乱鳥の書きなぐり

遅寝短眠、起床遊喰、趣味没頭、興味津々、一進二退、千鳥前進、見聞散歩、読書妄想、美術芝居、満員御礼、感謝合掌、誤字御免、

中性脂肪改善、go!  1

2022-07-04 | 乱鳥徒然 Rancho's room.

 中性脂肪改善、go!  1

 

 

 1 栄養バランスのよい食事を腹八分目に

 2 不必要な脂肪をとりすぎない

 3 炭水化物をとりすぎない

 4 アルコールを控える

 5 1日30分以上の有酸素運動を、週3回行う

 6 毎日1万歩を目標に

 

 

 1 栄養バランスのよい食事を腹八分目

   腹八分目か、、、なかなか難しい^^

 

 2 不必要な脂肪をとりすぎない

   脂肪を取りすぎない、、、努力します^^

 3 炭水化物をとりすぎない

   ok!

 4 アルコールを控えru

   ok!

 5 1日30分以上の有酸素運動を、週3回行う

   有酸素運動、、、努力します^^

 6 毎日1万歩を目標に

   毎日1万歩、、、かなりハードルが高い^^

 

 

 1 栄養バランスのよい食事を腹八分目に

 2 不必要な脂肪をとりすぎない

 3 炭水化物をとりすぎない

 4 アルコールを控える

 5 1日30分以上の有酸素運動を、週3回行う

 6 毎日1万歩を目標に

 

   努力あるのみ!^^!

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映画『 Haemoo 海にかかる霧』4,9★/5 2014年 監督 シム・ソンボ 脚本 シム・ソンボ ポン・ジュノ 原作 キム・ミンジョン キム・ユンソク 、 パク・ユチョン 、 キム・サンホ 

2022-07-04 | 映画

 (写真は鷺舞  京都祇園祭 八坂神社にて)

 

 映画『 Haemoo 海にかかる霧』4,9★/5  2014年 韓国 監督 シム・ソンボ 脚本 シム・ソンボ ポン・ジュノ 原作 キム・ミンジョン キム・ユンソク 、 パク・ユチョン 、 キム・サンホ 

 

 

 韓国映画『 Haemoo 海にかかる霧』を見て、感動した。

 船の上での船や船員を守る船長の行動や船員たちの逃れられない残酷かつ参事の場面は目を背けたくなる。

 しかしながら、運命に逆らえない男たち。そして、船に逃れ中国から韓国に硬い意思を持ってまのがれようとする人々。

 いわゆる、テチャン号事件。

 全てが事実であるのだが、海霧の異次元の空間での出来事。

 

 ラスト6年後小さま食堂で

「おばさん、唐辛子一つください。」

「ラーメンに唐辛子かい?」

「一つお願いします。」(要約)

のやりとりに、ふと男はかの彼女を認めるが、席の前には5歳程度の女の子と弟。

 彼女は、子供達に母の顔つきでラーメンを食べさせていた。

 男はその事実を知り、受け止めた、、、

 

 6年後に、4,5歳の長女となると、ドラマは色々な人生のドラマを視聴者にほのめかしている。

 しかしながら、潔く何の説明もなく、幕を閉じた。

 韓国の作品なのかこの作品が秀作であるのか、くどい説明や説教くさい説明や走馬灯のような階層は一切なく、観客に自由ににさんのパターンの現状を考える余韻を与えてくれる。

 

 ネタバレしたくはないので、ラストの部分はかいつまみ省略多く書き記したが、それにしても

「おばさん、唐辛子一つください。」

の言葉はあっぱれ見事である。

 私はこの映画は好きだ。

 

テチャン号事件とは

 001年10月、韓国の麗水(ヨス)で、いわゆる“テチャン号事件”が起凝った。

 韓国に密入国しようとした中国人60人のうち、25人が船内で窒息死し、船員らがこれらの死体を海に捨てた事件。

 この重大出来事をもとに、キム・ミンジョンが「海霧(ヘム)」のタイトルで戯曲化。

 更にそれを、今回シム・ソンボが「海にかかる霧」(4月17日公開)の邦題で映画化、監督デビューをしました。

「殺人の追憶」「グエムル-漢江の怪物-」などの傑作を放ったポン・ジュノが初プロデュース。

 監督に、「殺人の追憶」の脚本家シム・ソンボを抜擢。

 その結果、2015年米アカデミー賞外国語映画賞の韓国代表に選出された。
                    ※
 不況にあえぐ韓国の漁村。

 6人の乗組員を乗せたチョンジン号は、その日も一発逆転の大漁を狙って出航するが、目的を果たせない。

 切羽つまったカン船長(キム・ユンソク)は、中国からの不法移民の密入国を手伝うという、闇のルートの仕事を引き受ける。

 だが計画は、海上警察の調査や悪天候に阻まれ、思いもよらぬ事態に陥っていく。

 監視船がやって来た時、魚艙に隠れることを強いられた朝鮮族の人々が、冷凍機のフロンガスにやられて亡くなったのだ。

 やがてカン船長は、乗組員に遺体を切断して海に捨てるように命令。

 ただひとり、機関室に隠れていた女性ホンメ(ハン・イェリ)をめぐって、船員たちは正気を失っていく。                  

 

 海霧とは

 海上で発生する。 「かいむ」ともいう。 蒸発のこともあるが,多くは移流で,暖かくて湿った空気が冷たい海面上を移動していく間に,下方から冷やされて飽和点に達したときに発生する。 日本付近では夏季に三陸沖から北海道南東部にかけて頻発,空港の視程障害の原因となっている。

 また  

 海霧(うみぎり、かいむ、英語: sea fog)は、暖かく湿った空気が、冷たい海面に接することで生じる霧で、特に移流霧(英: advection fog)として陸上に達する濃霧。

 

 

