博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

西安周遊旅行 東線ルート

2009年05月31日 | 旅行・オフ会・展覧会
今日は昨日までの祝日の振り替えで朝一から講義があるはずでしたが、早起きして教室まで行ってみると教員と私しか来なかったので流れ休講に…… 中国人の同学はみんな今日までが休みだと決め込んで帰省したりしてる模様。

さて、西安に着いて2日目の5月26日から観光を開始。天気予報によると翌日から雨になるということで、陝西省歴史博物館など雨でもさほど支障の無い所は後回しにしてこの日は秦始皇陵と兵馬俑に行ってみることに。兵馬俑や華清池など西安の東側の観光地は西安駅東側の駐車場から出ている遊5(306)バスで片道7元で周遊することができますが、この駐車場にはツアーバスも停車していて観光客の呼び込みをしているので、紛らわしいことこの上なしです。私も最初うっかりツアーバスの方に乗ってしまい、気付いて慌てて飛び降りました(^^;)

まずは秦始皇陵に到着。



ここは周知のように発掘などは一切されていないので、現状では単なる小高い山なんですが、この下に水銀の海や川が流れているかと思うと何だかワクワクしてきます。秦始皇陵を出たところでタクシーの運ちゃんらしき人から「兵馬俑に行くなら5元で乗せて行ってやるよ」と話しかけられ、「それなら」と車に向かうとあからさまに自家用車みたいな車に案内され、「これはいかん」と慌てて別のタクシーに飛び乗り、兵馬俑に向かうことに。しかしそのタクシーの運ちゃんも途中で兵馬俑の人形を売ってる店に連れ込もうとする始末……(もちろん「興味ない」と断って兵馬俑に直行させた。) 何だか西安は他の観光地より悪い人がいっぱいだお(-_-;)

で、ようやく兵馬俑に到着。ここは10年以上前にもツアーで来たことがあるのですが、その時にはまだ二号坑・三号坑が発掘されていなかったので、当時とはだいぶ様子が変わってました。というわけで三号坑の写真を載っけておきます。



ちなみにガイドブックには「館内は原則として写真撮影禁止」なんて書いてますが、実際のところは「フラッシュ禁止」の看板があるだけで写真撮影は可。ただし一部現在発掘・調査中の箇所については撮影禁止です。下は二号坑で展示されている立射俑。一部ではカンフーのポーズを取っているという珍説もあるアレです(^^;)



他には将軍俑・跪射俑などもこんな感じで展示されていました。そして兵馬俑観光のハイライトはこれ。



世界最大の糸吊り人形「勇士和女孩」だそうです。(写真で分かりにくいですが、ピアノ線か何かで吊ってあります。)オリンピックを記念して作られた模様(^^;) これが今回の旅で2番目に印象に残ったものです。(ちなみに1番目は横店化のレベルを超越した法門寺。)

兵馬俑を出た後はどこに行こうか一瞬迷いましたが、半坡遺跡(半坡博物館)に寄ってみることに。ここは新石器時代の集落遺跡ですが、分かりやすく言うと下の写真の人面魚みたいな紋様が描かれた土器が出土した所です。白川静が禹の図像だと言ってたアレです。



ここではそういった土器のほか、下の写真のような住居跡や墓地に埋葬されていた人骨などが見学できるようになっています。



というわけで東線ルートの旅はここまで。
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西安周遊旅行 序

2009年05月30日 | 旅行・オフ会・展覧会
というわけで無事に西安から帰って来れました!新型インフルエンザの影響で観光客が減ってるかなと思いきや、街中欧米人の観光客で溢れてました(^^;) 私もそうですけど外人は全く自重しませんなあ…… 飛行機も国内線だったせいか、検温なども全くありませんでしたね。もっとも、さきほど「中国国内で初の二次感染を確認」というニュースを見たので、これからその辺りの処置が厳しくなってくるのかもしれませんが。

