場に入ったのはお通夜が始まる10分前。後方の椅子に座っていると、義妹のお姉さんが私たちに気がついて前方へいざなってくれた。
弟と義妹が近寄ってきた。
私の顔を見て、義妹は泣きだした。
「お兄さんはお悪かったの」と聞くと、泣きながら「突然だったの。おかあさんと同じ」と言う。大切な人を突然に亡くすという同じ経験をした私に、感情を抑えきれなかったのだろうか。
義妹のお兄さんが亡くなったのは23日早朝だったという。
前日まで元気で畑の雪割などこなし、所属している消防団の人たちとの会合にも出たそうだ。
翌朝、なかなか起きてこない息子に声をかけようとしたお母さんが倒れている息子を発見したという。
義妹のお父さんが認知症で入院中というのも、その時に聞いた。
一緒に暮らしていた息子が亡くなって、お母さんはひとり家に残された訳だ。これからお母さんを支えていくのは義妹と、そのお姉さんになる。
喪主を務めた、故人の長男は仙台に住んでいるというから、色々な始末もこちらに住んでいる義妹とそのお姉さんがやらなければならないだろう。
畑の方も今年の植え付けの準備もしてあると言うから、その事も考えなければならず大変な事だな、と思う。
今朝、新聞の死亡欄を見ていてびっくりした
義妹(弟の連れ合い)の実家で不幸があったようだ。それが親なら驚く事はないのだが、亡くなったのは義妹のお兄さん。奥さんは親との折り合いが悪かったようで、かなり前に離婚していた。なので喪主は故人の長男がするようだ。
義妹の実家は農家で、ご両親はもう90歳前後になる。随分前からお兄さんが家督を継いで営農していたが、お兄さんが亡くなってしまっては農家を続ける事は無理だろう。
同居していた息子が亡くなって、高齢のご両親が遺されたのも大変な事だ。
死亡欄を見て最初に思ったのは「お通夜に行かなきゃ」という事だった。
でも、よく考えてみれば義妹の親ではなく兄。
夫の兄・姉が亡くなっても私の弟が通夜に来る事はないだろう。
きょうだいの連れ合いのきょうだいという関係は、よほど親しくないと通夜どころか香典の心配もしない土地柄だけれど、私が「行かなきゃ」と思ったのは(故人が両親と同居していたので)義妹の実家の不幸だから。
参列するかどうか、迷ったなら行った方が良いのだ。
と思って今夜はお通夜に行く。
12月15日で、父が旅立ってから2年になる。
弟から連絡があって、三回忌の法要を行ったのは12月8日。墓前で読経をお願いするだけの簡素なものだ。費用は読経代と供花・供物代だけで、それは折半した。
夫の姉(長女)の連れ合いが悪いとの連絡があったのは11月末だった。
父の法要を終えたあと息子家族と昼食を取って、それから夫と二人で長女宅へ向かった。義兄は入院はしたくないと言い、痛み止めを処方されて自宅療養中だ。
義兄は短い時間であっても体を起こすし、自分でトイレにも行く。しっかりとした言葉で会話もする。少量でも、まだ口から食べ物を摂取する事も出来る。
本人の希望で自宅で生活しているが、病院はいつでも受け入れてくれるというし、一人娘が婿殿と二世帯で住んでいるというのも心強いことだ。近くには妹(三女)夫婦もいて、何かと力になってくれそうだ。
義兄を見ていて晩年の父を思った。年齢が近いという事もあっただろうし(父は生きていれば88歳)同じような病で末期という事もあっただろう。
父が入院となるまでの辛い日々、私を支えてくれたのは弟ではなく施設のスタッフさんだった。入院して中心静脈栄養で生命をつなぎ、滅多に声を出す事も無くなった父のところへ毎日通ったけれど、私に寄り添ってくれたのは看護師さんだった。
夫が、挫けそうな私の背中を押してくれたことなどを思い出しながら切なくなったのは、その日法要を終えたばかりという事も大きかったのだろうと思う。
毎月、積雪の時季になるまでは母の月命日にお墓参りに行く。
今月は体調が整わず、おまけに天気も悪いようで「行けないかも」と思っていたのだが、予想していたほどの悪天ではなかったので午前中に行ってお参りしてきた。
来月は父の三回忌になる。まだ弟から連絡は無いが、墓前に集まって読経をお願いする形の法要はするだろう。それが終わったら、春まではお墓参りには行けない。