「殺人の追憶」「グエムル 漢江の怪物」のポン・ジュノが製作を務め、「殺人の追憶」の脚本を担当したシム・ソンボが監督デビューを果たしたサスペンス。

 2001年に韓国で実際に起こった「テチャン号事件」を題材にした舞台劇「海霧(ヘム)」を映画化した。

 不況にあえぐ漁村の漁船チョンジン号の船長チョルジュは、中国人の密航者を乗船させるという違法な仕事に手を出してしまう。

 沖合で密航船と合流し、密航者たちを乗り換えさせて陸まで運ぶという簡単な仕事のはずだったが、海上警察の捜査や悪天候に阻まれ、思いもよらない事態へと発展していく。

 人気グループ「JYJ」のユチョンが映画本格初出演し、「チェイサー」「哀しき獣」の実力派キム・ユンソクと共演。

 

2014年製作/111分/R15+/韓国
原題:海霧 Haemoo

監督 シム・ソンボ

脚本 シム・ソンボ ポン・ジュノ

原作 キム・ミンジョン

製作 チョ・ヌニョン キム・デファン ポン・ジュノ

音楽 チョン・チェイル

撮影 ホン・ギョンピョ

編集 キム・サンボム キム・ジェボム

出演者:キム・ユンソク 、 パク・ユチョン 、 キム・サンホ 、 イ・ヒジュン 、 ムン・ソングン 、 ユ・スンモク 、 ハン・イェリ 、 チョン・インギ 、 ユン・ジェムン

 

 

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『巡礼その世界』1 「巡礼の諸相」金山秋男  4,8★/5 2005年 明治大学公開文化講座

2022-07-03 | 民俗考・伝承・講演

 

  『巡礼その世界』1 「巡礼の諸相」金山秋男  4,8★/5 2005年 明治大学公開文化講座

 

 

 

 明治大学公開文化講座の『巡礼その世界』の中から、「巡礼の諸相」を読む。

 好きな内容の話で、一気に楽しめた。

 

 東大寺の勧進の話や旅としての宗教(遊行女婦、傀儡女、白拍子、瞽女、熊野比丘尼)の話は民俗学の書物のどこかしこに出てくるので、読んでいてワクワクとする。

 また、一遍上人の罪業感を伴う愛欲にからまる経緯を図絵を元に説かれた部ぶっbは北そんでしまった。

 確かに、再出家を試みる三十三歳の一遍上人の連れの中には婦人と子供がおり、家に残り一遍上人を見送る者の中に婦人と子供の姿が認められる。

 

 山岳信仰の中に、「鳥取部」(ととりべ)の話が載っていた。

 

「鳥取部」(ととりべ)とは  (精選版 日本国語大辞典)

 〘名〙 令制前の部民の一つ。

 鳥を取って大王に献上したり飼育したりする品部。

 垂仁天皇のときに置かれたという。

 とりかいべ。とっとりべ。ととりべ。

 ※古事記(712)中(兼永本訓)「是(ここ)に天皇其の御子鳥取部(トリトリヘ)の鳥(とり)を定む」

 

 

 みなさまご来場、誠にありがとうございます。

 心より感謝申し上げます。

 

『巡礼その世界』1 「巡礼の諸相」金山秋男  

 2005年 

 明治大学公開文化講座

『巡礼その世界』251ページ

 762円

「巡礼の諸相」金山秋男  11〜70ページ

 

 

 

 

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『人はうわべを見るが、主は心を見る。』  サムエル記  16:7  /   『サムエル記』とは

2022-07-03 | ことのは

 

 

『人はうわべを見るが、主は心を見る。』

         サムエル記  16:7

 

 

 

 K日記様のページで、『人はうわべを見るが、主は心を見る。』という言葉を読み、感動しました。ありがとうございます!

 

 

 

 しかしサムエルに仰せられた。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 サウルから王位を退けました。

 そして、ダビデにその王位を与えるべく、エッサイの家に行って油注ぎを行ないなさいと預言者サムエルに命じられます。

 サムエルはけれども、父エッサイの息子のうちの誰かだとしか言われていません。

 それでサムエル長男から、油注ぎを受けるべき息子を見分けようとします。

 サムエル長男エリアブがその人だ、と思いました。

 けれども、は違うと言われました。

 そして、この言葉になっています。

 が選ばれる者は、人が見るような上辺ではないのだ。

 そうではなく、心なのだ、ということです。

 

 

 

『サムエル記』とは

『サムエル記』は旧約聖書におさめられた古代ユダヤの歴史書の1つ。

 元来、『列王記』とあわせて1つの書物だったものが分割されたようである。

 また『サムエル記』自体も上下にわかれているが、これはギリシャ語聖書以来の伝統である。

 また、正教会においては列王記第一、列王記第二と呼称される。

 内容的には『士師記』のあとを受け、『列王記』へと続いていく。

 タイトルは最後の士師であり、祭司であったサムエルに由来。

 ユダヤ教の分類では『ヨシュア記』『士師記』『列王記』と共に「前の預言者」にあたる。

 この書物の原作者は、サムエル、ナタン、ガドであると伝えられている(歴代誌上 29:29)。

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ドラマ『リーガルV 〜元弁護士・小鳥遊翔子〜 』3,6★/5 2019年 米倉涼子 向井理 安達祐実 小日向文世他

2022-07-03 | ドラマ

 

 

  ドラマ『リーガルV 〜元弁護士・小鳥遊翔子〜 』3,6★/5 2019年 米倉涼子 向井理 安達祐実 小日向文世他

 

 

 ドラマ『リーガルV 〜元弁護士・小鳥遊翔子〜 』を見たのはおそらく三度目であろうか?