で、今回の旅の特徴ですが……

○雨は結局丸1日きっちり降った。
○周原遺址にはたどり着けなかった(;´д⊂)  その代わり周公廟と茂陵に行った。
○今回も変なモニュメントを発見。
○法門寺がヤバいことになってた。横店化などというチャチなもんじゃなく、もっと恐ろしいものの片鱗を味わった気がした。

といったところでしょうか。

西安の街中は地下鉄が開通予定とのことで、鐘楼の周辺など大通り沿いが工事中になってました。お陰様でバス停の位置が変わってたり、通りの名前を記した標識が無くなってたりと不便なことこの上ない状況に…… もうオリンピックも終わったんだし今更地下鉄なんて通さなくていいじゃないかと思うのですが(^^;)

旅行の詳しい様子などはまた明日以降にアップしていきます。今日のところは街のシンボル鐘楼の写真だけでご勘弁を……

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中原逐鹿の旅7日間 北京

2009年04月20日 | 旅行・オフ会・展覧会
6日目は北京で観光とお買い物。よく考えたらもう中原でも何でもないですね…… まずは去年の11月に見学し損ねた首都博物館に行ってみることに。



ここは一応予約制ということになっているので、旅行前に電話で予約して予約番号を事前にゲット。受付で私の番号を告げて確認用にパスポートを見せますと、「これはあんたの番号ではない」という返答が…… 仕方ないのでパスポート番号から端末で検索してもらったところ、私の見学日は昨日になっていたことが判明。そう言えば電話で予約する時に一瞬「4月6日」と言い間違えて「7日」と言い直したよなあと思い出した次第…… あの時にしっかり「4月6日」と記録されてしまったわけですね(-_-;) こういうことがあるからウェブ上で予約したかったのですが、公式サイトで予約しようと思っても何回試してもうまくいかないんだもんなあ……

しかしなぜか入場券が貰え、見学できることに。ここでは燕国関係や北京で発見された青銅器、燕侯の封建を記した克盉・克罍や廃銅の中から発見されるという劇的な発見のされ方をした班簋などをじっくりと鑑賞。しかし克盉・克罍については明らかに器そのものより銘文の方が重要なのに、銘文が見れるような展示の仕方になってなかったのが遺憾です(-_-;)

ここはじっくり展示を見出すとマジで丸1日潰れそうな勢いなので、後は流し見して午前中いっぱいで引き上げます。その後は王府井に出て書展めぐり。そこで例の舞台版『鹿鼎記』のポスターを目撃したわけであります。



書店巡りついでに琉璃廠にも足を運んでみました。



3年前に来た時は工事中の所が多かったのですが、当時の写真と見比べてみると建物の装飾のペカペカ度が上がってますね(^^;) 琉璃廠の書店を一通り見て回った後はここから宣武門の宿まで通り抜けることに。ここらへんの胡同は以前は四合院が密集していたのでしょうけど、既にマンションに建て変わってしまったり、取り壊されて塀だけが残されているという状態になってしまってますね……

7日目は朝一で新幹線に乗って長春に帰るだけで、しかも去年の11月に北京に来た時と全く同じ便なので安心しきっていたら、北京駅の待合室が以前とはまるで雰囲気が違ってます。前は普通にプラスチックのベンチが並んでるだけだったのが、何かホテルのロビーのような感じで1人掛けのソファが並べてありますし。本当にここの待合室でいいのかと改札が始まるまでドキドキでした(^^;) 何か最後の最後まで油断のならない旅でしたね……
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中原逐鹿の旅7日間 安陽~北京

2009年04月18日 | 旅行・オフ会・展覧会
5日目は新幹線で安陽から北京へと移動する手はずになってますが、乗るのは午後の便なので午前中いっぱい観光することに。ということでまずは袁林こと袁世凱の墓へと向かいます。



国内外からボロクソに言われようと一旦は皇帝の地位に即いたということで、上の写真のごとく袁世凱のくせに皇帝の陵墓に倣っていっちょまえに陵道まで造ってます(^^;)

