「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

尊厳死とか延命がどうとか軽く言えなくなった。

2014-10-18 | ●介護録(~2015.2月)

先日配信された、アメリカ人の女性が余命宣告され安楽死を選択する決意をしたという記事には予想通りに、
「尊厳が~」とか
「自分も絶対同じ選択をする」というものが。


そんなことは軽々しく言えない
………最近はそう思うようになりました。

自分がその立場になった時、本当に安楽死の選択が出来るのか?
奇跡を信じたいと想うかもしれないし
1日でも長くこの場にいたいともがくかもしれない
その時にならないとわからないよ

第三者でいるときは、なんだって言えてしまう、多分。

尊厳がどうしたとか、延命がどうのとか、今の自分には
「きれい事」に聞こえてしまう。

でも、以前の自分が安楽死を選択した記事を見たら、自分もそうするって簡単に言ってただろうなぁ。

胃ろう選択が、まだ現実味を帯びてない時は
そこまでして生きるのは……っておもってた。

でも、実際に母に対してその選択をしなければならなくなって、
そんな簡単なことじゃないとわかった。
当事者ではなければ、あっさりと、そこまでして生きたくないよね~と言えるんだ。
でも、目の前に突きつけられると
よほど強い信念を持ってるか、
本人と固く約束してるか
確固たるものがないと簡単に答えは出せない。

思考停止
堂々巡り

その意味がよくわかる。


自分なら(胃ろうに)しない
親も嫌だと言っている
……いろんな人がそう言った。

グダグダになってる心にさらにナイフ突き立てられるような?

余命宣告された方が安楽死を選択し、訪問医師がそれを受け入れる記録を読んだことがある。
本の中の一部でそれほど細かく書かれていたわけではなかったけど、
その方は、安楽死について勉強していたし、家族ともしっかり話し合い、訪問医師ともたくさんのやり取りをして、その時を迎えた。

それを読んだ時も
「そうなったら私も安楽死するぅ~」なんて言えることじゃないなって思ったし…………

重いんだ






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