 筋書きを瑞部覚えていたが、米倉の目力で楽しく見続けた。

 彼女、歌舞伎役者ならば、どういった演じ方をされるのでしょうか?とほくそ笑む。

 

 某局で7/13と7/17であと3,4本の米倉涼子のドラマ公開が終わるので、『リーガルV 〜元弁護士・小鳥遊翔子〜 』を見てみたが、良い時間潰しになったと喜んでいる。

 

 

リーガルV 〜元弁護士・小鳥遊翔子〜 ジャンル テレビドラマ

 

脚本 橋本裕志

演出 田村直己(テレビ朝日) 松田秀知

出演者 米倉涼子 向井理 林遣都 菜々緒 荒川良々 内藤理沙 宮本茉由 安達祐実 三浦翔平 勝村政信 小日向文世 高橋英樹

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『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』読了 4,8★/5 林雅彦監修 至文堂

2022-07-03 | 読書全般(古典など以外の一般書)

 

 

  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』読了 4,8★/5 林雅彦監修 至文堂

 

 

 十日ほどかけ二、三回読み直し、『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』をなんとか読了。

 興味深い話が多いが知らない話も多い。

 知っている話でも中身が濃い。

 

 おそらく本書は私のような人間が読む書物ではなかったような気がするが、何度も読み返すと私なりに理解できる部分も広がり、充実した時間を持つことができた。

 またコロナ禍で外出を控えている私は、美術館や博物館や講演がわりに『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』を読み、理解できる部分だけを楽しみ、難しい部分は読み飛ばして楽しんだ。

 博物館一回四時間くらいだと知ると、何度博物館に出向いて遊んだことになるだろうと考えると、笑みが浮かぶ。

 とにかく中身の濃い充実本で、一般人の私は一つでも知識を得ることができたことに満足している。

 この本は素晴らしい!

 

至文堂 (2003/5/1)

2017年版 (10476円 税込)

発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1

単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

目次

第1章 アジアに流伝する「生死論」と絵解き
第2章 絶後再蘇の構造-道元禅の展開
第3章 天寿国繍帳小考
第4章 串刺しの母-地獄図と目連救母説話
第5章 『二十四孝』の絵画二題
第6章 「十便十宜図」を読む
第7章 「死絵」について-基礎的事項の確認
第8章 田能村竹田の題画詞
第9章 「道成寺縁起」のことばと絵画-絵解きを視座としつつ

 

原 道生()

徳田 武()

林 雅彦()

池沢 一郎()

渡 浩一()

高瀬 多聞()

金山 秋男(著/文)

 

 

 

 みなさまご来場、誠にありがとうございます。

 心より感謝申し上げます。

 

 

『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』関連メモ

 

 

 

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『道成寺縁起絵巻』   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

2022-07-03 | 絵巻物、縁起絵巻、巻物、絵解き掛け軸、屏風

写真は 主人神社の結界(奈良)

 

 

   『道成寺縁起絵巻』 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 

『道成寺縁起絵巻』について

 

 多くの方々が筋書きをご存知であろう道成寺。

『道成寺縁起絵巻』は私も例に漏れず馴染みが深い。

 縁起絵巻の好きな私は『道成寺縁起絵巻』の日本絵巻物大系や解説本で読み、博物館展示の『道成寺縁起絵巻』も読んでいる。

 博物館展示の『道成寺縁起絵巻』は部分であったが、当然のことながら、ラストの【黒焦げになり、コロン!】の部分も公開されていた。

 安鎮の黒焦げコロン!はコミカルで、悲劇とはいえほくそ笑んでしまう。

 私の持った印象に近い内容が詳しく『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』にも載せられていた。

 

 もう一度『道成寺縁起絵巻』を読みたいと思い、今しがた日本絵巻物大系を見て見たが無い。

『道成寺縁起絵巻』は 続日本絵巻物大系か 続々続日本絵巻物大系の収められているので、以前は図書館でお借りして読んだようだ。

 

 道成寺に関連した芝居がある。

 十代の頃から数多く見たことがある『娘道成寺』もその一つである。

 それには安鎮の存在は薄く、赤い刺繍入りのきらびやかな着物を着た清姫が激しく舞い、ラスト鐘の飢えで清姫見得よろしくで幕を閉じる。

 

 私の慣れ親しんだ『娘道成寺』の役者さんたちは、今はもういらっしゃらない方が多い。

 本を読んで芝居に話がズレ始めると、コロナ禍とはいえ、歌舞伎が観たくなる。

 今月は、近松の某演目。この演目は、私の場合は仁左衛門丈で二度目となる。

 仁左衛門丈がご健在なうちに、一度でも多く観たいものだ。

 

 話がズレた。

『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』における道成寺の話は興味深かった。

 

 

 みなさまご来場、誠にありがとうございます。

 心より感謝申し上げます。

 

 

 

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 明治大学公開文化講座 27 『声なきことば・文字なきことば』 風間書房 2008年

 明治大学公開文化講座 XIV『文化における「異」と「同」』 風間書房

 明治大学公開文化講座 XⅦ  『歴史の中の民衆文化』

『明治大学公開文化講座 31孤立と社会』櫻井泰 長谷川澄男 河合正弘 上西紀夫   平成24年 風間書房

『言語的な、余りに言語的な―現代社会とことば』3,3★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2004年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

『人はなぜたびに出るのか』30 4,6★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2007年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

 

『廓庵 十牛図 騎牛帰家』  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』 (明治大学人文科学研究所叢書)  至文堂ハードカバー より

『廓庵 十牛図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)』   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂ハードカバー より

『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

『もくれんのさうし』『目連尊者地獄めぐり』『謡曲 目連』『目連の讃』他  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』

『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 3   浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 4  Waseda University Library 公開 『二十四孝』(二種) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

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死絵について 死絵についての戯言 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

2022-07-03 | 読書全般(古典など以外の一般書)

 

   死絵について 死絵についての戯言 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 

死絵についての戯言

 

 どこかしのこ美術館や博物館で見たことのある死絵。

 歌舞伎にも多少関心のある私は、死絵について書かれた書物や大型絵図を複数冊読んだことがある。

 今回読んだ『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』でも死絵について多くのページを割かれていた。

 

 死絵は多くの画人が書いているが、国芳もまたその一人。

 確か京都文化博物館だったか否か、そこははっきりとは覚えてないが、国芳展には二度ばかり行ったこがある。

 二度目の国芳展が開催された時に、国芳のコミカル且つある意味リアルなうまい画に食い入って見ていたこと、3時間半。

 ラストに差し掛かった時のこと。

 国芳の死絵関連の画が2枚、展示されていた。

 

 この展示法はうまい!