そもそも彼の故郷でもないのに何でこんな所にお墓があるかというと、実は袁世凱、溥儀が即位した後にその父親の摂政王と不仲となり、一時期官界を退いてここ安陽で隠棲していたことがあるんですね。隠棲場所に安陽を選んだのは、ここが交通の要所で北京ともほど近く、官界の情報が入って来やすいからだとか。確かに現在でも安陽は鉄道の複数の路線の経由地となっており、新幹線で北京まで3時間半程度の距離であるわけで、このあたりの目の付け所はさすがと言ったところ。それでこの地が気に入ったのか、亡くなる際に安陽を流れる洹水の北岸に葬ってくれと遺言したとのこと。

下の写真は袁世凱が隠棲していたおりに洹水上で漁夫に扮して撮ったもの。な、何というコスプレ!(^^;)



実はこの袁林に来た目的はもうひとつありまして、地図で確認すると近年発掘された洹北商城(殷墟以前の殷王朝の宮殿遺址)がこの近くにあるということで、ひょっとしたら袁林からこの遺跡がのぞけるかもしれないなあと思ったからであります。しかし遺址に接する航空運動学校の施設らしきもの(そもそも空軍関係の施設を建築する際にこの遺跡が発見された)は確認されたものの、肝心の遺跡のある所へは行けないようです。まあ、この遺跡は鉄道の線路沿いに位置しているので、うまく行けば北京への新幹線の車窓から見られるかもしれないなあと思いつつ袁林を後にします。

もう少し時間があるので、ついでに安陽博物館へと行ってみます。ここは前に安陽で発掘したことのある同学が「安陽には殷墟以外にも博物館があるよ」と(中国語で)言っていたので、何があるのか分からないまま来てみたわけですが……



まさかの日曜日閉館(;´д⊂) 併設の図書館は開いていたのに…… 中には青銅器展示場とか学術報告庁といったコーナーがあるようです。無念……

トボトボと引き返して早めの昼食を取り、安陽駅へ。後の希望は車窓から見えるかもしれない洹北商城ですが、列車に乗り込んでみると私の席におっさんが勝手に座っており、このおっさんを立ち退かせたり、その後は対向車線に列車が入ってきたりして結局それらしきものは確認できず。ああ……(;´д⊂)

で、勝手に傷心しているうちに北京へと到着。北京での宿は中国で全国展開しているビジネスホテルチェーン速8酒店の宣武門店です。交通の便の良さ(地下鉄宣武門駅まで徒歩10分程度)と値段に惹かれて予約してみたわけですが、通された部屋が半地下室にある独房みたいな部屋でやや不安が……(^^;) まあ、実際のところは部屋にネットができるパソコンが置いてあったり、シャワーのお湯もちゃんと出たりで問題は無かったわけですけどね。

それで早速晩ご飯を食べがてら王府井に出て、夜9時まで開いている王府井書店で学術書やらDVDを買い込みます。何となく発送を頼まずに買った物をそのまま持ち帰ってしまいましたが、重量的に直接長春まで持って帰るのは限界に近い状況に。翌日も書店巡りをするわけですが、あとは長春まで発送してもらうことにしますか。
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中原逐鹿の旅7日間 安陽

2009年04月16日 | 旅行・オフ会・展覧会
というわけで4日目はいよいよメインデッシュの安陽に到着。まずは安陽駅からほど近い安陽賓館へと向かいます。駅に着いたのが午前9時前なので、こんな時間から部屋に入れてくれるかしら?と思ってたら、あっさりとチェックインでき、おまけにホテル内にある切符売り場で北京から長春へと帰る切符がゲットできてしまいました。これで無事に長春まで帰れることが確定しました(^^;) 安陽賓館、えらいっ!

で、殷墟博物苑へとやって参りました!



