「私はあなたの意見に何一つ賛成できないが、あなたがそれを言う権利は命がけで守るつもりだ」
これは18世紀のフランスの哲学者・作家であるヴォルテールの言葉とされています。言論の自由は民主主義におけるもっとも基本的な権利。米国の第二代大統領トマス・ジェファーソンは人類が将来において獲得すべき4つの自由として、「言論表現の自由」 「欠乏からの自由」 「信教の自由」 「恐怖からの自由」を挙げ、人民の意志こそがどのような政府にとっても基礎的な基盤であり、表現の自由を守ることが私たちの一番の目的と知るべきだ。 と言っています。私たちは同時に言論自身がもたらす恐怖からの自由も有しています。双方の自由を尊重することは成熟した民主主義社会を成立させる上で重要な要素だと思います。
さて、今回イスラム国で人質になった方々について、一部では『自己責任』と切り捨てる論調があること、残念に思います。私自身も国連統治下で内戦状態になっていたカンボジアや、米国の対テロ戦争への憎悪が渦巻くパキスタンとアフガニスタンの国境の部族支配地域などで平和構築活動に従事した経験がありますが、当然危険のリスクはあり、何かが起こった時は全て自分の責任だと思って活動をしていました。後藤健二さん自身も、現地に赴く前、カメラの前でそのように述べています。危険な場所には政府としても入って欲しくはない。しかし、『人道援助』を行う際にも、現場の声、弱い立場の人々の声なき声を受け止める人は絶対に必要です。政府であるがゆえに生じる制約を補う役割を果たしているのが後藤さんのようなフリージャーナリストであり、NGOで活動する人たちです。彼らの役割の価値を認める社会であって欲しいと願います。
外務省は国や地域を対象に『危険情報』を提供しています。危険情報それ自体には、国民の渡航・滞在を制限するような強制力はありません。たまたま何かの事件が起こっただけで、数百キロ離れた地域の危険度がついでにアップされることもよくあります。大使館の方々もこの点はジレンマを感じていると思います。そんな時に該当地域に行くと言うと当然いい顔はされませんが、帰ってくると、「で、どうでしたか?」と現地の状況を聞かれるのがいつものことでした。
今回の事件に関して「安倍政権の対応を批判する」ことが批判の対象になる風潮が生まれているとすれば大きな問題です。イスラム国の場合、相手が政府ではないのですから、日本政府が持つルートは限定的です。単に政府に委ねるのでなく、野党や、それぞれの分野の専門家が建設的批判精神を忘れず、あらゆる角度から分析し、解決を目指すとともに再発するリスクを最小化するための提案をしなければならないはず。全ての批判を許さない雰囲気があるとすれば、行く末はあの道しかないという危惧を抱きます。
多様性を受容する社会をつくること、それは日本の可能性を高める上で本当に大きな課題だと思います。
後藤健二さん、私は直接お話した記憶はないのですが、救出の手掛かりを探す中で共通の知人が沢山いることがわかってきました。その人間性や活動の様子を聞くと、何が何でも帰還してもらって、価値のある仕事を続けて欲しいと切に思います。できれば酒を飲みながら、命の危機と直面した時にどのように自分と向き合ったのか、その拠り所は何だったのか、話を聞きたいと思います。そのためにも、様々な立場、考えの方がそれぞれにできることを見出して、少しずつでも可能性を積み上げていきましょう。
ANFREL(Asian Network for Free Elections)の一員としてイラン国内のアフガニスタン難民キャンプで大統領選挙の監視活動を行った時の写真(2004年)