 あっぱれ見事じゃ。とかなんとか思いながら、一人ほくそ笑む。

 国芳の死絵も歌舞伎役者の絵と同様、私の心にはっきりと残っている。

『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』でも私にとって印象深い国芳の死絵について触れられ、図画も載せられていた。

 

 

死絵について

 死絵(しにえ)は、主に歌舞伎役者が死去したとき、その訃報と追善を兼ねて版行された浮世絵。

 役者の似顔絵に、命日、戒名、墓所、生前の業績、辞世、追善の歌句などが記される。

 幕末を中心に江戸時代後期から近代にかけて制作された。

 基本的に死や仏事を表象するモチーフが添えられた死後の姿を表すのが特徴で、美術史や歌舞伎研究のみならず、民俗学や宗教学的にも貴重な資料といえる。(ウィキペディア)

 

概要

 現存最古の作品は、安永6年(1777年)に没した二代目市川八百蔵のものとされる。

 初期は細絵や間錦などもあるが、多くは大錦で、しかも一枚物が普通であった。

 シキミや数珠を持った絵姿、舞台上での当たり役を描き、戒名、行年などを書き添えたもの、辞世の歌句、追善のことばをいれたものなどが一般的であった。

 

 文政以後から明治初めまでおびただしい数が出版され、特に嘉永7年(1854年)に大坂で自殺した八代目市川團十郎の死絵は200種類余りも出版されたという。

 構図も変化していったが、なかには漫画風にしたり、蓮台座という芝居というふうにいささかふざけた図柄もあった。

 販売上の競争も当然あり、少しでも早く版行しようと版木を流用し、戒名、死去月日、行年などをよく調べないいいかげんなものさえある。

 こうした乱作期の死絵には、画家の記名がないのが普通である。描かれたのは歌舞伎役者が多いが、義太夫の大夫や戯作者、歌舞伎に関係する浮世絵師の死絵も描かれた。

 歌川豊春、歌川豊国、3代目歌川豊国、歌川国芳、歌川広重、月岡芳年ら浮世絵師の死絵はほとんどその門弟が描いており、何れも一枚絵で資料的な価値も高い。

 

 明治中期まで盛んに行われたが、その後は絵葉書、ブロマイドが流行し、昭和10年(1935年)の初代中村鴈治郎のものを最後に廃れていった。 (ウィキペディア)

 

特徴

 単に生前の役柄に没年月日、戒名、菩提寺などを書き加えて死絵としているものもあるが、多くは死を表象するために様々な工夫を凝らしている。

 

 まず特徴的なのは特有の姿で、よく見られるのは水裃と呼ばれる浅葱(水色)の裃姿である。

 初期には白裃も見られるが次第に水裃が増え、裃でなくとも小袖や衣、裾などに水浅葱色を用い死を暗示した表現となっていた。

 小物では樒や蓮華、数珠水向けや白木位牌などがしばしば登場する。

 出家姿のものもあり、特に女形は裃より袈裟を着けた出家姿をとることが多い。

 他にも故人を釈迦に見立てて、涅槃図の形式を取る場合や、死出の旅路を表すため旅姿で描かれることもある。他に小袖の模様に「南無阿弥陀仏」の文字を散らしたり、阿弥陀如来の種字が描かれるなど、何らかの葬儀や仏事に関する衣装になっていることもある 舞台の夫婦役者であいついで死去した役者の場合、これをあわせて1つに描くこともなされた。

 これは文化9年の4世沢村宗十郎と4世瀬川路考とが最初であろうという。

 女形は女性姿に描かれたから、4世尾上菊五郎夫妻の死絵はどちらが夫かわかりにくい。

 ただし俳優の夫妻を描いたものは舞台上の夫婦役とはちがってほかにはほとんどない。 (ウィキペディア)

 

 

 

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 明治大学公開文化講座 27 『声なきことば・文字なきことば』 風間書房 2008年

 明治大学公開文化講座 XIV『文化における「異」と「同」』 風間書房

 明治大学公開文化講座 XⅦ  『歴史の中の民衆文化』

『明治大学公開文化講座 31孤立と社会』櫻井泰 長谷川澄男 河合正弘 上西紀夫   平成24年 風間書房

『言語的な、余りに言語的な―現代社会とことば』3,3★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2004年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

『人はなぜたびに出るのか』30 4,6★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2007年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

 

『廓庵 十牛図 騎牛帰家』  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』 (明治大学人文科学研究所叢書)  至文堂ハードカバー より

『廓庵 十牛図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)』   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂ハードカバー より

『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

『もくれんのさうし』『目連尊者地獄めぐり』『謡曲 目連』『目連の讃』他  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』

『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 3   浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 4  Waseda University Library 公開 『二十四孝』(二種) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

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『二十四孝』 4  Waseda University Library 公開 『二十四孝』(二種) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

2022-07-01 | 古典全般(奈良〜江戸時代)

 

『二十四孝』 4  Waseda University Library 公開 『二十四孝』(二種) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 

 

Waseda University Library 公開

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0965/bunko31_e0965.html

請求記号:文庫31_e0965 30カット

文庫31 E0965 タイトル

釈氏 二十四孝 / 日峯 [撰] shakushi nijūshikō

作者 元政, 1623-1668 gensei

 銅駝坊(京都) : 平楽寺村上勘兵衛,

寛文10[1670]

早稲田大学図書館所蔵

 

 

Waseda University Library 公開

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e1800/bunko31_e1800.html

請求記号:文庫31_e1800 15カット

文庫31 E1800

二十四孝絵抄 nijūshikō eshō

 

 

 

 

 

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 明治大学公開文化講座 27 『声なきことば・文字なきことば』 風間書房 2008年

 明治大学公開文化講座 XIV『文化における「異」と「同」』 風間書房

 明治大学公開文化講座 XⅦ  『歴史の中の民衆文化』

『明治大学公開文化講座 31孤立と社会』櫻井泰 長谷川澄男 河合正弘 上西紀夫   平成24年 風間書房

『言語的な、余りに言語的な―現代社会とことば』3,3★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2004年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