が、上の写真の如くまるでアメリカインディアンの集落を思わせる門に不安を隠せません(^^;) ちなみに殷墟博物苑は「殷墟宮殿宗廟遺址」と「殷墟王陵遺址」の2箇所に分かれており、「殷墟宮殿宗廟遺址」の方は更に甲骨や青銅器などを展示する「殷墟博物館」が併設されています。上の写真は「殷墟宮殿宗廟遺址」の入り口で、まずはこちらから見学。

ここはだだっ広い敷地の中で祭祀坑や建築址などを見学できる野外博物館のようになっており、動物の骨や人骨などが掘り出された所は下の写真のようにガラスケースがかぶせられております。



こちらは敷地内を流れる洹水。この川の名前は甲骨文にも登場します。



やはり甲骨文に登場し、殷王武丁の妃とされる婦好。



意外と宮殿から近い所に墓があるのねと思いきや、後で聞いた話では陵墓は全く違う所にあり、副葬品の一部を掘り出してここやその他の博物館で展示するようにし(河南博物院でも婦好の青銅器が展示されてました)、お墓自体は将来の再発掘に備えて埋め戻したそうです。

2時間ほどたっぷり見学してそろそろ昼ごはんが欲しいところですが、困ったことに苑内や周辺には食堂はありません。(骨董屋だけがアホみたいにある……)仕方ないので売店で薩摩芋のチップスを買って取り敢えず空腹をしのぎ、「殷墟宮殿宗廟遺址」の入り口からマイクロバスに乗り込んで西北坑、すなわち「殷墟王陵遺址」へと向かいます。ちなみにこのマイクロバス、乗り場を示す看板もなく、車自体も分かりやすい目印が付いているわけではありません(^^;) 

安陽も駅の周辺とか殷墟に向かう道はすっかり都市化しており、昔大学の先輩が安陽に行った時に「殷墟の周辺は麦畑しか無かった」と言っていたのとは随分違うなあと思っていたのですが、王陵遺址までの道のりはなるほど畑が広がってます。安陽もここ数年で一気に開けてきたんでしょうか。

王陵遺址の方も野外博物館みたいな感じで、陵墓などの発掘跡が見学できるようになってます。下の写真は苑内から入り口に向けて撮ったもの。



で、下の写真のような感じで生け垣によって陵墓の範囲が囲われています。何でこんな訳の分からないことをするんだか…… ちなみにこれも後で聞いた話ですが、生け垣の下の土をよく見ると土器のカケラが落ちていることがあるとか。ああ、そんな所までチェックしてなかったよ(;´д⊂)



こちらは有名な「司母戊鼎」が出土した260号墓。展示場の構造上陵墓の全体が撮れないので、一部だけ。



で、王陵遺址を出て一旦宮殿宗廟遺址へと戻り、そこから歩いてかなり遅い昼食を取るべく歩いてホテルまで戻ることにしましたが、たまたま入った餃子屋の近くでこんなものを発見。



何か「殷墟鋳銅遺址」って書いてあるんですけど、この植え込みのあたりから工具やら何やら色々と出て来たってことなんでしょうか。道端でこんなものがあるなんて、まっこと油断がなりません(^^;)
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中原逐鹿の旅7日間 洛陽

2009年04月15日 | 旅行・オフ会・展覧会
前回から間が空きましたが、河南省の旅3日目です。この日は長距離バスに乗って鄭州から日帰りで洛陽へと向かいます。洛陽に着いてまずはタクシーに乗り、王城公園と公園に隣接する洛陽博物館へと向かいます。タクシーの運ちゃんは「洛陽博物館?あそこは小さくて大した物も無いよ。博物館ならそれよりもっと面白い所があるぜ」と言うものの、とある予感があった私はスッパリとこれを無視。

まずは王城公園に到着。運ちゃんに「この次は白馬寺に行きたい」と言うと、王城公園と博物館を見終わるまで待っていてくれることに。何となくタクシーをチャーターした状態になったようです。

この王城公園ですが、文献によると西周の成王の時代にこの辺り一帯に王都のひとつとして成周(洛邑)が建設され、平王の代にはここを正式な都とするようになります。(すなわち周の東遷。)敬王の代には更に後の漢魏故城(すなわち後漢から北魏の時代にかけて洛陽が置かれた場所)へと都城が移転し、元々成周の都城が置かれていたこの場所は「王城」と呼ばれるようになります。西周金文の「何尊」はこの成周を「中国」と呼んでいたと読み取れる一文があり、すなわち当時の感覚ではこの辺り一帯こそが「中国」、すなわち天下の中心なのであります!(^^;)

