博客 金烏工房

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『楊貴妃秘史』その8(完) 楊貴妃の日本誕生

2011年02月15日 | 中国歴史ドラマ
『楊貴妃秘史』第43~最終49話まで見ました。

蜀へと逃れる途中、馬嵬坡へと立ち寄った玄宗一行ですが、そこで李静忠が「こういう事態になったのも玄宗が楊貴妃に溺れ、楊氏一党がのさばっていたからだ」と羽林軍に不満を焚き付け、まずは楊国忠と虢国夫人が血祭りにあげられます。ついで楊貴妃の処刑を要求する羽林軍の将兵たち。事態を知った玉環は自ら馬嵬坡の寺で縊死する道を選びます。

そして玉環が墓に葬られると、阿倍仲麻呂・藤原清河・謝阿蛮はすぐさま遺体を掘り出し、寺の和尚が煎じた起死回生薬で蘇生させ、玉環と阿蛮を遣唐使船に潜り込ませて日本へと避難させることに。……まさかこのドラマで楊貴妃日本に渡来していた説がお目にかかれるとは思いもしませんでしたよ!中盤から遣唐使が出て来たのは、すべてこのための伏線だったと言うのかっ!!

現在の山口県に漂着した玉環一行は、隠居した大臣渡辺誠信のもとに身を寄せます。下の画像は奈良時代の日本家屋と、和装した玉環ら。





おかしいですか?色々とおかしいですね(^^;) ここで出て来る人物のネーミングも「山口県丞 大伴古麻呂」(せめて「長門守」とか表記して欲しいところ)とか「渡辺小百合」(どう見ても現代の日本女性の姓名です……)とか、ツッコミ所がいっぱいです。作中では当時の日本の都が「日本京都」などと呼ばれているのですが、制作スタッフが当時の都は今の京都にあったと思い込んでいるのではないかと不安になってきます。

で、当時の日本は橘奈良麻呂が政変をおこして実質的な天皇の座についており、その手先の大伴古麻呂によって玉環が軟禁されてしまいますが、渡辺誠信が反橘奈良麻呂の兵を挙げ、玉環を救出。孝謙天皇も復権を果たします。ちなみに橘奈良麻呂が反乱を企てたのは本当ですが、奈良麻呂の乱は密告により事が露見して未遂に終わったので、「政変をおこして実質的な天皇の座についた」というのはフィクションです。まあ、今更このドラマでどこがフィクションなのかと突っ込んでみても空しいだけですけどね……

孝謙天皇は玉環らと対面し、まずは阿蛮を遣唐特使として唐に派遣し、玉環が帰国できる状況かどうか探らせることにします。ここで孝謙天皇の名前がテロップで「藤原宮子 孝謙女皇 称徳女皇」と表示されているのがかなりカオスです。「藤原宮子」というのは聖武天皇の母の名前なんですが、どこでどう間違ってこういうことになったのやら……

唐に帰還を果たした阿蛮ですが、朝廷では太子忠王が新皇帝として即位し(すなわち肅宗)、玄宗は太上皇として隠居させられているという状況。そして李静忠改め李輔国が実権を掌握しているのでありました。李輔国の追及を逃れて何とか玄宗と再会を果たした阿蛮ですが、年老いた玄宗はほとんど玉環との思い出の中に生きているという有様。その玄宗も間もなく亡くなり、阿蛮は日本へと戻ることになったのでありました……

【総括】

ということで、中国版大奥みたいなのを期待してこの作品を見始め、実際途中までは大奥的なノリで展開していたのですが、中盤で遣唐使が登場したあたりからドラマのジャンルごと変わってしまったような感じですね。お陰様で久々に中国歴史ドラマの本気を感じさせてもらいました。ちなみに楊貴妃が山口県に漂着したことになっているのは、山口県でそういう伝承が残っている土地があるからみたいです。詳しくは下のリンク先を参照。

「楊貴妃は日本に渡っていた!?『楊貴妃の墓 二尊院』【山口】」(日本珍スポット100景)
コメント (10)
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