『人はなぜたびに出るのか』30 4,6★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2007年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

 

『廓庵 十牛図 騎牛帰家』  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』 (明治大学人文科学研究所叢書)  至文堂ハードカバー より

『廓庵 十牛図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)』   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂ハードカバー より

『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

『もくれんのさうし』『目連尊者地獄めぐり』『謡曲 目連』『目連の讃』他  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』

『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 3   浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 4  Waseda University Library 公開 『二十四孝』(二種) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 

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 『二十四孝』 3   浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

2022-07-01 | 読書全般(古典など以外の一般書)

 

 

  『二十四孝』 3   浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 翼が欲しい

 羽が欲しい

 飛んで行きたい

 つたえたい

 歌舞伎で馴染みの『本朝廿四考』

 ところどころ覚えている言い回しが舞台をイメージさせる。

 

『本朝廿四考』は近松半二(はんじ)・三好松洛(みよししょうらく)・竹田因幡(いなば)・竹田小出雲(こいずも)・竹田平七・竹本三郎兵衛等の合作らしいが、元々の『二十四孝』 は中国から来ている。

 それが日本に渡り、多くの草子の作者や国芳等の画作者が『二十四孝』を元に読み物などを手がけ、多くの作品が残されている。

『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』でも多くの作品が残されていると論じられ、国芳までもが手がけられていると言った記述が興味深い。

 

 

浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは

浄瑠璃、歌舞伎『本朝廿四考』とは

 浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。

 時代物。

 五段。

 通称「廿四孝」。

 近松半二(はんじ)・三好松洛(みよししょうらく)・竹田因幡(いなば)・竹田小出雲(こいずも)・竹田平七・竹本三郎兵衛合作。

 

 1766年(明和3)1月、大坂・竹本座初演。

 武田信玄と上杉謙信の争いに斎藤道三(どうさん)を配し、諏訪(すわ)湖を渡る霊狐の伝説や中国二十四孝の故事を取り入れて脚色。

 近松門左衛門の『信州川中島合戦』をもとに、複雑な技巧をちりばめた作で、初演の4か月後、歌舞伎(かぶき)に移されている。  

 

 

 初段――武田の息勝頼(かつより)と長尾(上杉)の息女八重垣姫(やえがきひめ)の婚約が調うが、将軍足利義昭(あしかがよしあき)が何者かに鉄砲で暗殺されたので、両家ともその嫌疑を解くため、3年たっても曲者(くせもの)が捕らえられないときは、謙信は景勝、信玄は勝頼、それぞれ一子の首を打つと誓う。

 

 二段目(信玄館)――約束の3年後、逆心のある家老板垣兵部(ひょうぶ)は、幼時に勝頼とすり替えておいたわが子を助けようと、百姓簑作(みのさく)、実は真の勝頼を連れてくるが、信玄はこれを見破り、偽(にせ)勝頼は切腹、真の勝頼は長尾家にある諏訪法性(ほっしょう)の兜(かぶと)を取り戻すため、腰元濡衣(ぬれぎぬ)とともに信濃(しなの)へ向かう。

 

 三段目(桔梗(ききょう)ヶ原・勘助住家)――武田の臣高坂弾正(こうさかだんじょう)は桔梗ヶ原で、軍略家山本勘助の次男慈悲蔵(じひぞう)の子を拾う。

 弾正の妻は子供を餌(えさ)に慈悲蔵を武田家に仕えさせようとするが、彼はすでに謙信の臣になっているので受け付けず、兄の横蔵と雪中で争い、亡父の秘蔵した軍書を手に入れ、母と心をあわせ、兄を主君景勝の身替りにたてようとする。

 しかし、信玄の家臣になっていた横蔵は、身替りの役にたたぬようにと自ら片方の目をえぐり、父の名山本勘助を襲(つ)ぎ、直江山城守(なおえやましろのかみ)となった慈悲蔵と敵味方に分かれる。

 四段目(謙信館・奥庭)――許婚(いいなずけ)の死を聞き、十種香(じしゅこう)をたいて回向(えこう)していた八重垣姫は、父謙信に召し抱えられた花作り簑作、実は真の勝頼を見て激しく恋慕する。

 謙信は勝頼の正体を見抜き、討っ手を向けるが、姫はその危急を救うため、奥庭から兜を盗み出し、これを守護する霊狐の狐火(きつねび)に導かれて湖水を渡る。

 濡衣の父関兵衛は、実はかつて将軍を暗殺した斎藤道三で、いままた後室を鉄砲で撃つが、濡衣が身替りになって死に、これまで不和とみせた武田・長尾両家の働きによって、謀反の陰謀が破れる。  

 

 三段目で、慈悲蔵がわが子を捨てるところに「二十四孝」の郭巨(かっきょ)の話、母のため雪中から筍(たけのこ)を掘ろうとするところに同じく孟宗(もうそう)の話を当て込んでいる。

 無法者の横蔵が実は軍師山本勘助という趣向が奇抜で、俗に「筍」ともよばれる。もっとも有名なのは「謙信館」で通称「十種香」、次の「奥庭」(通称「狐火」)とともに、八重垣姫の情熱的な恋を描いた名場面で、姫は歌舞伎では「三姫」の一つという大役になっている。

  [松井俊諭] 『守随憲治校注『日本古典全書 近松半二集』(1949・朝日新聞社)』

 

 

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 明治大学公開文化講座 27 『声なきことば・文字なきことば』 風間書房 2008年

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『もくれんのさうし』『目連尊者地獄めぐり』『謡曲 目連』『目連の讃』他  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』

『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

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『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

2022-07-01 | 漢文

 

 

 

 

 

  『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 

 

『二十四孝』(にじゅうしこう)とは

『二十四孝』(にじゅうしこう)とは (日本大百科全書)