散々煽ったところで王城公園に足を踏み入れてみると、そこは遊園地でした(^^;) それも動物園を併設する日本ではめっきり少なくなったベタな遊園地です。取り敢えず園内を流れる澗河らしき川の写真を載っけておきますが(この澗河をまたぐような形で東周期の王城遺址が発見されたそうな)、この河もご覧の通り貸しボート乗り場になってます。



気を取り直して洛陽博物館へ。



河南博物院や鄭州博物館と同じく入場無料かと思いきや、きっちり入場料20元取られました…… 規模もタクシーの運ちゃんの言うとおり小さいですが、予想通り洛陽北窯西周墓地出土器などが展示されてました。

その後さきほどの運ちゃんと合流し、白馬寺へと向かうことにしますが、運ちゃんはどうもさきほど言いかけた「面白い博物館」に行かせたい模様。よくよく話を聞くとそこは「古墓博物館」と言って漢代から隋唐あたりまでの墓葬が集められているとのこと。何だか凄そうなので、ここにも寄ってみることに。



ということで邙山山麓の古墓博物館に到着。ここは展示室が回廊型の地下室になっていて、まるで牢獄の中でひとつずつ独房を探訪するような感じで各時代の墓室が見られるようになってます(^^;) と言っても元からここにある墓は下の写真の北魏宣武帝の景陵のみで、他はすべて洛陽近辺の中小規模の墓葬をここに移してきたようですが。後で聞いた話によると、各時代の墓誌銘が収集されていると言うことで、漢から唐あたりまでの考古学をやっている人には聖地みたいな所ということですが……



古墓博物館を発った後はようやく白馬寺へ。



「古墓博物館から白馬寺経由で洛陽駅まで戻るのに計200元でどうだい?」とあからさまにボッタクリモードに入ってきたので、タクシーの運ちゃんともここでお別れです(^^;) 

ここは後漢の時代に中国で初めて建てられた仏教寺院で、さきほど触れた漢魏故城ともほど近い所にあります。ガイドブックには境内に塔があると書いており、この塔から漢魏故城があった辺りを一望できるかなと思いきや、この塔が折悪く現在修築中…… しかも境内はダメな具合に綺麗に整えられていましたが、寺の一角に「印度殿」なる謎の建物が……



仏教発祥の地インドとの友好を記念したものらしいですが、色々といい加減にしていただきたい(^^;) ちなみに中には巨大なガンダーラ風の仏像が安置されています。

帰りはバスで洛陽駅まで戻ることにしましたが(駅の近くに鄭州への長距離バス乗り場もある)、途中で「王城広場」なるバス停を発見。王城公園とは別に広場もあるのねと思い、そのままスルーしましたが、後から調べたところ数年前にこの辺りで東周期の車馬坑がいくつも発見され、これらの車馬坑を見学できる「洛陽周王城天子駕六博物館」が建てられたとのこと。こんなものを見逃すなんて一生の不覚…… そう言えば語学で一緒のクラスだったバックパッカーも以前洛陽で車馬坑を見たとかいってましたっけ。あああ……(;´д⊂)
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中原逐鹿の旅7日間 鄭州

2009年04月08日 | 旅行・オフ会・展覧会
2日目はまず鄭州駅で明日以降の切符をゲットしてから市内観光に出ることに。3日の鄭州~洛陽間の往復切符、4日の鄭州~安陽、5日の安陽~北京西駅の4枚の切符を買うはずが、極めて態度のよろしくない係員のおばちゃんに「没有!」という返答を連発され、鄭州~安陽間の切符しか購入できないという事態に…… 

