ご挨拶
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。
介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。
今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。
kaigo
家族を看取る―心がそばにあればいい (平凡社新書) | |
國森 康弘 | |
平凡社 |
島根県の島にある看取りの家「なごみの里」の取り組みを中心に
だれども「みとりびと」になれるという、在宅で死を迎える事に関して書かれた本。
なごみの里で暮らしているのは介護度の高い高齢者4、5人程度
職員はボランティア含めて10人余り
当然、手厚い介護が出来る。
書かれているテーマは重いし
ここでまとまった感想を書けそうもなく
タラタラと行き当たりばったりで書かせて貰います。
この本のテーマに流れる思想は前に読んだ「大往生したけりゃ医療にかかわるな」とも通じる。
言葉は悪いけど「枯れるように死ぬ」のが高齢者にとっては一番苦痛なく、やすらかな終わり方。
高度成長期以後、日本は核家族化も進み、病になれば大きな病院に行き
そして、一分でも長く生きるための処置をするのが当然になった。
病院でやるべき事をやってもらって、そして死んだらそれは仕方ないことだと安心するのが普通になった。
でも、なんたが違うのかも…と、これを読んでいると思ってしまう。
最期の時をこの「なごみの里」やもしくは「自宅」(最期の最期の時を見計らって自宅に帰えるなどして)で
しずかに亡くなった方の話を読んでいると……泣けてきた。
延命処置をして、きっともう必要ない栄養を管で入れて、むくんだ体……
それって苦痛だろな…。
「大往生したけりゃ~」でも、ガンは戦わなければ痛くない…という話が出ていたけど
この「なごみの里」で亡くなったガンの高齢者も、だるいなどの訴えはあっても
痛みを訴えることはほとんどなかったらしい。
仮に、延命処置を拒み、自宅に連れ帰りたいと願っても、
介護の手が十分にない場合、あれこれ考えたら自宅は無理…と判断せざるを得ない。
医師側が協力的ならよいけど、そうではない場合は?
なごみの里のスタッフはそんな時に、良き協力者となってくれる。
それが「看取り師」
不思議だけど
亡くなる少し前、みんな、意識がクリアになる。なにか言葉残す。
認知症の人もクリアになると言い切っている。
みんな、遠く離れた娘の家に行ってきた…とか、亡くなった古い友人が遊びに来た…
などと言うのだ。
そして、ありがとう…と。
うちの父が亡くなった日。
夕方の回診で先生が「何か要望は?」みたいな話をしたら
父は「ありません。ありがとうございます」と言ったらしく
「そろそろだ」とその時先生は思ったのだと、後で話してくれた。
医師の経験から感じ取ったのだけろうけど、人ってやはりそうなんだろうか。
最期の看取りの数週間、もし目を離したときに一人で逝くとかわいそうだからと
寝ずに看病しているという方に対して
なごみの里を主催している柴田さんは
一人で逝ったのならばそれは本人がそう望んだから…と言う。
柴田さんの指摘による認知症についての記述
『知的機能の低下を感情面の敏感さで補っている。
理屈がわからない故に自分の身を守ろうとする動物的な本能に関する反応
感情面での反応が非常に大きくなるのだ。感情が我々よりも発達しているという見方も出来る
だから、普通の人にとってはなんでもない変化でも、認知症の人は敏感に感知して混乱し
ますます症状を悪化させるという悪循環に陥る』
『認知症は嫌なことをされると進んでしまう。
思い出すことをそこでやめようとしてしまうから』