『長安十二時辰』第46~48話まで見ました。
檀棋は大吉酒肆から靖安司へと逃れ、何執正らに「聖人」の居場所を告げます。そして元載&王韞秀とともに手勢を率いて大吉酒肆を包囲するが、このカップル、この期に及んで太子の命と偽って「聖人」に矢を射かけさせたりしてます…… そして包囲戦に巻き込まれた女児を助け出し、酒場の前に立てかけた第八団の軍旗を守り通そうとした龍波の背にもハリネズミのように矢が突き刺さり、あえなく退場……
その頃、靖安司ではこれまで何があっても粛々と時刻を告げていた龐霊さんが林九郎のスパイだったことが判明…… スパイは姚汝能だけではなかったようです。林九郎の二女と恋仲ということでスパイ役を買って出たということですが、秘密を守り通すために自害。
そしてこれまで靖安司や張小敬のために尽くしてきた徐賓が、実は今回の事件で関係者を背後から操っていた黒幕ではないかという疑惑が持ち上がります。一方、そんなこととは露知らない「聖人」と張小敬は大吉書肆の隠し穴から徐賓の経営する製紙工場へと移動。「聖人」の身柄を引き取った徐賓は馬車で宮中に送り届けようとしますが、「お前に命令した者と一緒に引き立ててやろう」「何?命令した者などいない?本当にそれほどの能力があるなら八品官などではないはず」という「聖人」の何気ない言葉に、所詮こいつも官位でしか人を判断できないのかと深く失望。
で、今日一日様々なドラマの舞台となった靖安司の鼓楼に「聖人」を連れ込み、人質にとる形で、「自分は宰相が務まる器だ」「お前はなぜ林九郎などを重用しているのだ?」などと思いの丈をぶつけますが、ここに至っても「聖人」から「太子がお前の黒幕なのか?」などと疑われているのには見ていてつらみがあります……(もちろんそんな黒幕などいません)そこへこの二人を救おうと張小敬が鼓楼へと突入。徐賓とひとしきり問答をかわしますが、王韞秀の放った矢が徐賓に刺さり……
【総括】
唐代の長安に関する考証の成果と、中国時代劇版『24』という趣向(割とアメドラ的な雰囲気が濃厚な作品でした)、そして「蚍蜉」すなわち同胞の「無敵の人」によるテロという今日的テーマを融合させた作品でした。徐賓のような全能感を持ちながら世に容れられない人物がテロをお膳立てしていたという設定もかなり今日的な発想ではないかと思います(こういう人物は、前近代の感覚では「山月記」の李徴のように虎にでもなるしかなさそうです)。
この作品、報道などでは仮に「長安の一番長い日」という英題・邦題がつけられていますが、本当の「長安の一番長い日」は本作より10年以上後の安史の乱による玄宗の長安からの逃亡であるはずで、ラストの張小敬の「再び長安が危機に陥ったら戻ってくる」という台詞はそれを示唆するものでしょう。本当のカタストロフはドラマで描かれた事件ではないというのも、何やら示唆的ですが……
檀棋は大吉酒肆から靖安司へと逃れ、何執正らに「聖人」の居場所を告げます。そして元載&王韞秀とともに手勢を率いて大吉酒肆を包囲するが、このカップル、この期に及んで太子の命と偽って「聖人」に矢を射かけさせたりしてます…… そして包囲戦に巻き込まれた女児を助け出し、酒場の前に立てかけた第八団の軍旗を守り通そうとした龍波の背にもハリネズミのように矢が突き刺さり、あえなく退場……
その頃、靖安司ではこれまで何があっても粛々と時刻を告げていた龐霊さんが林九郎のスパイだったことが判明…… スパイは姚汝能だけではなかったようです。林九郎の二女と恋仲ということでスパイ役を買って出たということですが、秘密を守り通すために自害。
そしてこれまで靖安司や張小敬のために尽くしてきた徐賓が、実は今回の事件で関係者を背後から操っていた黒幕ではないかという疑惑が持ち上がります。一方、そんなこととは露知らない「聖人」と張小敬は大吉書肆の隠し穴から徐賓の経営する製紙工場へと移動。「聖人」の身柄を引き取った徐賓は馬車で宮中に送り届けようとしますが、「お前に命令した者と一緒に引き立ててやろう」「何?命令した者などいない?本当にそれほどの能力があるなら八品官などではないはず」という「聖人」の何気ない言葉に、所詮こいつも官位でしか人を判断できないのかと深く失望。
で、今日一日様々なドラマの舞台となった靖安司の鼓楼に「聖人」を連れ込み、人質にとる形で、「自分は宰相が務まる器だ」「お前はなぜ林九郎などを重用しているのだ?」などと思いの丈をぶつけますが、ここに至っても「聖人」から「太子がお前の黒幕なのか?」などと疑われているのには見ていてつらみがあります……(もちろんそんな黒幕などいません)そこへこの二人を救おうと張小敬が鼓楼へと突入。徐賓とひとしきり問答をかわしますが、王韞秀の放った矢が徐賓に刺さり……
【総括】
唐代の長安に関する考証の成果と、中国時代劇版『24』という趣向(割とアメドラ的な雰囲気が濃厚な作品でした)、そして「蚍蜉」すなわち同胞の「無敵の人」によるテロという今日的テーマを融合させた作品でした。徐賓のような全能感を持ちながら世に容れられない人物がテロをお膳立てしていたという設定もかなり今日的な発想ではないかと思います(こういう人物は、前近代の感覚では「山月記」の李徴のように虎にでもなるしかなさそうです)。
この作品、報道などでは仮に「長安の一番長い日」という英題・邦題がつけられていますが、本当の「長安の一番長い日」は本作より10年以上後の安史の乱による玄宗の長安からの逃亡であるはずで、ラストの張小敬の「再び長安が危機に陥ったら戻ってくる」という台詞はそれを示唆するものでしょう。本当のカタストロフはドラマで描かれた事件ではないというのも、何やら示唆的ですが……