 中国古来の代表的孝子24人をいい、また彼らの逸話を収めた同名の幼童の教訓書をいう。

 その人と配列の順序には諸本で異同があるが、元(げん)の郭居敬(かくきょけい)の作といわれる『二十四孝』によれば、

 虞舜(ぐしゅん)、

 漢の文帝、

 曽参(そうしん)、

 閔損(びんそん)、

 仲由(ちゅうゆう)、

 董永(とうえい)、

 剡子(えんし)、

 江革、

 陸績、

 唐夫人、

 呉猛、

 王祥、

 郭巨、

 楊香(ようこう)、

 朱封昌、

 廋黔婁(ゆけんろう)、

 老莱子(ろうらいし)、

 蔡順(さいじゅん)、

 黄香、

 姜詩(きょうし)、

 王褒(おうほう)、

 丁蘭(ていらん)、

 孟宗(もうそう)、

 黄庭堅らであり、

 仲由と江革のかわりに張孝と田真

を入れたものもある。

 孝子譚(たん)を集めた書には古く前漢の劉向(りゅうきょう)作『孝子伝』があるが、敦煌(とんこう)発見の唐末五代の円鑑大師雲辯(うんべん)の作といわれる『二十四孝押座文(おうざぶん)』によって、唐末ごろには孝子の代表24人を数える習慣が形成されていたことがわかる。

 二十四孝説話は、一般に親に対する子の一方的献身を説き、親の喜びのために、70歳になっても赤子のまねをする周の老莱子、親を養うためにわが子を生き埋めにしようとする漢の郭巨、親の食欲のために、厳冬に筍(たけのこ)を探して泣く晋(しん)の孟宗や、氷上に寝て鯉(こい)をとろうとする晋の王祥の話など、残酷なものが少なくない。

『二十四孝』は江戸時代には日本でも訳され、

  近松半二(ちかまつはんじ)らの浄瑠璃(じょうるり)

 『本朝(ほんちょう)廿四孝』

など芸能にも多く取り入れられている。

  [山崎純一] 『徳田進著『孝子説話集の研究――二十四孝を中心に 中世編・近世編』(1963・井上書房)』[参照項目] | 本朝廿四孝

 

 

 

『二十四孝』(にじゅうしこう)とは (世界大百科事典 第二版)

 中国,五帝の一人の舜から宋の黄庭堅までの24人の孝子たち。

 その物語は元代以後,あるいは巻首に《孝経》をそえて,あるいは挿絵をともなう幼童の読物として出版が繰り返された。

 元の郭守正が集めたともいわれるが,原作者についてはよくわからない。ただし原型となるべきものは古くから存在した。

 後漢の武氏祠画像石には二十四孝のなかの曾子,閔子騫(びんしけん),老萊子(ろうらいし),丁蘭,董永(とうえい)たちが描かれており,とりわけ六朝時代に著された数種の《孝子伝》が材料に使われたものと考えられる。 にじゅうしこう【二十四孝】  御伽草子。中国の《全相二十四孝詩選》にもとづき,五言絶句の漢詩を掲げ,その注解を和文で綴ったもの。渋川版御伽草子所収。内容は,大舜,漢文帝,丁蘭,孟宗,閔子騫,曾参,王祥,老萊子,姜詩,唐夫人,楊香,董永,黄香,王裒,郭巨,朱寿昌,剡子,蔡順,廋黔婁,呉猛,張孝・張礼,田真・田広・田慶,山谷,陸績の24話から成る。

 渋川版御伽草子本をも含め,《二十四孝》の版本は近世全期を通じておびただしい数にのぼる。

 

 

 

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 明治大学公開文化講座 27 『声なきことば・文字なきことば』 風間書房 2008年

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『明治大学公開文化講座 31孤立と社会』櫻井泰 長谷川澄男 河合正弘 上西紀夫   平成24年 風間書房

『言語的な、余りに言語的な―現代社会とことば』3,3★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2004年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

『人はなぜたびに出るのか』30 4,6★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2007年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

 

『廓庵 十牛図 騎牛帰家』  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』 (明治大学人文科学研究所叢書)  至文堂ハードカバー より

『廓庵 十牛図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)』   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂ハードカバー より

『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

『もくれんのさうし』『目連尊者地獄めぐり』『謡曲 目連』『目連の讃』他  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』

『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

『二十四孝』 2  『二十四孝』とは (日本大百科全書)(世界大百科事典 第二版)『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 
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『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

2022-07-01 | 哲学

写真は、矢田寺

 

 

 

 

 

  『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 

 

 

『二十四孝』(にじゅうしこう)は

 中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物。

 元代の郭居敬が編纂した。

 ここに紹介された中には、四字熟語や、関連する物品の名前として一般化した物もある。

 日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。

 また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られている。

 孝行譚自体は数多く、ここに採られたものだけが賞されたわけではない。

  登場人物を、ここでは二十四孝の代表的な人物とその内容を記す

 陸績

 陸績は6歳の時に袁術の所に居た。

 袁術は陸績のために、おやつとして蜜柑を与えた。

 陸績はそれを3つ取って帰ろうとすると、袖から蜜柑がこぼれてしまった。

 袁術は

「陸績君は幼いのに泥棒のようなことをするのかね」

と言ったところ、陸績は

「あまりに見事な蜜柑なので、家に持ち帰って母に食べさせ、恩に報いようと思いました」

と言った。

 袁術はこれを聞いて

「幼いのに何という親孝行な子供であろうか、過去現在において稀な心がけである」

と褒め称えた。

 

田真兄弟

 田真(でんしん)・田慶(でんけい)・田広(でんこう)の3兄弟は、親亡き後に財産を3等分したが、庭に大きく繁り花を咲かせた木があった。

 兄弟はこれも3等分しようと徹夜で考えた。

 夜が明けたので、木を切ろうと庭に出てみると、昨日まで繁っていた木が急に枯れていた。

 田真はこれを見て

「草木にまで心があって、切られようとして枯れたのであれば、人間ではなおさらである。なんと至らないことであっただろうか」

と言い、切らずにおくと、木はまた元のように見事に繁った。

 

