この連休は北朝鮮と国境を接する中国の延辺朝鮮族自治州に来ています。
1960年代に帰国事業で日本から北朝鮮に渡り、40年あまり過ごした後に脱北した方が中朝国境地域を案内してくれることになりました。この方は『日本から「北」』に帰った人の物語』の著者でもあり、ご自身も長白市で脱北後、この地域に戻るのは初めてとのこと。当時お世話になった方に会って残されたご家族の帰国の可能性を少しでも知りたいと切実な思いを抱かれていました。従って、延辺朝鮮族自治区の延吉や長白を中心に脱北者を巡る現在の状況を調査するとともに、拉致被害者、そして1959年からの帰国事業で北朝鮮に渡り、苦難の人生を歩まれた方々の帰国可能性を探りました。
1959年からの帰国事業で北朝鮮に渡った方は9万3千人以上。その中には1800人の日本人妻と6800人に及ぶ日本国籍を持った家族たちも含まれます。
日本での激しい差別から逃れ、「地上の楽園」で共和国建設の力になりたいと人生を賭けて海を渡った人々を待っていたのは一切の人権が認められない社会。日本政府としては生活保護世帯が多く、治安上の懸案事項でもあった人々を『厄介払い』でき、北朝鮮は在日朝鮮人を朝鮮戦争で失われた労働力、とくに炭鉱や鉱山をはじめとする北朝鮮の人々さえ行きたがらない場所での労働力の埋め合わせにするメリットがあったとの分析もあります。
この方々を何とか帰国させたい、また、北朝鮮から国境を越えて中国に入る人々が置かれた最新の状況を調べ、人道的な措置と地域の不安定要因の最小化の両立につながる政策を提案したい、そんな思いを長年抱いてきましたが、今回は国会で問題提起を行う上での様々な情報を収集することができました。
29日に日本を出発して当日の深夜に中国、北朝鮮、ロシアの国境近くの延吉市に到着。翌日からリサーチを開始しました。31日からは延吉から約500キロ離れた国境の町・長白に行きました。
長白の町は北朝鮮に一番近く、わずか数メートル幅の川の向こうに北朝鮮の人々の生活が手に取るように見えます。夜は真っ暗になってしまう町並みや人々の様子を見れば貧しく苦しい生活は一目瞭然です。脱北者を巡る状況は常に変化しているようですが、命懸けの行動であることは変わりません。
金正恩体制になって国境警備が非常に厳しくなった一方で、上手く川を渡っても中国側の捜索も厳しくなり、公安に見つかれば強制送還される状況は変わりません。しかし、国境貿易に関わっている人たちによれば、金正恩体制になり、金正日時代の軍事一辺倒から『国民を食べさせる』ことが重要と少しずつ政策転換しているようです。従って、経済的な理由で国境を超える人々に対しては黙認する状況も新たに生まれる一方で、国境を超える際にブローカーが介在し、借金を返させるための人身売買も横行しています。強制送還されると命を落とす可能性が高く、脱北者を巡る状況は相変わらず過酷を極めています。
一方、新体制になり、軍の備蓄米を配給したり、土地を試験的に個人に分配したり、市場経済への移行を部分的に探っているようにも思えます。そうなると、新しい局面に移行できるかどうかは国際社会との関係構築が重要。援助を獲得するために人道的措置として拉致問題の解決、日本国籍者の帰国、さらに脱北者への配慮などがより前向きに検討される可能性が出てきたと言えるかもしれません。何としても解決につなげるため、日本政府の対応の在り方について国会で問題提起していきます。
北朝鮮恵山市を背景に
川で洗濯をする北朝鮮の女性たち
恵山市中心の様子
当時阪口さんは延吉市出身の留学生と食事をともにするなどして、彼らと語らいの場を設けられていたことを思い出します。それはすでに十数年前のことですが、その当時から阪口さんは抑圧されている人たちへの人道支援を口にされていたことでした。もちろん当時は専門学校のいち教員という立場であり、NGO団体の主要メンバーであったにしても、おのずとその活動の手が及ばざることであったことにある種の憤りを感じられたことでしょう。そしてそうした壁を打破するためにも、政治家という道を選ばれたことと推察する次第です(これは私個人の勝手な推察ですが…)。
その意味では、政治家になられた今、思う存分にこれまでの思いを政策という形で打ち出していただき、問題解決に向けての推進力となられますことを期待しています。