鄭州~洛陽間は長距離バスに乗れば良いとして、安陽~北京西駅の切符は始発駅の鄭州でゲット出来ないとえらいことになります。というのは、中国の列車の切符は基本的に路線の始発・終着駅以外の途中駅では入手が困難で、かつ安陽始発の北京行きの路線なんてのは存在しないので、何としても始発駅の鄭州で確保する必要があったのです。で、ダメもとで他のカウンターで聞いてみたら、あっさりと安陽~北京西の切符が購入できました。あともう少しで係員のおばちゃんの陰謀で安陽で路頭に迷うところでしたよ(-_-;)

気を取り直して鄭州市内観光に出発です。まずは鄭州商城、すなわち殷代早期の城壁の見物に向かいます。



城壁とは言っても土を突き固めて造ったものなので、見てくれは河原の土手と変わりません(^^;)(川はありませんけどね……)ちなみにこの城壁は石段が付いていて登ることもでき、すっかり地元民の散歩コースと化しています。また、この城壁は大通りと交差する部分は切断されており、切断面には下の写真のごとく「鄭州商代遺址」といったプレートが付けられており、その回りは広場になっています。見てくれがショボかろうが何だろうがこの城壁を見るのが私の夢の1つだったので、これで旅の目的の半分が達成されたわけです。(ちなみに目的のもう半分は殷墟見学)



城壁を見て回った後は河南博物院・鄭州博物館に向かいます。



上の写真は河南博物院。随分立派な建物ですが、この入り口に入ろうとすると門番に制止され、脇の方にある小さな建物に誘導されました。おそらくこちらが常設店の建物で、写真の建物が特別展用の建物で、この時は特別展が開催されていなかったので入れなかったのかなあと思うのですが……

常設展示では2000年代に発掘されたかなり新しい物も含め、河南省中から掻き集めた重要文物がこれでもかと言わんばかりに展示されており、心底鄭州に来て良かったと思いました(^^;) 青銅器では平頂山応国墓地出土の柞伯簋、鹿邑太清宮長子口墓出土器(少し前に微子啓の墓ではないかということで騒がれた遺跡ですね)、新鄭鄭国祭祀遺址出土器、王子午鼎(これは何回も日本に来たことがありますなあ)などが見所でした。

鄭州博物館の方は入り口からしてあからさまに改修している雰囲気でイヤな予感がしたのですが、無事に常設展を見学できました。こちらも二里頭遺址や鄭州商城の出土品などが展示されており、それなりに見応えのある所でした。下の写真は館内で展示されていたモニュメントで、殷の初代成湯の像だそうです(^^;) 何かロボットみたいで、妙に気になるデザインです。



ちなみに河南博物院・鄭州博物館とも入場料は無料です。

おまけ。街のシンボル二七塔。1923年の二七ストを記念して1971年に建てられたとガイドブックにはありますが、事件の詳細は知りません(^^;) なお、塔の中は改装中ということで入れませんでした。



結局黄河遊覧区は時間の都合と天気の雲向きが怪しかったのでパスしましたが、翌々日に鄭州から安陽に移動する際に車窓から黄河を目撃。水がかなり涸れていて泥沼のようになってました。河南省では昨秋から旱魃が続いているということですが……
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中原逐鹿の旅7日間 序

2009年04月07日 | 旅行・オフ会・展覧会
というわけで何とかかんとか河南旅行から帰って来ました。

旅の前半はまだまだ肌寒かったのですが、4日から急に気温が上がって特に北京では最高気温が25度にも達し、ジャンパーを着て来たことを猛烈に後悔しました(^^;)

まずは4月1日の夜に飛行機で長春から鄭州まで向かったのですが、早めに空港に着いて電光掲示板を確認した途端に鄭州への便の延着が判明したり、鄭州に着いてタクシーに乗ってからも、既にホテルを予約していると言っているにも関わらず運ちゃんから別のホテルに泊まらないかと何度も勧誘されたりと、実に幸先の悪いスタートを切りました……

2日目以降の様子については明日以降に回すとして、先に北京の首都劇場前で見た舞台版『鹿鼎記』のポスターを上げておきます。





劇の概要については首都劇場のブログを参照のこと。韋小宝と康熙帝・陳近南との関係を話の主軸とし、7人の妻については建寧公主とのエピソードに的を絞ったというようなことを書いてますね。まあ、7人の妻の中には割とどうでもいいキャラもいたりしますしね(^^;) しかし武侠パロディドラマのスタッフが金庸作品の舞台版に関わることになるなんて、世の中分からんもんです…… 
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彦根でひこにゃん見て来ました