郯子

 郯子(たんし)には年老いた両親がおり、眼を患っていた。

 鹿の乳が眼の薬になると聞いた両親は、郯子に欲しいと願った。

 郯子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入った。

 そこへ猟師が本物の鹿と間違えて郯子を射ようとしたが、郯子が

「私は本物の鹿ではありません。郯子と言いまして、親の願いを叶えたいと思い、こうやって鹿の格好をしているのです」

と言うと、猟師は驚いてその訳を聞いた。

 孝行の志が篤いので射られずに帰り、親孝行をすることが出来た。

 

 この話でも、皮かむりの魔力に準じた話が展開されている。

 

蔡順

 王莽の時代に天下は乱れ、また飢饉が訪れ、食べる物もなかった。

 蔡順(さいじゅん)は母のために桑の実を採り、熟していない物と熟した物に分けていた。

 その時、盗賊(赤眉の乱の盗賊と思われる)が現れ

「何故桑の実を2つに分けるのか」

と尋ねたところ、蔡順は

「私には一人の母親がおりますが、熟した物は母親に、熟していない物は自分にと思っていたのです」

と言った。

 盗賊も蔡順の孝行の心を知り、米と牛の足を与えて去って行った。

 蔡順はその米と牛の足も母親に与えた。

 

閔子騫

 孔子の弟子の閔子騫(びんしけん、子騫は字。諱は損)は幼い時に母を亡くし、父が再婚して異母弟2人ができた。

 継母は実子2人を愛したが継子の閔子騫を憎んで、冬になると実子には綿入りの着物を与えたが、閔子騫には蘆の穂を入れた着物を与えた。

 閔子騫が寒さに凍えているのを見て、父が継母と離縁しようと言うと、閔子騫は

「母上が去られては、3人の子供は凍えます。私1人が凍えていれば、弟2人は暖かいのでどうか離縁しないで下さい」

と言った。

 継母はこれに感激し、以後は実母のように閔子騫を可愛がったという。

 

黄香

 黄香(こうこう)は母を亡くし、残された父によく仕えた。

 夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。

 これを知った江夏郡の太守劉護は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えた。

 

呉猛

 呉猛(ごもう)は8歳であったが、家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。

 呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。

 それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなったと言う。

 

楊香

 楊香(ようこう)には一人の父がいた。

 ある時父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも2人を食べようとした。

 楊香は虎が去るように願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように

「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」

と懸命に願ったところ、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。

 

張孝兄弟

 張孝(ちょうこう)と張礼(ちょうれい)の兄弟は、飢饉の時に80歳を超えた母を養っていた。

 木の実を拾いに行ったところ、盗賊が現れて張礼を食おうとした。

 張礼は

「私には一人の年老いた母親がいます。今日はまだ母が食事をしていないので、少しだけ時間を下さい。母に食事をさせればすぐに戻って来ます。もしこの約束を破れば、家に来て一家もろとも殺して下さい」

と言って、母親の食事を済ませて盗賊の所に戻って来た。

 張孝はこれを聞き、走って盗賊の所に行って

「私の方が弟より太っています。私を食べて、弟を助けて下さい」

と言う。

 張礼は

「これは最初の約束なので、私が食べられます」

と言って死を争った。

 それを見た非道な盗賊も兄弟の孝行心に打たれ、このような兄弟は見たことがないと2人の命を助け、さらに沢山の米と塩を与えた。

 兄弟はそれらを持って帰り、さらに孝行を尽くした。

 

丁蘭

 丁蘭(ていらん)の母が亡くなると、丁蘭は母の死を悲しみ、母の木像を作って生きている時のように尽くした。

 丁蘭の妻がある夜、母の木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像は腫れて血が流れ、2日経つと妻の髪の毛が全てなくなってしまった。

 妻は何度も詫びをするが一向に変わらないので、丁蘭は驚いて木像を大通りに移し、妻に3年間詫びをさせた。

 すると、一夜のうちに風雨の音がして、木像は元の場所に戻ったと言う。

 

 この話は『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』でも多くのか一説があり、資料も多く取り上げられていた。

 

王裒

 王裒(zh)(おうほう)の父の王儀(王修の子)が時の皇帝の怒りに触れて、罪も無いのに亡くなった。

 王裒はこれを恨み、皇帝の居る方角には決して向かないで座った。

 王裒は父の墓の前で礼拝し、傍らにあった柏の木にすがって泣き続けたために、柏の木は枯れてしまうほどであった。

 母は雷が怖い人であったが、その死後も雷が鳴ると、王裒は母の墓に急ぎ行った。

 

姜詩

 姜詩(きょうし)の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。

 姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。

 するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出て、毎朝その水の中に鯉がいた。

 

孟宗

 孟宗(もうそう)は、幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。

 病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。

 ある冬に筍が食べたいと言った。

 孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。

 孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。

 すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。

 孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。

 

 孟宗竹、、、

 

王祥

 王祥(おうしょう)は母を亡くした。

 父の王融は後妻をもらい、王祥は継母の朱氏からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。

 継母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。

 しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。

 悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。

 早速獲って帰って母に与えた。

 この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。

 

姜詩

 姜詩(きょうし)の母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。

 姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。

 するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出て、毎朝その水の中に鯉がいた。

 

郭巨

 郭巨(かくきょ)の家は貧しかったが、母と妻を養っていた。

 妻に子供が産まれ、3歳になった。

 郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。

 郭巨が妻に言うには

「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」

と。

 妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。

 郭巨が涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。

「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」

と。

 郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。

 

董永

 董永(とうえい)は幼い時に母と別れ、家は貧しく、いつも雇われ仕事の小銭で日々暮らしていた。

 父も足が悪かったので、小さな車を作って父を乗せ、田んぼのあぜまで連れて行き、農作業をしていた。

 父が亡くなると葬式をしたいと思ったが、貧しいのでお金がない。

 そこで、身売りをしてその金で葬式をした。

 身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の美女がいた。美女が言うには

「私は董永の妻となるべく、絹を織って身請け主に届け許されました」

と。

 そして董永の妻となり、最後に

「私は天の織姫ですが、貴方の孝行な心に感じて天が私にお命じになりました」

と言うと、天に帰って行った。

 

