「当時周公はいなかったかもしれんが、召公はたぶんいた」件について。前回紹介した師リ簋ですが、実は「師龢父[乍殳]す、リ淑紱し、恐(つつ)しみて王に告ぐ。唯れ十又一年九月、初吉丁亥、」のあと、「王、周に在り、大室に格(いた)り、位に即く。宰琱生入りて師リを右(たす)く、王、尹氏を呼びて師リに册令(命)せしむ……」と続きます。
王が一定の形式で臣下の師リという人物に職務を命じる典型的な冊命儀礼であるわけですが、注目されるのはこの銘文で師リの介添え役として現れる「宰琱生」という人物。この琱生は「共和の政」の前後である王、あるいは宣王期のものと見られる五年琱生簋(集成4292)・六年琱生簋(集成4293)、新出の五年琱生尊(『文物』2007-8)に出現します。
これらの銘文によると琱生が召公奭の子孫であること、そして彼自身は分家の当主で、本家の当主として召伯虎という人物とその父親がいたことが分かります。召伯虎は通常『詩経』に登場する召虎と同一人物であるとされます。
そしてこれらの銘文で召伯虎及び召伯虎の父親が「公」と呼ばれており、場合によってはおそらくは召公奭の嫡流の子孫である召伯家の当主が「召公」と呼ばれることがあったのではないかと考えられます。(このあたり、実は「公」という称謂についてもっと検討しなくてはいけないのですが……)
これで共和の政の前後に「召公」と呼ばれうる人物が存在したことは明らかになったのですが、ただしこの召伯家が共和の政や宣王の即位にどれほどの関わりを持っていたのかは金文からは読み取ることは出来ません。
なお、琱生自身は琱生作宮仲鬲(集成744)によると父親の諡号が「宮仲」であったことが知られ、召仲家の当主であったと考えられます。「伯」「仲」という号の関係から、あるいは召伯虎の父と琱生の父が兄弟で、召伯虎と琱生は従兄弟同士だったのかもしれません。
このほか、『左伝』の説話がウソと言うなら小倉芳彦の『左伝』分類法でも紹介すれば良かったのにとか、『孫子』を孫子が書いてなくて何が悪い!とか、せっかく諸子を取り上げるなら近年陸続と発表されている戦国竹簡を取り上げ、先秦の書とはどういうものだったのかという話をもっとしっかりすれば良かったのにとか、本書のツッコミ所は数限りなくありますが、もういい加減疲れたのでもうやめます。
次回、本書の記述をネタにバカ話をして締めます。
王が一定の形式で臣下の師リという人物に職務を命じる典型的な冊命儀礼であるわけですが、注目されるのはこの銘文で師リの介添え役として現れる「宰琱生」という人物。この琱生は「共和の政」の前後である王、あるいは宣王期のものと見られる五年琱生簋(集成4292)・六年琱生簋(集成4293)、新出の五年琱生尊(『文物』2007-8)に出現します。
これらの銘文によると琱生が召公奭の子孫であること、そして彼自身は分家の当主で、本家の当主として召伯虎という人物とその父親がいたことが分かります。召伯虎は通常『詩経』に登場する召虎と同一人物であるとされます。
そしてこれらの銘文で召伯虎及び召伯虎の父親が「公」と呼ばれており、場合によってはおそらくは召公奭の嫡流の子孫である召伯家の当主が「召公」と呼ばれることがあったのではないかと考えられます。(このあたり、実は「公」という称謂についてもっと検討しなくてはいけないのですが……)
これで共和の政の前後に「召公」と呼ばれうる人物が存在したことは明らかになったのですが、ただしこの召伯家が共和の政や宣王の即位にどれほどの関わりを持っていたのかは金文からは読み取ることは出来ません。
なお、琱生自身は琱生作宮仲鬲(集成744)によると父親の諡号が「宮仲」であったことが知られ、召仲家の当主であったと考えられます。「伯」「仲」という号の関係から、あるいは召伯虎の父と琱生の父が兄弟で、召伯虎と琱生は従兄弟同士だったのかもしれません。
このほか、『左伝』の説話がウソと言うなら小倉芳彦の『左伝』分類法でも紹介すれば良かったのにとか、『孫子』を孫子が書いてなくて何が悪い!とか、せっかく諸子を取り上げるなら近年陸続と発表されている戦国竹簡を取り上げ、先秦の書とはどういうものだったのかという話をもっとしっかりすれば良かったのにとか、本書のツッコミ所は数限りなくありますが、もういい加減疲れたのでもうやめます。
次回、本書の記述をネタにバカ話をして締めます。