2009年02月09日 | 旅行・オフ会・展覧会
昨日は朝から友人と2人で彦根に行ってました。

この友人というのは中学・高校時代のツレで、今までも1年に1度ぐらいのペースで2人、あるいはそれにもう1人ツレを加えて日帰り旅行をしたりしていたのですが、今回私が一時帰国するということで、今年も日帰り旅行を敢行することに。で、行き先は「ひこにゃんが見たいから」という私の希望で彦根に決定しました。

で、彦根駅に着いてからその友人が一言。「ニャンまげってさあ、飛びついたり蹴りを入れたりしても良かったやんねえ?」イヤイヤ、今日見に行くのはニャンまげとちゃうし、ほんで仮にニャンまげでも蹴りを入れるのはたぶんNGやから!とツッコミつつ彦根城へ。



ひこにゃんが出没するのは13時半からということで、(基本的に土・日・祝日の昼時を中心に1日3回天守閣前の広場などで出没するらしい。詳しくは公式サイトを参照のこと。)それまで天守閣(上段の写真)や、はたまた城の真ん前にある埋木舎(下の写真)やその他資料館などを見学。



埋木舎(うもれぎのや)は井伊直弼が彦根藩主になる前に暮らしていた屋敷。彼は藩主の14男として生まれたため、他家への養子縁組などもなかなか見つからず、(弟の方が先に別の大名家の養子に迎えられて悔しい思いをしたこともあったらしい。)ここで長らく捨て扶持を与えられながら暮らしていたとのこと。入り口に「大久保」という表札が掛かっていてびっくりしましたが、後にここが藩の重臣の大久保氏(大久保彦左衛門とか大久保忠世など幕臣大久保氏に連なる家柄らしい)に払い下げられたとのことです。

で、ひこにゃんであります。時間に合わせてもう一度天守閣へと戻って待ちかまえてますと、まずは係員からの説明が。「これから30分間ここでひこにゃんを放し飼いにします。」……ええっ、今放し飼いって言った!?(^^;) 「それでひこにゃんは時々皆さんの近くまで寄っていくと思いますが、その時に殴ったり蹴りを入れたりしないでくださいね。そんなことをするとひこなゃんはスネて家に帰っちゃいますよ~」……やっぱり蹴りを入れるのはNGのようです。

で、30分間のショータイムが始まりましたが……





こんな調子でひたすら向きを変えたり、羽子板とか刀といったアイテムを持ち替えて写真を撮りやすいようにポーズを決めるだけで、ぬいぐるみショーのようにダンスをしたりスタッフと寸劇をしたりというような芸は一切無しです。お馴染み「ひこにゃん音頭」などのBGMも一切無しで、本当に放し飼いというのがふさわしい状況です。それで30分の間をもたせるというのも凄いような気がしますが、最後にスタッフが「ひこにゃんはそろそろお腹が空いて、おやつを食べに帰りたいようです!」とか言い出し、観客に手を振りつつ櫓を渡って控え室へと引き返して行きます。



後で城内の彦根城博物館前で行われたショーの方にも行ってみましたが、こっちも同じような感じです(^^;)



彦根城を出た後は土産物屋街でお土産のお菓子などを物色しましたが、そこで便乗キャラいしだみつにゃんとしまさこにゃんのグッズを発見。こいつら、必要以上に目つきが悪いんですが…… (キャラデザインは「ひこね街の駅 戦国丸」のサイトを参照。)某店に飾られていた、しまさこにゃんが島左近のお墓に地酒「島左近」をお供えしてお参りしている写真には何だか頭がクラッときました……