 舜(しゅん)は大変孝行な人であった。

 父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。

 舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。

 その時の天子を堯と言った。

 堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲った。

 

漢文帝

 漢の文帝は高祖の子である。諱を恒(こう)と言った。

 母の薄太后に孝行を尽くし、食事の際は自ら毒見をするほどであった。

 兄弟も沢山いたが、文帝ほど仁義・孝行な皇子はいなかった。

 そのため、陳平・周勃などの重臣が皇帝に推戴した。

 孝行とは誰もが知っているが、実際に行うことは難しい。

 だが、高貴な身分で孝行を行ったことは神の如き志である。

 

山谷(黄庭堅)

 黄庭堅(歌川国芳『唐土二十四孝』) 山谷(さんこく)黄庭堅(こうていけん)は、宋の詩人であり、現在でも詩人の祖といわれている。

 使用人も多く、妻もいたが、自ら母の大小便の便器を取り、汚れている時は素手で洗って母に返し、朝から夕方まで母に仕えて怠けたことはなかった。

 

庾黔婁

 庾黔婁(ゆけんろう)は南朝斉の人で、孱陵(せんりょう)県令になっていたが、着任して10日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならなくなった。

 父の庾易の病気かと思い、県令を辞めて家に帰ると、案の定大病を患っていた。

 庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、甘く苦ければ良かろうと言う。

 庾黔婁は簡単なことだと言って舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星(北極星)に身代わりになることを祈り続けた。

 

朱寿昌

 朱寿昌(しゅじゅしょう)は、7歳の時に母が蒸発してしまったので母をよく知らないことを嘆き、50年が経った。ある時、朱寿昌は知州であったが職も妻子も捨て、自らの血でお経を書いて天に祈っていると、同州に母がいると告げられ、遂に母に会うことができた。

 

曾参

 孔子の弟子の曾参(そうしん)は、ある時薪を取りに山に行った。

 母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。

 母はもてなしたいと思ったが、曾参は家におらず、元々家が貧しいのでもてなしもできず、

「曾参、急いで帰って来てくれ」

と指を噛んで願った。

 曾参は山で薪を拾っていたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。

 

唐夫人

 唐夫人(とうふじん)は、姑(夫の母)の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、その他様々なことで仕え、数年が経った。

 ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには

「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫たちよ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」

と言った。

 このように姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたと言う。

 

老萊子

 老萊子(ろうらいし)は、両親に仕えた人である。

 老萊子が70歳になっても、身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いた。

 

  以上全てウィキペディア参考

 

  • 至文堂 (2003/5/1)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2003/5/1
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 426ページ

 

 明治大学公開文化講座 27 『声なきことば・文字なきことば』 風間書房 2008年

 明治大学公開文化講座 XIV『文化における「異」と「同」』 風間書房

 明治大学公開文化講座 XⅦ  『歴史の中の民衆文化』

『明治大学公開文化講座 31孤立と社会』櫻井泰 長谷川澄男 河合正弘 上西紀夫   平成24年 風間書房

『言語的な、余りに言語的な―現代社会とことば』3,3★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2004年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

『人はなぜたびに出るのか』30 4,6★/5  (明治大学公開文化講座) 新書 – 2007年 明治大学人文科学研究所、 明大人文科学研究所 風間書房

 

『廓庵 十牛図 騎牛帰家』  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』 (明治大学人文科学研究所叢書)  至文堂ハードカバー より

『廓庵 十牛図 入鄽垂手(にってんすいしゅ)』   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂ハードカバー より

『もくれんのさうし』とは   『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』第四章一 至文堂 より

『もくれんのさうし』『目連尊者地獄めぐり』『謡曲 目連』『目連の讃』他  『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』

『二十四孝』 1  『二十四孝』と話の内容(24話) 『生と死の図像学―アジアにおける生と死のコスモロジー』至文堂

 
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歌舞伎『壺阪霊験記』 4,3★/5 沢市:三津五郎 お里:福助 観世音:中村玉太郎  壺阪寺と周辺の山、磨崖仏の写真(35枚)

2022-07-01 | TVで 歌舞伎・能楽

写真は奈良 壺阪寺の「思う壺」

 

 

 

  歌舞伎『壺阪霊験記』 4,3★/5 沢市:三津五郎 お里:福助 観世音:中村玉太郎  壺阪寺と周辺の山、磨崖仏の写真(35枚)

 

 

 歌舞伎『壺阪霊験記』をみる。

 今回は、沢市:坂東三津五郎 お里:中村福助の舞台であったがこの舞台も映像で何度も見ている。

 

 私の場合は七代目の中村芝翫丈の甲斐甲斐しいお里が印象深く、表情まで割合に覚えている。

 だが、中村福助のお里も良い。

 福助が演じると、沢一の目が見えた時の初めて見たお里の顔が一層まばゆく、コミカルさをます。

 

 福助は三津五郎との『壺阪霊験記』をかなり古典的に形を重視して演じられている。

 顔の動かし方や栗の形まで、人形浄瑠璃を意識され、見ごたえがある。

 福助のお里も見ものである。

 

 今となってはもうみることができない三津五郎。

 彼の沢入も彼らしくて良い。

 壺阪山の山頂で新いちが見得を切るところがある。

 目が開かない盲人で杖をついたあん摩であるが、目を閉めたまま見得を切るのである。

 ところが、三津五郎が演じると、その見えは目を開けたように力強い。

 

 最終章、沢一の目が観世音菩薩のおかげで、目は開き見えるようになる。

 その時の喜びは短い舞で表すが、この舞踊は故三津五郎の舞である。

 身近な時間で彼の舞踊の実力を魅せてくださる。

 

『壺阪霊験記』といえばラストのお里沢一の花道。

 この場面は観客の私は安堵の笑いを何度も発しながらも、目尻がじんわりと滲んでいた。

 

 みなさま、見てくださいましてありがとうございます。

 感謝申し上げます。

 

 

以下は、壺阪寺と周辺の山、磨崖仏の写真(35枚)

 

 

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