行き帰りの途中、雪がちらついてきた この程度で終わるなら良い、と思ったのだが。
午後になって本格的に降りだしてきた 路温がある道路はまだ雪が降っても溶けるが、家の周りは真っ白になってきた。週末はまた気温が上がるようだけれど・・・あ~あ、憂鬱な季節だ。
毎年、7月の末に実家の梅を収穫する。
その収穫も予定に入れて梅を漬けるのに、今年は全く収穫が見込めない。実がほとんど成っていないのだ。
今年はスーパーで売っている梅も値が下がらなかった。これ以上待っていたら店頭から消えてしまうと思うまで待ったけれど、結局780円(kg)より下がる気配は無い。その値段で買って6キロ漬けたけれど・・・
子供たちに送って、我が家で年間消費するのにあと3~4キロ漬けたかったな。
実家の梅が実を結ばなかったのは、息子夫婦が住むようになって私の手を離れた家 だからだろうか。
なんだか寂しい気がする。
2年前のこの日、私は父のところにいた。
二人並んでベッドに腰掛けて話していたところに大きな揺れ
驚いて居室から廊下の様子を見ていたら、父が「テレビをつけてみろ」という。
東北地方の地震と知ったが、被害の大きさはまだ分からなかった。
大きな地震だったので無人の実家も気になり、父のもとから実家へと向かった。途中、娘からひどい揺れだったけれど大丈夫?とのメールが入った。この時は地震の被害の大きさも、首都圏の交通の乱れもまだ予測できなかった。
被害の大きさを知ったのは自宅に戻った17時過ぎ。
娘とも連絡はとれなくなったが、揺れのすぐあとにメールを交わして無事を確認出来ていたので心配は少なく済んだ。その日娘は会社に足止めとなったという事を知ったのは、翌日。携帯の災害伝言版によってだった。
交通が遮断され徒歩で帰宅した人もいた事を知った後では、会社に足止めされた事はラッキーだったと思った。
2011年3月11日
この日の映像を見ると胸が苦しくなり涙もにじんでくる。混乱の日々を思い出す。
それと同時にまだベッドに座る事が出来、テレビをつけるという判断も出来た父の事を思い出す。
この日から数ヵ月後にはベッドから起き上がることも難しくなり、10月に受診した後は気を抜けない日が続くこととなった。疲れに押しつぶされそうになりながら父を見守った、辛く切ない日々を思い出す。
沖縄から戻ったのは6月25日(月曜日)だったが、その週末の日曜日に義母の七回忌が執り行われた。
三回忌は子供たちだけで(と言っても総勢14人!)行ったのだが、今回は我が家の息子も含めて孫も数名出席。
義兄は我が息子に案内を出すか迷ったらしいが、うらら家の姓を名乗る唯一の孫と言う事で我が息子にも案内状が届いた。
7名の兄弟姉妹が揃うのは三回忌以来。
その席で話題になったのは脳梗塞で入院している四女の夫の事だったり、乳がんで手術した長男の妻の事だったり。また、夫の激やせぶりも話に上った。
介護が終わってしまえば、高齢になった兄弟姉妹の話題は病気しかない。
長男は妻の病気でかなり参ったようで一時は痩せたのだが、連れ合いが退院して落ち着いたのか、いまは元に戻った。
姉たちは持病がないわけではないが、みんな元気だ。
長女は85歳くらいだと思うが(私の母より年上)元気で商店を切り盛りしている。次女もペースメーカーを装着してはいるが、やっぱり元気で庭仕事に精出している。三女などはまだ働いているし、五女は高齢者のお弁当宅配のボランティアのために、普通車から軽自動車に買い替えて動き回っている。
ただ、四女はもうじき夫が退院してきて在宅介護になるので大変そうだ。
歩行介助から食事の介助もしなければならないようで、膝・腰の不安を抱えている四女に負担は大きいだろうと思う。
自分の病気が話題になったことだけで気分が落ちたと言う我が夫が一番元気がないように思われたほど、女性陣は元気だ。
それから6日後、7月7日(土曜日)に、読経をお願いするだけの簡素なものではあったが私の母の七回忌を行った。
食事を共にして故人を偲ぶという法要ではなかったので、それぞれに墓参をして読経をお願いするだけでも良いかもと思わない訳ではなかったが、姉弟がともに墓前に参るだけでも両親の供養になると考えた。
法要は僅か30分で終わったが、会食をしても気づまりな雰囲気になりそうで、これはこれで良かったと思う。