いしだみつにゃんと言えば三成の城として知られる佐和山城跡が近辺にあるわけですが、石垣も満足に残ってないようだし、こんな寒い時期に山登りなんかしたくないし、(現在はハイキングコースとして整備されているらしい。)おまけに三成に(というか戦国~江戸初期の武将に)思い入れがあるわけではないしということで、壮大にスルー。しかし目当てのひこにゃんと埋木舎を見れて大満足の1日でありました(^^;)
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冬の上海・杭州5日間 4~5日目後編

2009年01月18日 | 旅行・オフ会・展覧会
春節まであと一週間以上あるのに、こちらでは早くも打ち上げ花火がバンバン上がって正月モードに入ってます。もっとも、今年は春節が早いせいか元旦からこのかたずーっと正月気分を引きずってるような気もしますが(^^;)

で、上海・杭州旅行4日目の続きであります。腹ごなしが済んだ後は孤山~白堤と西湖を横断します。その孤山の入り口でいきなり「武松の墓」なるものを発見。



武松って架空の人物じゃないのかよ!と思わずツッコんでしまいましたが、解説板を見ると「武松の名は宋~元の際の周密『癸辛雑識』にも見える」とか何とか書いてますね。それなりに由来がある人物だから宋江みたいに実在してたっておかしくないんだと言いたいんでしょうか…… なお、武松の名は一応『大宋宣和遺事』にも見えるとのことです。

このほか、孤山では革命の巾幗英雄こと秋瑾の墓、清末の考証学者兪樾の記念館、浙江省博物館、西泠印社といった所を見て回りました。下の写真は西泠印社のシンボルの塔。西泠印社は金石篆刻の研究・制作団体で、ここ孤山に本部があります。



浙江省博物館は杭州郊外にある良渚遺跡や河姆渡遺跡の出土文物を展示しているほか、『四庫全書』の7部の正本のうちの1部が収められていた文瀾閣が敷地内にあると聞いて楽しみにしていたのですが、文瀾閣がありそうなゾーンは工事中で立ち入れず。何とも残念です…… ちなみに文瀾閣本自体は現在浙江省図書館に収蔵されているとのこと。

さて、白堤の北東端「断橋残雪」に辿り着いたあとは南へ戻って「三潭印月」と「花港観魚」を見て回ります。


「断橋残雪」:ここは『白蛇伝』と許仙と白素貞が出会ったことになっている場所。


「三潭印月」:西湖に浮かぶ小島で、円環状の島に十字型というか卍型の橋が架かっています。ここは船でしか来れません。


「花港観魚」:ここの紅魚池には名前の通り恐ろしい数の鯉が生息してます。

で、午前中にスルーした章太炎記念館にもちゃんと立ち寄る事が出来ました。このあたり計画性のなさが如実に現れてますね……



で、今日の夕食は河坊街で食べることに。ここは南宋時代には一番の繁華街だった所で、現在は当時の街並みを再現した観光スポットになっているとのこと。こんな横店臭い所は是非行ってみなければ!ということで中山中路を南下して進んで行きますが、この中山中路が地元民しか歩いておらず、果物屋とかおしゃれ系じゃない服屋とかが軒を連ねているという紛う事無き裏通りなのでありました(^^;) 

夕食もこの通りの小吃店で済ましてしまうことに。肉マンとエビワンタンとレモンティーでしめて7.5元。食事の中身も値段も普段長春で食べているものにだいぶ近づいてきました(^^;) 

で、河坊街の入り口となる門が見えてきましたが……


門の外側(すなわち中山中路)と……


門の内側……

何かもう全然雰囲気が違うんですが(^^;) ちなみに中山中路では写真のごとくあちこち工事中だったのですが、この通りも河坊街みたいに生まれ変わってしまうのでしょうか。

ということで今回の旅はここで終了です。杭州では結局西湖の周りをグルグル回るだけで終わってしまいましたが、次の機会があれば是非郊外の良渚遺跡(博物館があるらしい)や横店影視城に足を伸ばしてみたいところです。そう言えば王国維と金庸の故郷である海寧もこの近くなんですよね。路線を確認すると上海から杭州へ動車で移動する時にここを通過したようですが……
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