毎年神辺町観光協会が行うアルプスウオークが今年も20日に開催された
準備運動から
今年は神辺歩こう会メンバーが参加したので210人を超えた
約10kmを歩くのだから役員の前準備は大変だろう
神辺城の真向かい高屋川をはさんで要害山(別名天神山城)へ登る
残念ながら木が伸びて手が届きそうな紅葉山は見えない
この城址の昔を振り返れば
城主山名忠興(杉原忠興)は1543年山口の大内氏を見限り山陰の尼子氏と手を組んだ
ここから約6年、神辺は6年戦争の場となり杉原盛重が毛利の城代になり落ち着いた
箱田良助(江戸時代地図作りの最高峰伊能忠敬の1番弟子)の生家
その子供の五稜郭立てこもりや明治政府の大臣を歴任した榎本武揚の生家でもある
続いて福山藩の番所跡
元禄13年の検地で福山藩は知行10万5千国から5万石が増えた
その結果、増えた土地は幕府が天領や別の藩に分け与えた
藩以外の土地になったから番所ができたのである
ちなみにこの場所は道上(中条村、三谷村など)そして北のほうでは上下番所がある
「みちのうえ」とか「じょうげ」とか読めるようで読みにくい名前になっている
30m南の小高い山に亀山弥生式遺跡がある
神辺3大遺跡の内の一つ
残り二つは大宮遺跡と御領遺跡、環濠と呼ばれる水路があり広島県ではめずらしい
早く他へ行ってほしかったが
まーいいか スタイルも参加メンバーの内では最高だからモデルになってもらった
過去に偉かった人がここに碑を建てられている
ひよどりがピーと鳴いて碑の間を飛ぶ姿に一抹のむなしさを感じた
お昼が近くなった最後の訪問地
江戸時代飢饉が続いた天明年間
農民が各地で一揆をおこす(神辺では4人が義賊として斬首されている)
その中の一つの一揆だったが農民が藩に勝ったことで有名である
天明の一揆 徳永徳右衛門○
この方が眠られているお墓がこのお寺にある
その参道をJR西福塩線が走る
気も使い、足も使った工程だったが足が痛くない
膝が多少踊るがこのくらいは○の内だ
堂々川のルリビタキよ君がいるから足が鍛えられた
今日で5日連続のお出まし感謝!
準備運動から
今年は神辺歩こう会メンバーが参加したので210人を超えた
約10kmを歩くのだから役員の前準備は大変だろう
神辺城の真向かい高屋川をはさんで要害山(別名天神山城)へ登る
残念ながら木が伸びて手が届きそうな紅葉山は見えない
この城址の昔を振り返れば
城主山名忠興(杉原忠興)は1543年山口の大内氏を見限り山陰の尼子氏と手を組んだ
ここから約6年、神辺は6年戦争の場となり杉原盛重が毛利の城代になり落ち着いた
箱田良助(江戸時代地図作りの最高峰伊能忠敬の1番弟子)の生家
その子供の五稜郭立てこもりや明治政府の大臣を歴任した榎本武揚の生家でもある
続いて福山藩の番所跡
元禄13年の検地で福山藩は知行10万5千国から5万石が増えた
その結果、増えた土地は幕府が天領や別の藩に分け与えた
藩以外の土地になったから番所ができたのである
ちなみにこの場所は道上(中条村、三谷村など)そして北のほうでは上下番所がある
「みちのうえ」とか「じょうげ」とか読めるようで読みにくい名前になっている
30m南の小高い山に亀山弥生式遺跡がある
神辺3大遺跡の内の一つ
残り二つは大宮遺跡と御領遺跡、環濠と呼ばれる水路があり広島県ではめずらしい
早く他へ行ってほしかったが
まーいいか スタイルも参加メンバーの内では最高だからモデルになってもらった
過去に偉かった人がここに碑を建てられている
ひよどりがピーと鳴いて碑の間を飛ぶ姿に一抹のむなしさを感じた
お昼が近くなった最後の訪問地
江戸時代飢饉が続いた天明年間
農民が各地で一揆をおこす(神辺では4人が義賊として斬首されている)
その中の一つの一揆だったが農民が藩に勝ったことで有名である
天明の一揆 徳永徳右衛門○
この方が眠られているお墓がこのお寺にある
その参道をJR西福塩線が走る
気も使い、足も使った工程だったが足が痛くない
膝が多少踊るがこのくらいは○の内だ
堂々川のルリビタキよ君がいるから足が鍛えられた
今日で5日連続のお出まし感謝!