ロータール・フォン・ファルケンハウゼン著、吉本道雅訳『周代中国の社会考古学』(京都大学学術出版会、2006年12月)
ドイツ人中国学者(ただし近年アメリカの市民権を取得されたとのこと)による著書で、西周から戦国にかけての礼制の変革について論じています。
周代の礼制には二つの画期がある。最初の画期となったのは前850年頃であり、この時期に「西周後期礼制改革」がおこった。墓葬や宗廟で用いられた青銅器の紋様が殷代以来の動物をモチーフとしたものから幾何学的なものに変化し、青銅器の器種も酒器にかわって鼎や簋などの食事に関係する容器や編鐘が用いられるようになった。また貴族の身分に応じて決められた数量の青銅器を墓や窖蔵に埋納する列鼎制度が行われるようになった。
二度目の画期となったのが前600年頃であり、この時期に「春秋中期儀礼再編」がおこった。この頃には地方ごとに独自の器種・器型が制作されるようになり、(これを著者は「通常の器群」と呼んでいる。)貴族の墓葬に用いられたが、諸侯国の君主や上級貴族の副葬品には「通常の器群」に加えて西周後期以来の伝統的な器種・器型(これを「特別の器群」と呼ぶ。)が用いられた。また下級貴族の墓葬は時代が進むにつれ庶人の墓葬との区別が曖昧になっていき、副葬品も明器が多く用いられるようになった。
このような礼制改革と平行して死生観の変化もおこった。西周期には貴族の祖先の御霊は上帝のもとにおり、宗廟での祭祀の際に子孫のもとに下ってくるという信仰があったのが、春秋期以後はこうした信仰が失われていった。宗廟の祭祀はかつては子孫が祖先の援助を確保するために行われていたのが、単に現世の一族の結束を固めることが目的となり、また墓を死者のための宮殿、生者の世界のミニチュアと見なすようになった。墓の副葬品に日用品を模した明器が用いられるようになった背景もここにある。またこの頃から宇宙への関心も芽生えるようになった。
こうした礼制と死生観の変化は、儒家の主張する礼制再編の魁となった。
以上が本書の要旨ですが、これらの論説が基本的に文献資料ではなく考古学の知見から導き出されたものであるという点が注目されます。中国人研究者の場合、出土資料によって経書などの文献資料の内容が正確であることを証明しようとする傾向が強く、出土資料が伝世の資料を裏づけるための道具として扱われがちであったのに対して、本書の著者は外国人ということもあってこうした研究の姿勢に縛られずに議論を展開しています。内容のみならず研究の手法についてもこれからの可能性を感じさせる好著です。
ドイツ人中国学者(ただし近年アメリカの市民権を取得されたとのこと)による著書で、西周から戦国にかけての礼制の変革について論じています。
周代の礼制には二つの画期がある。最初の画期となったのは前850年頃であり、この時期に「西周後期礼制改革」がおこった。墓葬や宗廟で用いられた青銅器の紋様が殷代以来の動物をモチーフとしたものから幾何学的なものに変化し、青銅器の器種も酒器にかわって鼎や簋などの食事に関係する容器や編鐘が用いられるようになった。また貴族の身分に応じて決められた数量の青銅器を墓や窖蔵に埋納する列鼎制度が行われるようになった。
二度目の画期となったのが前600年頃であり、この時期に「春秋中期儀礼再編」がおこった。この頃には地方ごとに独自の器種・器型が制作されるようになり、(これを著者は「通常の器群」と呼んでいる。)貴族の墓葬に用いられたが、諸侯国の君主や上級貴族の副葬品には「通常の器群」に加えて西周後期以来の伝統的な器種・器型(これを「特別の器群」と呼ぶ。)が用いられた。また下級貴族の墓葬は時代が進むにつれ庶人の墓葬との区別が曖昧になっていき、副葬品も明器が多く用いられるようになった。
このような礼制改革と平行して死生観の変化もおこった。西周期には貴族の祖先の御霊は上帝のもとにおり、宗廟での祭祀の際に子孫のもとに下ってくるという信仰があったのが、春秋期以後はこうした信仰が失われていった。宗廟の祭祀はかつては子孫が祖先の援助を確保するために行われていたのが、単に現世の一族の結束を固めることが目的となり、また墓を死者のための宮殿、生者の世界のミニチュアと見なすようになった。墓の副葬品に日用品を模した明器が用いられるようになった背景もここにある。またこの頃から宇宙への関心も芽生えるようになった。
こうした礼制と死生観の変化は、儒家の主張する礼制再編の魁となった。
以上が本書の要旨ですが、これらの論説が基本的に文献資料ではなく考古学の知見から導き出されたものであるという点が注目されます。中国人研究者の場合、出土資料によって経書などの文献資料の内容が正確であることを証明しようとする傾向が強く、出土資料が伝世の資料を裏づけるための道具として扱われがちであったのに対して、本書の著者は外国人ということもあってこうした研究の姿勢に縛られずに議論を展開しています。内容のみならず研究の手法についてもこれからの可能性を感じさせる好著です。